第二十四話
その後のことは目まぐるしくて、ちゃんと覚えていない。
ただ同じように無事だったネフェルが、ものすごい勢いで都に飛びついてきたのは忘れようもなかった。
そんな最中、甲高く短い、ホイッスルのような笛の音がどこからか聞こえてきた。
それに応えるように、ダールを手伝ってゲルズの手を縛り上げていた若い修士の男が襟元から下げた笛を吹き鳴らす。何度か同じようなやり取りを繰り返すと、クラウディアに報告した。
「向こうも片がついたようです。」
「ゼスィを拘束したのね。」
ええ、と頷く。
「じゃあ、彼女達を安全な場所に連れて行くわ。」
彼女はそう言うと都とネフェルをその場から連れ出した。
連れて行かれたのは神舎の隅にある、ここで働く人達が使っている食堂兼休憩室のような部屋で、天井は低いが庭に面した静かな場所であった。
中に入ると、老齢の料理人がネフェルの姿を見て顔をくしゃくしゃにした。
「モリィ、大げさよ。」彼女の背をなでながら、ネフェルは言った。
「だってマーギス様が、ネフェルがいないっておっしゃるから……」
「心配かけてごめんなさい。でも、本当に大丈夫だから。」
「もう、なにが何だか判らなくて……ゲルズ司教さまとゼスィが謀反を起こしたとか……」
「それよりも、この子達に何か暖かいものを飲ませてあげて。」
クラウディアの言葉に料理人は「ええ!ええ!」と我に返る。慌てて扉を隔てた隣の厨房へと姿を消した。
そうして暖かいお茶と一緒に持ってきてくれた焼き菓子を目の前にして、都もネフェルも空腹だったことにようやく気が付いた。
二人の少女が落ち着いた頃を見計らって、クラウディアが席を立つ。
「様子を見てくるわ。今はまだ混乱していると思うから勝手に出ちゃだめよ。それに、あなたたちにも聞くことがいっぱいあるから。」
そう言って颯爽と飛び出して行く。
「女性で竜に乗ってるなんて、凄い人ね。」
ネフェルの言葉に都も同意する。
「そういえば、膝、怪我してなかった?」
ネフェルは慌てて都の前に回ってひざまずく。
「さっき転んだ時にすりむいたみたい。大したことないよ。」
「頬も?」
言われて都はそっと自分の頬に触れる。
「そういえばヒリヒリするなぁって思ってたけど……」
「血は止まってるみたいだけど……」
「まさか空からダールさんと竜が降ってくるなんて思わなかったから……」都は苦笑する。
「確かに竜は驚いたけど……それよりモリィに薬、お願いすればよかった。」
「これくらい大丈夫。」
「だめよ!顔の傷、残ったら困るでしょ!」ちょっと待ってて、と言うと都が止める間もなく隣の厨房に飛んでいく。
一人残された都は肩で息をついた。
窓の前に立ち、やけに明るく感じる空を見上げる。
「コギン……」
あんなに敵意をむき出しにしたコギンは初めてだった。あれは銀竜が本来持っている闘争心なのだろうか。だとしたら自分は止めるべきではなかったのか。けれど止めなければゲルズはもっと深手を負っていただろう。罪人に対する同情はないが、コギンに誰かを傷つけてほしくなかった。その気持ちはコギンに伝わらないのだろうか。それとも今ここでもう一度呼べば、ちゃんと自分の元に戻って来るのだろうか。
こういう場合の対処法を聞いておかなかったことを後悔する。
思い余って壁にコツンと額を押し付けた。
あまりにネガティブなことを考えていたせいか、扉の開いた音に気がつかなかったらしい。
ふと背後に人の気配を感じ、恐る恐る振り返った。
「あ…」と、溜息のような声が漏れる。
次の瞬間、涙が溢れた。
慌てて両手で顔を覆うより先に、相手の腕が彼女を抱き寄せる。ひどく久しぶりに触れるその暖かさに、都はぎゅっと顔を押し付けた。
