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第十六話

 とん、と肩を(つか)まれてクラウディアは飛び上がった。

「アデル家のお嬢さんではありませんか?」

 え?とそのままの格好で固まる。

 都と別れ、コギンを腕に抱いたまま露天を物色していたところだった。

 しかしこんな場所に知り合いなどいるはずないと思い振り返る。

 相手は灰色のフードを外しながら柔和な笑みでクラウディアを覗き込むと、「やっぱり」と頷く。

「覚えてらっしゃらないのも無理はありませんな。最後にお会いした時はまだ学生の頃……」

 懐疑的(かいぎてき)だったクラウディアの中で、ひとつの名前が浮かび上がる。

「マーギス……さま?」

 相手が嬉しそうに頷いた。

「お久しぶりですな。」

「本当に!よく判りましたね!」

 注文品の本を届ける父親に付き添って、彼の勤める神舎に行ったのは随分昔の話だ。風の便りで彼が今では司教の位になったことは聞いていたが、まさかこんな場所で会うとは思わない。

「母上に似てきましたな。それにすっかりご立派になられて。」

「司祭……いえ司教さまは貫禄(かんろく)が出ましたわ。」

目方(めかた)が増えて頭に(つや)が出てきたと、はっきりおっしゃって構いませんよ。」

 老齢に足を踏み入れた司教は屈託(くったく)なく笑う。そうすると目尻に(しわ)が寄るのも、小さな目が一層小さくなるのも昔と変わらない。

「マーギスさまは今こちらに?」

「一時的に滞在しているだけです。教区は今もガッセンディーアですよ。クラウディアお嬢様こそこんな所で何を?それに……綺麗な銀竜(ぎんりゅう)だ。」

 マーギスはクラウディアの腕にしがみついている銀竜を覗き込む。

物見遊山(ものみゆさん)の付き添いですわ。他国からのお友達が中を見ていますの。この子は彼女の相棒。人ごみが苦手なので一緒にお留守番をしているところ。」そこまで言って「そうだ!」と思いつく。

「もしお時間が許すようなら、お茶を一杯、付き合っていただけませんこと?」

「もちろん!私も物見遊山のようなものですから。夕刻の礼拝まで、時間はたっぷりあります。」

 クラウディアはざっと辺りを見回し、ちゃんとした椅子とテーブルが並ぶ天幕を見つけると席を求めた。混んでいたにもかかわらずすぐ案内されたのは、マーギスの法衣姿に偉効(いこう)があったのだろうか。

 余分の器を借りてコギンの分のお茶も注ぐ。小さな竜が顔を突っ込み美味しそうにお茶を飲む様子を見ながら、マーギスは言った。

「こんなに綺麗な銀竜を見るのは久しぶりです。」

「どなたかお知り合いも銀竜を?」

「知り合いというほどではありませんが、何度か顔を合わせた方が連れていました。もう一回り大きかったが、同じように真っ白で美しい銀竜だった。まだ南の教区にいた頃の話です。」

