第十七話
「何かあったら、声を出しますから。」
付き従ってきた黒服の警護に言ってから、ネフェルは荷物を抱えたまま身体を使って木の扉を押し開けた。
「遅くなってすみません。」
簡素な部屋に入ると、彼はいつもどおり寝台に腰掛け本を読んでいた。
すでに読み終えた本が机の端にまとめられていて、その量と勢いにネフェルは感心する。だが昨夜の会話などなかったように、彼は顔を上げる気配すらない。
もちろん見張りが外にいることも、今日は人の出入りが多いことも察しているのだろう。
どうしよう、と思いながらネフェルは立てつけの悪い窓を開いた。
身を乗り出すと空がずっと近く感じる。そして目を下に向ければ、午前中歩いた光の庭が一望できる。
意を決してネフェルは口を開いた。
「ここまで……音が聞こえるのですね。今日は開帳の日なので人も多くて……私も先ほど異国から来た方を案内しました。私と同い年くらいの、遠い島国からいらした方。そんなところにも銀竜っているんですね。」
「銀竜」という言葉に相手が顔を上げた。
ネフェルは緊張しながら頭の中で考えていた台詞を喋る。
「その方、銀竜と一緒に暮らしているそうです。大切な方から贈られた銀竜だとか。」
相手が探るようにネフェルを伺うのがわかる。
ネフェルは窓から離れると、足元に置いてあった本を机に積み上げた。
「新しい本はこちらに置いておきます。」言いながら、本と本の間に挟んであったものを一番上にさりげなく乗せる。
光沢のある青い表紙に異国の文字が書かれたそれは、掌に収まるほどの大きさで、本というより日記のように見える。
男の視線がそれを捕らえ、ひどく驚いた表情をする。彼はそれが何なのか、明らかに知っている様子だった。
ネフェルは緊張を悟られないようにしながら一歩下がった。
「夕刻前にもう一度来ます。」
「ならば今読んでいるこの続きを頼む。」男は手にしていた本を軽く持ち上げる。
「わかりました。」頷き、空の水差しと本を持って外に出る。
かちゃん、と鍵のかかる音。
振り向きもせず狭い階段を降りると、そこでようやく息を吐き出した。
語り部の姿が見えなくなるのを待ちかねて、リュート・ラグレスは寝台から立ち上がった。水差しの隣に積まれた数冊の本。その一番上に置かれた青いビニールカバーの表紙を手に取る。
「まさか……」
呟いて思わず唾を飲み込む。
緊張しながら開くと、久しぶりに見る角張った書体の活字が並ぶ。そうして終いのページを開けば、覚えのある名前がクラス、出席番号と共に書き込んであった。
ぱらぱらとページをめくって手を止める。
飛び込んできたのは見慣れた筆跡。
慌てて文字を目で追いかける。
『早瀬竜杜さま
言いたいこともいっぱいあると思うけど、今は聞かない。私も言いたいこといっぱいあるけど、今は言わないから。
こちらに来ることは自分で決めてセルファさんに連れてきてもらいました。冴さんの許可はちゃんともらってます。今はクラウディアさんとダールさんと一緒です。
ちゃんと言葉が通じているからリュートは無事なんだってわかってるけど、でもやっぱり心配でここまで来ました。
彼女はたまたま案内してくれて(私が字を読めないから、ほっとけなかったみたい)そうしたら早瀬さんの書いたメモを持っていたから、どうしたのってたずねて、それでリュートがここにいることを知りました。少しだけ話して……渡してくれると言うのでここの図書室で書いてます。
それと昨日、地下道で動けなくなっていたフェスを見つけました。クラウディアさんの知り合いのくすしさんに診てもらって、命に別状はないって。でも、おかしいの。コギンもあの中にいることを凄く嫌がって……今日もこの建物の近くまで来たら、凄く嫌がったの。
それにフェスはひどく弱ってて、銀竜がそうなることは珍しいって。調べたら、ひどく気が(字、合ってるのかな?)乱れた時にそういうことがあるみたい。それでコギンとルーラに手伝ってもらって早瀬さんに聞いたら、ルーラも昔、そういうことがあったって返事がきました。「黒き竜」を生み出したのと同じ力の可能性が大きいそうです。
私がわかってるのはこれだけ。夕方、今度はクラウディアさんかダールさんに中に行ってもらうつもりです。
追伸
今、春休み中だから安心してください。
それから写真コンテスト落選でした。でも次にがんばるつもり。
木島都より』
読み終えて、女子高生らしい文章に思わず笑みがこぼれた。
それに……と手の中のものをひっくり返す。きっと本人は無意識だろうが、こんなところまで生徒手帳を律儀に持ち歩いているのが彼女らしい。
不意に訪れた向こうでの日常が、張り詰めていた緊張を一瞬にして和ませる。
同時に後悔の念がよぎった。
気にしてなかったわけではない。日本時間に合わせたままの時計をどこかでなくしたことも災いしたが、まさか彼女が自分の意志でここまで来るとは考えもしなかった。それにフェスがずっとあの場にいたことも。