「無事でよかった。怖い目に……逢ったな。」大きな掌が都の肩をそっと包み込む。
都は首を振り、搾り出すように言った。
「コギンが……戻って来ない……」
「クラウディアから聞いた。」
「コギンはわたしを守ろうとした。でも……あんなコギン初めてで、怖くて、そういうことして欲しくなくて……だからやめて、って。そうしたら……」
また涙が出そうになってきつく握りしめた手に、大きな掌が重ねられる。
「わたしが……しっかりしてなかったから……」
「都はよくやった。」
「でも……」
「大丈夫。コギンはちゃんと戻ってくる。それにあの時、コギンに都の所へ行けと命じたのは俺だ。」
「リュート、が?」驚いて都は顔を上げる。
ああ、と漆黒色の瞳が頷く。
「コギンは司教の警備が呪術文字を身につけていることを暴露してくれた。正直、コギンが現れた時は驚いたが、都が近くにいることは感じてた。だから……ダールと一緒に都の所へ行けと命じた。」
「コギン、リュートのことも助けたの?」
「恐らくゼスィと呼ばれている男の気配を感じたんだろう。だがそのせいで都を危険な目に遭わせた。その負い目もあって、怒りが頂点に達したんだと思う」
「怒り……?」
「コギンにとっては生まれて初めての怒り。だから今は混乱しているんだ。」
意外な言葉だった。
だが言われてみれば確かにコギンが何かに対して怒った姿は見たことがない。
「コギンは生まれて間もなく都に名前をもらって、ずっと守られてきた。その大切な主人が危険な目に遭って助けたい、守りたいと思った。」
「それが怒りにつながった?」
「多分。でもその感情を自分で制御できなくて、どうしていいか戸惑ったんだろう。それは銀竜が成長している証拠でもある。なによりコギンは都に名前をもらった銀竜だ。今までもこれからも都と共にある。だから必ず戻ってくる。」
「わたし……どうすればいい?」
「普通にしていればいい。」
「普通?」
「いつもどおりの都でいればいい。」言いながらリュートは都の目元に残る涙を掌で拭う。そのまま頬に指先で触れた。
「怪我……」
「え?あ……さっき転んだ時にすりむいた……」だけ、と言おうとして都は息を呑む。
不意に柔らかいものが頬に触れたのだ。
目の前には屈み込むリュートの姿。
かろうじて頭を働かせた末、彼の唇が触れているのだと気付いて「ひぁ」と妙な声を出す。
耳元でクスリと笑う気配。
「いいからじっとしてろ。」
もう一度、唇が傷に触れる。
不思議な感覚だった。何か目に見えないものが流れ込んでくるような、少し熱いような感覚。以前指を切った時、やはりこうして彼が触れていたことがあった。けれどその時よりずっと深いところに流れる何かを感じるのは気のせいだろうか。その流れをもっと感じたくて、目を閉じる。
どれくらいそうしていただろう。
悲鳴のような声に都は目を開けた。
リュートも身体を起こし振り返る。
と、厨房につながる扉の前で背を向けている黄色い頭が目に入った。
「ご、ごめんなさいっ。」明らかに戸惑っているネフェルの声に都は首を傾ける。
「その邪魔をするつもりはなくて……」
都も気付く。
「ち、違うの!違うの!これはそういうんじゃなくて!」
「彼女の傷を診ていただけだ。」
「そ、そう。さっきネフェルが言ってた顔の擦り傷!」こくこくと都は頷く。
ようやく振り返ったネフェルは、薬の入っているらしい古ぼけた木の箱を抱えたまま彼女に近寄る。じっと都の顔を見つめていたが、言わんとしている事に気付いて「あ、」と声を上げた。
先ほどまで赤く腫れていた頬の擦り傷が、ほとんどわからないほど治っていたのだ。
「もしかして……契約の力?」
「えと……多分……そう。」
「すごい!」