「そんなに覚えてらっしゃるなんて、よほど印象的だったのね。」

「当時でも銀竜は稀少な生き物でしたから。」

「その方は今も?」

 マーギスは茶器を手にしたまま首を左右に振った。

「彼の名前も知りませんし、私もガッセンディーアの教区に移ってしまったのでそれきり。でも……きっと今でも共にいるのだと思っています。」

「それに銀竜は人より長く生きますわ。願っていれば、その美しい銀竜に再会することもあるんじゃないかしら。」

「そうあって欲しいものです。」

 その後、クラウディアは求められるままに家族の消息を話した。そして自分の夫のことも。

 と、コギンが突然クラウディアにしがみついた。

 同時にマーギスが「おや?」と呟く。

 その声に、露天の傍らを歩いていた黒服の男が足を止めた。

 灰色の瞳がマーギスを見て、それからクラウディアをちらと見る。

「古い知り合いに偶然会ったところでしてね、ゼスィ殿も一緒にいかがですか?」

 けれど男は無表情のまま顔をそらす。

「警備中だ。」

 抑揚(よくよう)のない声で彼は言った。

「それは残念ですな。」

 無言で立ち去る後姿を見送って視線を戻したマーギスは、小さな白い竜がクラウディアの膝の上でぶるぶる震えていることに気付いた。

 クラウディアが苦笑する。

「コギンはまだ子供なんですの。甘えん坊で、少し男性が苦手みたいで……」

「子供の人見知りと同じですな。」

 ええ、と頷く。

「それより今の方は?」

「ここの司教殿の護衛です。」

「護衛?」

「神舎の警備の責任者だと聞いています。」

「神舎に警備って普通ですの?」

「神舎の方針によります。確かにこんな日は人も多いし、物騒なことが起きないとも言えませんからね。」

 あら、とクラウディアは目を丸くした。

「ガッセンディーアの繁華街を知り尽くした司教さまの言葉とは思えませんわ。」にっこり微笑む。

 けれどその視線は、人ごみを縫って歩く黒服の後姿をこっそり追いかけていた。


「説明してもらって、良かったです。」

 回廊を歩きながら都は隣に並ぶ若い女性を見上げた。

 彼女に案内されて人の流れまで戻り神舎の歴史と見所を改めて説明してもらうと、それまでまったく興味の沸かなかったものが俄然(がぜん)面白く感じてきた。しかも二度目に覗いた礼拝堂で「運がいいわ」と言われたのだ。見れば祭壇の後ろに白い服を来た白髪の男性が立って教典の一節を読み上げており、その前には一様に膝をつき祈りを復唱する修士たちの姿があったのだ。

「ゲルズ司教さま。この神舎(しんしゃ)……ううん、この辺りの神舎で一番偉い方よ。」

 そう説明されて「へぇ」と感心するが、読み上げる内容もそのありがたさも正直「よくわからない」というのが本音だった。それでも充実感があるのは、優秀な案内人(ガイド)がいたからだろう。