「思った以上にあの場所が安定してなかったのか……それとも……」
窓の外に目を向ける。
深く青い空に、白くうっすらと輪郭を描く二つの月が並んでいるのが見える。
「もう少し……」呟く。
「もう少しだけ、待ってくれるか?」
ネフェルが自分の部屋に戻ったのは夜半を過ぎた頃だった。
長い一日だった。
それに、ひどく色々なことがあった。
仰向けに寝台に転がると、ひびの入った天井を見るともなしに見る。服の上から胸元に手を触れる。指先に硬い感触を見つけると掌で包み込んだ。
唇が動く。
「……我、二つの世界をつなぐ者なり。黒き翼が空を覆う時、地上に住む人々は逃げまどい、空に住む者たちは天に祈りを捧ぐ。なれど黒き翼、その力衰えることなく世界の果てを越えんとす。我らと白き翼の盟友、その力、その知恵をもって黒き翼に立ち向かう。その様、全ての世の終わりかと見まごうばかり。地上の盟友その言葉もって我らを助け、空の盟友その翼をもって我らを鼓舞す。やがて白き盟友の瞳紅く輝く時、黒き翼その内に囚われり……」
聞き取れぬほど微かな声。
もう忘れたつもりだった。
けれどそれを覚えていたことに自分自身驚いた。
ふと、昼間会った異国の少女を思い出す。
同じ年頃の同姓と言葉を交わしたのは久しぶりだった。それだけでなく、彼女はネフェルが見たこともない文字を読むことができた。あの紙片を拾ってから幾度となく解読しようとしていた文字。けれどそれはどんな文献にも見当たらず、実は「文字」ではないのかも……と思い始めていた矢先だった。
それを彼女は当たり前のように読み、書き綴り、ネフェルに託したのだ。「彼に渡して欲しい」と。
それを不思議に思いながらもネフェルは訊ねた。
「あの人は……竜と共に飛ぶ一族なの?」
彼女は黙って頷く。
その瞬間、言葉にしがたい感情が全身を駆け抜けた。それはずっと忘れていた空への尊敬と憧れ、そして誇り。
だから彼女の力になりたかった。
何かを期待したのでなく、ただ「そうしたい」と思って自ら申し出たのだ。
だから彼に「ありがとう」と言われたとき、思いもよらないその言葉に驚いた。同時に彼女から託されたものを届けることができたと確信して安堵する。
「お役に立てたのなら、良かったです。」
「彼女と話をしたのか?」
「中を案内しました。字が読めなくて戸惑っていたようなので。」
「そういえば……そうだったな。色々聞かれただろう。」
見るもの聞くものが珍しいはずだと、男は言った。
その表情はとても優しくて、だからネフェルは二人が親しい関係にあるのだろうと推測した。それに異国の少女が不思議な文字で手紙を綴っている間も、少し書いては考え、どうしようかと小首をかしげ、そして照れたようにネフェルに託したことを思い出す。
「この場所を知ってもらえることは、私も嬉しいから……あの……」
「うん?」
「遺跡を……リラントの遺跡を探してたんですよね。」
「そこにあるかもしれない記録を探している。」
「ここにある記録は全てルァ神の神舎になってからのものです。それより前のものは聞いたことがありません。残っているのは砦と庭くらいだし……」
「『空の庭』と『光の庭』か。」
「ええ。それに空の民は言葉を持ちません。」
「遺したのが空の民だと限らない。彼らがここを去った、その後に記された可能性もある。」
ネフェルは顔を上げた。
「だってあれは伝承だけで……」
「何を言ってるか、わかるんだな。」
ネフェルは頷いた。推測でしかないが、そのものの話は聞いたことがある。
「なぜ……それがあると、断言できるのですか?」
「写したものを見たから。完全ではなかったし……恐らく文字を文字として認識していない描き方だった。」
「そんな話、聞いたことありません!それにもし英雄が遺したものだとしたら、誰かの目に付く場所にあるはずない。」
「同感だ。」
「少し……時間をください。書庫で神舎の古い記録を……」
「やめておけ。」
「でも……」
「彼女に……俺が何者か聞いたんだろう?君はこの神舎の語り部だ。俺に協力すれば立場的に言い逃れできない。」
「だけど……」
「それに君に何かあれば、彼女は自分が巻き込んだと後悔するだろう。」男は青い表紙の小さな冊子をかざして見せる。
「まさか!」
ただそれを仲介しただけの、偶然出会った相手をそんな風に思うはずがない。それがネフェルの考えだった。
けれど彼は困ったような笑みを浮かべる。
「残念ながら、そういう子なんだ。だからこれ以上関わらないでくれ。彼女のためにも。」
それで話は終わりだった。
口を開きかけたネフェルに彼は背を向けた。
沈黙。
それが彼女に対する気遣いとネフェルに対しての配慮なのだと、ネフェルとてわからぬではない。だからこそ、彼を説得できるほどの信念も力量も今の自分にはないことが歯がゆかった。今一度思い出してもそれは変わらない。
