第十八話
かさり、と地面を踏みしめる。
二つの月はちょうど真上に移動していた。とすると時刻は真夜中。
ネフェルは手にした明かりをかざし、足元を確認する。
手入れされている……と言っても「空の庭」と違い「光の庭」はわざわざ来る人も愛でる人もいないため、最低限の下草を刈り、枝を打ち、かろうじて人の歩ける道筋をつけている程である。そもそも古い構造物と壁に挟まれた谷間のような場所を「庭」と名付けたのは、いったいどんな意図があったのだろう。竜の時代の遺構であることは修士たちも知っているが、創造神を信仰する者にとって興味を引くものでないし、「空の庭」に立ったときのような開放感も心地よさもない。
ネフェルとて例外でなく、あの日「侵入者だ!」という声を聞かなければここまで降りて来ることはなかった。あの時は神舎の内部を通ってここまで来たので、こんな外階段があると思わなかった。それにゼスィが男を力ずくで取り押さえたのは、今いるのとは対角の位置だった気がする。
つと右手に目を向けると、空の庭を支えている列柱が月の光に照らされて浮かび上がっていた。装飾のない無骨な太い柱が並ぶ。
柱の隙間で光がまたたいた。
服の裾をつまんでそちらに向かって歩く。
間近で見る列柱は思ったより大きく、どうやってこんな石を積み上げたのかと感心する。その下は天井の高い回廊になっていて、そこまで来ると足元も草地でなく砂を平らに固めていて歩きやすかった。
そのまま真っ直ぐ進むと建物の壁にぶつかる。
確か神舎の中を通ってこの庭に来たときも、似たような雰囲気の場所に通じていた。ならば、と思い首を巡らせると、果たして少し先にぽっかり開いた出入り口らしきものを見つけた。
足を踏み入れ明かりをかざす。ほの暗い光が最初に照らしたのは天井の絵だった。慌ててネフェルは足元も照らす。そこにあったのは砂に埋もれ、剥がれ落ちた漆喰絵らしきもの。
「もしかして……昔の礼拝堂?」
年月を経てかつて鮮明だった絵はうっすらとしか判読できず、まして手元の明かりだけでは見えづらいが、今いる場所が現在の礼拝堂の真下に当たるのではないかと思い当たる。だとしたらここがかつての礼拝堂だったのも合点がいく。
正面の祭壇があった場所に歩み寄り、張り出した壁を照らした。昔はここにあの神の姿絵が掲げられいたのだろうか。
「今の礼拝堂ができるずっと前よね?」呟きながら右手にゆっくり移動する。
壁の脇に出入り口のような穴があることに気付いた。小さいが、背をかがめれば入れないことはない。それに中を照らすと、どうやら下に降りる階段があるらしい。
頭をぶつけないように穴をくぐり、さらに下へ降りる。
石段がネフェルを導いた先は通路だった。人が二人並べるほど幅があり、壁も天井も石を積み上げた頑丈な造りになっている。
「地下があったなんて……」
呟いたところで気配を感じ、振り返った。
目に飛び込んできたのは背が高い、黒尽くめの人物。
「ここで何をしている?」
明かりに照らされた灰色の瞳がネフェルを見下ろす。
その冷たい視線にネフェルは息を呑んだ。
慌ててグッとあごを引き、上目遣いに相手を見る。
「あなたこそ……ここで何をしているのです?」
「おれは警備をするのが仕事だ。何者も入ってこないように見張っている。」
「こんな場所……誰も知りません!」
「だがあの男は知っていた。」
「あ、」とネフェルは目を見開く。
「どこから入り込んだのか知らんが、この遺構を通ったのは間違いない。」
「遺構?じゃあここは古い時代の通路……」
けれど相手は答えない。
その姿にネフェルは違和感を感じた。
何が?と思い、やがていつも手袋をはめている彼の手が素手なのだと気付く。そんな場面は初めてではないかと思ったとき、それが目に留まった。
もっとよく見ようと無意識に明かりをかざす。
刺青だった。
左手の甲に文字のようなものが彫られていて、その形に目を走らせたネフェルは「あっ!」と声を上げた。
男も気付いて舌打ちする。
「呪術文字……」
ネフェルが呟くのと同時にゼスィが動いた。
彼女が声を上げるより先にその口を塞ぎ、みぞおちに拳を当てる。崩れ落ちる少女の身体を受け止めると、肩に担ぎ上げた。
夢を見た。
そこは門に通じる洞窟にも似た場所。
目の前にいるのは背の高い男。長い髪は白く、緑の光をたたえた瞳が吸い込まれそうなほど美しい。不思議な服を着ていて、肩には白く小さな竜が止っている。
交わされる言葉はない。
けれどこの人が夢の中の自分にとって大切な人で、なのに別れなければならないのはわかっている。
細く長い指がそっと自分に触れる。
優しい暖かさと、狂おしいほどの悲しさがその指先から伝わる。
別れてしまえば二度と会うことはできない。こんなにも大切な存在なのに、なぜ離れ離れにならなければならないのか。
相手の唇が動いた。
自分の名を呼んでいるのだとわかる。
こらえていた涙が溢れた。
ひどく苦しくて切なくて、相手の名を呼ぼうにも声が出ない。
ぐし、と鼻をすする。
「ふぇ……?」
自分が本当に泣いていると気付いたところで、都は目を覚ました。
「夢……?」
しばし呆然としてから、掌で目元に残る涙を拭う。