「この国に来て数日だから知らないことばっかりで。本当に助かりました。」

「でも喋る言葉はお上手ですね。」

 鋭いところを指摘されて一瞬慌てる。

「えと、そういえば……ここって古い時代の遺跡でもあるんですよね。」

「ええ。聖竜(せいりゅう)リラントが活躍した時代のものと聞いています。外から見たでしょう?」

「壁、すごいです。中にも何か残ってるんですか?」

「先ほど通り過ぎた中庭がそうよ。もちろん時代ごとに手入れされてるけど、構造物としては昔のままなんですって。」

「それだけ……ですか?」

「遺跡が好きなの?」

「というか、想像がつかないくらい昔のものがこうやって残ってるって凄いなぁと思って。もちろん、残してくれた人達がいたからなんだと思うけど……」

「そうね。それに誰が何のために作ったのか、想像するのは楽しいわ。」

「何のために……ってわからないんですか?」

「記録がないの。空の民は言葉を持たないから。」

「それは……聞いたことあるかも。でも、そっか……」

 がっくりと肩を落とす都の落胆ぶりに、彼女はくすりと笑った。

「もし……彼らの記録があれば、私が真っ先に読んでいるわ。」

 微笑む緑の瞳を、都は不思議そうに見た。

「読めるんですか?」

「語り部ですもの。」

「語り部って……古い言葉を読むお仕事?」

「ええ、そう。例えばこれも、今はもう使われていない文字を集めたものなの。」

 彼女は立ち止まると、手にしていた分厚い本を取り出した。ページを開いた拍子に、挟まっていたものがひらりと足元に落ちる。

 反射的に腰をかがめて拾い上げた都は、相手に渡そうとして違和感を感じ手を止めた。二つに畳まれた紙片を開いて一目(いちもく)し、ハッと息を呑む。

 相手もその様子に気付いた。

 何か言いかけた都に素早く首を左右に振って見せ、わざとらしく声を張り上げる。

「遺跡というほどではないけど、空中庭園の下にももう一つ庭があるの。よかったら、見えるところまで案内するわ。」

 そうして返事を待たずに足早に歩き出す。

 都も慌てて追いかける。

 回廊まで戻ると中庭に下り、意図的(いとてき)に作られた小道をずんずん進んでいく。枝を伸ばした草木が敷石を隠しているのを見ると、散策する人は少ないのだろう。

 校庭ほどの距離を進むと、やがて目の前が突然開けた。

「わ……ぁ……」

「素敵でしょう。」彼女が振り返る。

 モザイク状の敷石を半円形に並べ、植物を這わせた東屋(あずまや)を設置したのは後世の人に違いない。けれど石を積み上げた手摺(てすり)壁の向こうに広がる風景を取り入れたのは、はるか昔、この空を飛んでいた種族なのだと確信する。そこから見えるのは所々崩れた古い壁と、果てしなく遠くまで広がる空だけ。

 深く青い空に都は目を細める。

 それに胸の高さまである手摺(てすり)壁の傍まで来て、ここが「(とりで)」と呼ばれる所以(ゆえん)を了解した。ぐるりと円形に建てられた壁は明らかに城壁と同じ用途で作られたのだろう。その円の内側の半分は、壁と一体構造になった構造物で埋められていて、今立っているのはその屋上に相当する。残り半分は……と下を覗き込むと壁と構造物に挟まれた深い井戸のような空間に草木が生い茂っているのが見える。

「壁で守られてるんだ……」

「今いる場所は『空の庭』と呼ばれているわ。そしてこの下は『光の庭』。」

「『空の庭』か。本当に空が近く感じる。」

「どちらの庭も聖竜リラントの時代から遺されているものだと聞いてるわ。滅多に人は来ないけど。」

 その言葉に都は思い出す。

 握り締めていた、例の紙片を彼女に差し出した。

「これを持ってた人を探してるんです!」

「あなた、この文字が読めるの?」

 都は頷く。

 緑の瞳がじっと都を見つめる。

「なぜ、あなたの探してる人がこれを持っていたと思うの?」

 だって……と都は視線を手元に落とす。

「この文字を使う人は、この国では他にいないはずだから。」

「その人が書いて、誰かに渡したとは考えられない?」

「それは……ないと思います。」

「なぜ?」

「彼の字じゃないから。」

 え?と相手が目を丸くする。

 都は顔を上げるときっぱり言った。

「これは彼のお父さんの字。だから彼が持っている以外、説明がつかないんです。」

 何より覚えのある信用金庫の名前が入ったメモ用紙が、彼の実家であるフリューゲルの電話の脇に置かれていることを都は知っている。それ以外、こんなものがこちらに存在する理由が見当たらないのだ。


 ゼスィは細く開いた書庫の扉に手をかけた。

 こんな浮かれた日にここを使うのは一人しか思い浮かばない。

 中を伺うと案の定、金髪の少女の姿があった。けれど彼女は一人ではなく、茶色がかった黒髪の小柄な少女と一緒だった。膝より少し長いズボンに斜めにかけた袋、見るからに異国の人間とわかる顔立ちは物見遊山の参拝客なのだろう。

 ネフェルは書庫の来歴を説明し、時折問いかける彼女の質問に答えている。

 ゼスィは扉を閉めた。

 今日は夕刻までこのような光景があちこちで繰り広げられるのだろうと軽く息をつく。

 それからしばらくして、ネフェルが異国の少女を伴って大階段に現れたのをゼスィは目の端で捕らえた。

「楽しかったです。」

「興味を持ってもらうことができて嬉しいわ。」

 少女は「ありがとう」と言うと会釈(えしゃく)して階段を下りていく。


 地面に降り立つのと、名前を呼ばれたのが同時だった。

 少し離れたところでクラウディアが手を振っている。駆け出すと、コギンがふわりと胸に飛びこんで来た。

「いい子にしてた?」

 うぎゃ!と都に甘えるのを抱きしめる。

「すみませんでした。中を案内してもらって、時間がかかっちゃいました。」

「愉しかった?」

 返事の代わりに都はクラウディアの袖をひっぱると、その耳元に唇を寄せた。

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