ネフェルは寝返りを打つ。
「英雄の記……」
その話を聞いたのは、小さかった頃。
あれはそう……ネフェルが「竜は死なないの?」と聞いたのが発端。父は広い膝の上にネフェルを抱いたまま少し考え、それから優しくネフェルを見下ろした。
「死なないわけじゃない。ただ空の民は洞窟や海辺の、人が行かないようなところでひっそりとその生涯を終えるんだ。」
「一人で?」
「そう、姿を隠すように。だから誰もその死んだ姿を見たことがない。この本に出てくる聖竜リラントも、実はどこで命を終えたかわからないんだ。」
「リラントは聖堂にいるんでしょ?」
「聖堂はリラントの瞳を奉っているんだ。英雄が『黒き竜』を封じ込めた石だよ。」
「瞳?」
「ああ。封じ込めた災いが再び目覚めないように見張ってるんだ。」
「神様は守ってくれないの?」
「ルァ神とフィカ神はもっと広い世界を守ってる。だから瞳は一族が守らなきゃいけないんだ。」
「そんなの変!」
小さなネフェルの言葉に、父親の緑の瞳が苦笑する。
「神様がいるのは空のずっとずっと上。そこから地上の民、空の民を見守っている。でも地上の民は世界中に沢山いるから、時々声が聞こえにくくなってしまうんだ。だから代わりに司祭さまがみんなの声を聞いて、神様に届けてくれる。」
「神様、忙しいの?」
「ああ、きっと、ね。」
ふーん、とネフェルは小首をかしげる。
「聖堂ってどんな所?」
「地上と空を繋ぐ一族にはとっては神聖で大切な場所。英雄ガラヴァルのお墓もあるし、彼の遺産も納められている。」
「いさん?」
「『英雄の記』と呼ばれる記録だよ。」
「古い字?」
「ああ。空の民は言葉を持たなかったから、代わりに一族である彼が書き残したんだ。そのお陰で、ぼくらは黒き竜との戦いや聖竜リラントの活躍を知ることができる。」
「父さま、見たの?」
「見ることができるのは一族を束ねる長老だけ。もっとも、英雄の記はまだ世界のどこかに遺されている、と言われてる。」
「だったらネフェル、それ探す!」ネフェルは勢いよく父を見上げた。
「言い伝えだよ。見つかってないんだから。」
「だからネフェルが見つけるの!いっぱい勉強して母さまみたいな語り部になって、それで、英雄の書いたの探すの。」
「それは楽しそうだね。」
「うん。父さまも一緒。」
そうか、と父親は目を細めてネフェルの金色の髪をなでる。
ネフェルは安心して膝の上に座り直すと絵本を手にした。
「ねぇ、父さま。」
けれど返事はない。
「父さま?」
気がつけば暖かく広い膝は消え、辺りは闇。
寂しくて不安で、その胸の苦しさに目が覚めた。
「あ……」
一瞬、どこにいるのかわからず首を巡らせる。
「私……眠ってた……?」
手をついて上体を起こす。
深々と息をつく。いつもは人目に触れぬよう首に下げている鎖が、服の外に出ているのに気付いた。鎖に下げられた重たい金の指輪を掌に乗せる。幅も広く厚みもある指輪の中央には蔦のうねる植物をあしらった模様が、裏返すと古い時代の文字と並んで小さな緑の石が嵌め込まれている。
ネフェルの誕生日に、父親が自分の指から外してくれたものだった。
「お守りだよ。」
そう言われて受け取ったものが、結局形見になってしまった。ふいに溢れそうになるものを呑み込む。指輪を服の下に押し込み、立ち上がった。
喉の渇きを覚えて、けれど水差しを忘れたことに気付く。
ネフェルの部屋を含めたこの一角は、神舎で働く修士以外の人達が身を寄せ合っている場所である。台所や庭の手入れをする彼らの多くは高齢者なので、ネフェルが多少の音を立てたところで気付かないだろう。けれどネフェルは明かりを細くし、足音を忍ばせて部屋の外に出た。
階段を降り、厨房へ向かう。
目を向けると空には月が二つ。一つは明るく白く輝き、もう一つはその陰でささやかな光を放っている。その月明かりに照らされた庭に、人影を見た気がして目を凝らす。
「こんな時間に?」
振り返れば、背後にそびえる神舎の建物は静寂に包まれている。
一瞬考えて庭に下りた。
足を踏み出すと柔らかな草の感触と、夜露の湿った香りが立ち上る。人影のあった辺りに立つと、そこはもう庭の外れだった。建物は途切れ、古く苔むした石積みの壁がそびえる。と、背の高い草の陰、ゆるやかな円弧を描く壁に沿って伸びる、狭い石段が目に留まった。人ひとり通ればいっぱいの幅で、一見すると水路にも見える。けれど明かりをかざして見れば水が流れた様子はなく、その先は「光の庭」がある地上まで繋がっているようだ。
そっと足を踏み出し大丈夫なのを確認すると、左手を壁に触れながらゆっくり石段を下りていった。
「生徒手帳」ってのも実は1作目の頭のほうに出てくる二人の出会いアイテムだったりする。
いや、まぁそれだけなんですけど・・・。