ネフェルの瞳が大きく見開かれる。
「こういうの……聞いたことはあるけど、見るのは初めて!」
「え、ええと……」ネフェルの反応の大きさに都は戸惑う。
「まぁ、見せるものでもないしな。膝は手付かずだから、手当てしてやってくれないか?」
「はい。」とネフェルは笑顔で応える。
「やっぱり気付いてた。」
「気付かないと思うか?」
都は首を振る。
結局いつだって彼は都のことを気にかけてくれるのだ。こうして傍にいる時は。
扉が勢いよく開いた。
「ここにいたか。」
外の空気と共にダールがのっそりと入ってくる。
「マーギス司教殿に引き渡してきた。そっちは随分早かったな。」ダールは気安くリュートの肩を叩く。
「この先は神舎の仕事だと言われた。」
「んで、ヨリは戻したのか?」
「戻すも何も、喧嘩した覚えもないが?」
「だってミヤコ、泣いてたんじゃねぇか?」
ダールは都を覗き込む。
「えと……それはコギンが……」
「コギン?コギンならそこの庭に落ちてたぞ。」
都はネフェルと顔を見合わせる。
やっぱり、とリュートは息をついた。
「竜を待機させるんで空いてる場所を探してたんだが……妙なところに妙なもんが落ちてるなぁと思ったらコギンだった。踏まれると危ないんで拾って同胞の上に乗っけておいた。」
「どんな様子でした?」
「しょんぼりしてた。声をかけても尻尾の先を動かしただけだったし。」
どうしよう、と都はリュートを見る。
「時間も経ってるし、だいぶ落ち着いてるはずだ。」
「迎えに行っても大丈夫?」
「あの様子じゃ、むしろ迎えに行ったほうがよさげだな。」とダール。
都は膝の手当てが終わるのを待ちかねて立ち上がった。
「一人で出るのは危ねーぞ!」
「私も一緒に行きます。」ネフェルが都の後を追いかける。
すれ違いにマーギスが入ってきた。
何事かと驚く彼に、ダールが銀竜を迎えに行ったと説明する。
「銀竜というのは、肉体的にも精神的にも強い生き物だと聞いていましたが……落ち込むこともあるんですな。」
「コギン……彼女の銀竜は幼獣から、成獣になろうとしている過渡期だ。なにをどう判断していいか迷うのも珍しくない。」
「フェスもそうだったのか?」
「コギンほどひどくなかったが、それなりに……」
「フェスというのは?」
「彼が名付けた銀竜。今はレンナで手当てを受けてますわ。」クラウディアがパタンと扉を閉めた。
「手当て?」
「どうしてそういうことになったのかは、このあほんだらに聞いてください。」
「その呼び方は止めろ。それに見当はついてるんだろう。」
「一体どれだけ心配と迷惑と労力を人に被ったか判ってるの?」
「聞きたいか?」
「聞かないわよ。大体、あたしが言いたいのは……」
と、
「そこまでにしとけや。」ダールが言った。
「司教殿が困ってる。それにラグレスだって今回の一件で身にしみただろうさ。いつまでも独身気分じゃいられねぇってな。」
「まだそんな段階じゃない。」
「婚約してるのは事実でしょ。大体ねぇ……」
「だーから、そういう話は家に帰ってからにしろ。それにクラウディアだけじゃなく、おれもお前がここに来た経緯を知りたいんでね。と、ガッセンディーアの司教殿とその弟子がご活躍の理由も、できたら……」
「なるほど。手短に……というわけには行かないようですな。」
マーギスは頷くと、扉の向こうに声をかけた。料理人にたっぷりのお茶を頼むと手近な椅子を勧め「さて」と手を組む。
「どこからはじめましょうか?」
ようやっとの再会です。頑張って引き伸ばしてもここら辺が限界みたいですな。
そして「以前指を切ったとき」というのは一作目の十話目のエピソード。相変わらず細かいところ、拾っておりやす。