傍らで丸まっていたコギンがうにゅ?と薄目を開けた。
「まだ……寝てていいよ。」
そっとなでると安心して、再び目を閉じる。小さな腹が規則正しく上下するのを見ていると自然に笑みがこぼれた。
こうして傍にいてくれる事が、どれほど心強く安心できることか。もちろん生き物を育てる気苦労はあるが、それ以上にこうして一緒にいることが嬉しくもあり楽しくもある。それに今では保護者の冴もコギン相手に晩酌するほど、二人暮しの生活に溶け込んでいる。
相棒。
リュートがフェスをそう呼んでいたのが、今は良くわかる。
何よりコギンがいなければ右も左もわからない異世界に、自らの意思で来なかったはずだ。
都は起きると跳上げ式の窓を開けて外を覗いた。空はうっすらと色づき始め、どこからか鳥の声も聞こえる。
傍らにクラウディアの姿が見えないのは気遣ってくれたのだろうか。遅くまでダールと二人で話し込んでいたのはうっすら記憶している。
都自身、昨日は色々ありすぎて寝付けず、ルーヴの妻が煎じてくれた薬を飲んでようやく眠りについたのだ。
入り口にかけられた布をめくってそっと伺う。当然ながら家の中はシンと静まり返っている。
「まだ早い、か。」
呟いてもう一度横になるが眠る気になれず、枕元に置いてあった画帖を手繰り寄せた。
これを手に取ったのは、神舎から戻ってカメラが手元にないことを口惜しく思ったから。せめてもう一度あの風景を見ようと思いページを紐解けば、スケッチのセンスのよさに改めて感心する。もちろん全部が「神の砦」ではなく、どこかの村の風景や道端の花を描いたものもあり、けれど共通しているのは、どれも描いた人の優しい眼差しが伝わってくるような穏やかな筆致なのだ。いったいどんな人がこれを描いたのか。そう思いながらめくった次のページで手を止める。
その絵に気づいたのは昨夜。
前後は明らかに神舎の風景を描いているのに、それだけ何を描いたのかわからなかった。
「うーん、やっぱりボケてるような……でも、他の絵は輪郭、ハッキリしてるよね。」
技法の違いなのか、まるで点描で描いた印象派の絵画のようにモヤッとしているのが気にかかる。
「記号かな?でも逆さまに見ると木?」画帖の上下をひっくり返す。
そうすると「ピンボケのレンズ越しに見た風景」に見えなくもない。でもそれは写真部員の感想であって、絵の専門家が見ればきっと違うのだろう。
「神舎のどこか……なのかな?」
あの語り部なら知ってるかもしれない。
「でも名前、聞かなかったな……」
ぱたんと画帖を閉じて溜息をつく。
眠気は完全に失せていた。
目を閉じることを諦め、畳んであった服を身につけるとカバンを引き寄せた。生徒手帳は語り部に託してしまったので、砂糖菓子がくるまれていた紙を広げるとペンのお尻で自分の額を突く。
「えーと、散歩に行ってきます……ってどう書けばいいんだろ?」
文字の通じないことがこんなに不便だと思わなかった。結局、道を歩く人の絵を描いて枕の上に置いた。
足音を立てないように忍び足で外へ出る。別棟の手洗いで身支度を整えると、ちょうど夜明けの太陽が昇ってきた。
新しい一日の始まりを予感する、清冽な空気が気持ちいい。
深呼吸するとカバンを斜めにかけて、太陽に向かって歩き出した。
不意に差し込んだ光にネフェルは目を開けた。
ひどく寒い。それにやけに静かだ。
なにか変だと思いながら身体を起こし、一体どこだろうと考える。少なくとも自室の寝台の上でないことは確かだ。こんなに堅くないし、なにより陽が昇っているなら人の声が聞こえるはず。
「朝の礼拝は終わった。」
声がした。
ネフェルは身構えて声のするほうを見る。
「あ」と溜息ともつかない声を漏らし、そして何が起きたのか思い出す。
狭い部屋の入り口扉に身を預け、ネフェルを見下ろしている男を睨み付けた。
「とんだじゃじゃ馬だったな。」ゼスィはいまいましそうに呟く。
「あなたという人は……」
「呪術文字は読めないと言ったな。」
「読めないのではなく、読まないだけ!あれは読んではならないもの。だから語り部は知る必要があるのです!」
「まぁいい。」ゼスィの灰色の瞳がすっと細くなる。
その冷たい光に思わず竦む。
「明日までお前は忙しいということになっている。篭もることに誰も疑いを持たないだろう。姿が見えずとも、気にする者はいない。」
「私をどうする気?」
「太古の力を味わってもらうだけだ。」
ネフェルは彼が何をしようとしているのかおぼろげに理解する。
「そんなことできるはずない!言葉の意味も、大気の力も……」
「黙れ!」
怒りを含んだ声が遮った。
ゼスィは感情を隠そうとせずネフェルを睨み付ける。
「お前は黙って見てればいい。どうせ何もできやしないのだからな。」
ゼスィは扉に手をかけると思いついたように振り返る。
「助けを呼んでも無駄だ。ここに来る人間はいない。」
せいぜい大人しくしていろ、と言い捨て出て行く。
ばたん、と扉が閉まる。
金属の触れ合う音。そして遠ざかる足音。
口惜しかった。
禁じられたものを目の前にしながら何もできない自分が腹立たしい。
ネフェルはぎゅっと手を握り締めると、唇を噛んだ。
本日、パソの電源入れられそうにないので予約設定での投稿です。




