第十四話
足音を立てぬよう、そっと礼拝堂に足を踏み入れた。
昼の礼拝が終わり、外は明日の開帳に備えた準備で慌しい。普段は動きの緩慢な修士達も、打ち合わせや多くの人を受け入れる支度で右往左往しているのだ。けれどこの神聖な場所はいつもと変わらず時間が止まったような静寂を保っている。
一歩踏み出したところで、人がいることに気付いて立ち止まった。
彼は祭壇に向かい合う形で床に膝をつき、目を閉じて祈りの言葉を口にし、慣れた手順で正面に掲げられた創造神の姿絵に祈りを捧げる。そうして一連の動作を終えると、ゆっくり立ち上がり振り返る。
ゼスィがいるのを最初から承知していたかのごとく、普通に話しかける。
「ここは素晴らしい礼拝堂です。」
「昼の礼拝は終わったものだと思っていたが?」
「私の個人的な祈りです。」マーギスはにっこりと笑みを向けた。
「ゲルズ殿には許可をいただきましたよ。本当に良い姿絵です。古い時代の特徴がよく残されている。それに足元にある神の僕、オゥミとルルカの像も相当古い様式です。」
「聖職者でなく、学者になるべきだったんじゃないか。」
「そうかもしれません。けれど一介の学者であればこうして神に接することはできません。けれどここは二つの文化が融合した場所。興味は尽きません。」
「だから?」
「昔の人々にとって大切な場所だったのでしょう。当時の人が我々と同じようにこの場所でルァの姿に祈りを捧げ安らぎを求めたのだと想像すると、感慨深いと思いませんか?」
「生憎、任務を全うすること以外興味がない。」
ああ、とマーギスは溜息のような落胆した声を漏らす。
「祈りにいらしたわけではない、と。」
「下見に来ただけだ。」言いながらゼスィはぐるりと礼拝堂を見渡す。
「明日は信者が大挙してくる。無事見届けることで頭がいっぱいだ。」いつものことだが、と付け加える。
「仕事熱心でらっしゃる。ますます、ガッセンディーアにも欲しい人材ですな。」
「悪いがその気はない。」
「ずっとゲルズ殿の下でお仕事を?」
「答える義務もない。」
「ご出身はこの辺りで?」
さあな、とゼスィはそっけなく返す。
「私は南の生まれでしてね。」顔を上げ、祭壇に掲げられた神の姿に目を向ける。
「ホルドウルの南、英雄の伝承が残る山間の小さな村が生まれ故郷です。貧しいけれど穏やかで、美しいところでした。」
「……遠いな。」
「ええ。随分遠くまで来てしまいました。若いうちは学ぶことを目的に、ある時からは上に命じられるまま渡り歩いていたらいつの間にか……それに生まれ故郷と言っても、身内も知り合いもいないので長いこと訪れていません。けれど、」マーギスはゼスィに顔を向けると優しい笑みをたたえる。
「きっと今も美しいのだと思います。おっと!これ以上、お仕事の邪魔をしてはいけませんね。」
「そうしていただけると助かる……司教殿。」
「では、失礼。」会釈してマーギスはその場を離れる。
ぱたん、と扉が閉じるのを見届けてからゆっくりと祭壇に近づいた。
姿絵の前を通り、その隣に置かれた掌ほどの小さな像の前で立ち止まる。黒ずみ模様も摩滅しているのは、数多の戦いをくぐり抜けてきたからだと伝え聞いている。手を伸ばして像にそっと触れる。その触れた手で自分の左手の甲を手袋の上から押さえる。
唇が動いた。
「我が神に……全ての世界を……」
「語り部、か。」
ネフェルは振り返った。
寝台に腰掛けた男の視線は相変わらず本に注がれている。けれど今の言葉は明らかに自分に向けられたものだった。
ここ数日で、男が自分に危害を加える意思のないこと、彼の興味が古い時代にあることは把握しつつあった。けれど肝心の部分ではだんまりを決め込んでいるので、会話が成立しないのは変わらず。
けれど今まさに、きっかけは相手から投げられた。
「確かに……私は語り部です。」
「選んだ本の主題は方向性の同じものが複数ずつ。しかも一冊は他国の言語と古語が必ず入っている。文字が読めなければ内容もわからないし選びようもない本ばかり。」
よどみない男の説明に、ネフェルは一瞬あっけに取られる。
「神に救いを求める修士や信者が必ず古典を読むとは限らない。」
「確かにその通りです。あなたも読むことができるのですか?」
「拾い読み程度だ。」ぱたん、と男は本を閉じた。
彼は真っ直ぐにネフェルを見上げ、けれど何かに気付いて不思議そうに首を傾けた。
「どこか別のところで会ったことは……ないな。」
ネフェルは頷いた。
「私……この辺りを離れたことがありません。北の方には……」
ああ、と男が呟く。
「確かに黒髪は北に多い、か。」顔にかかる前髪を指先でつまむ。
「一体……」何が目的なのかと言いかけた時、男が先に口を開いた。
「語り部ならば古い時代の文字を読むことができるな。」
「それが仕事ですから。」
「では呪術を読むことはできるか?」
え?とネフェルは目を見開く。
「術は禁じられています!」
「例えば、の話だ。」
「まさか……」
「あ?」
ネフェルの怯えように男は目を丸くした。
「ったく、そんなに悪人に見えるか?」大きく肩で息をつく。
けれどネフェルは答えない。
「正体不明には変わらない、か。」そりゃそうだな、とひとりごちる。
「例えばの話だ。俺は術を使う気はさらさらないし、あんたをどうこうしようって気もない。」
「それを証明できるのですか?」
「この丸腰の状況じゃ……無理か。相棒ともはぐれたままだし。」
「相棒?仲間が……いるのですか?」
「人ではないが。」
意味不明な言葉にネフェルは眉をひそめる。
「そうだな……たとえば人が感じないほどの気の乱れを感じ取ることができるとしたら……そいつが今ここにいることを拒否したとしたら?」
ネフェルの頭の中に、ある一つの存在が浮かび上がる。
「空の盟友……」でもそれは大きすぎる。
「白き同胞に連なるもの……?」
男が目を見開く。
「もしかして、伝承を覚えているのか?」
「では相棒というのは……」
返事の代わりに男は溜息を漏らす。
「本当に、語り部だったのか。」
ネフェルは自分も疑われていたことに驚いた。それに彼が答えを否定しなかったことで、今まで確信の持てなかった彼の素性が間違っていなかったことに思い至る。
だとしたら、彼が求める答えも予想がつく。
「たとえ術を読むことができても、絶対に読みません。それが語り部であることの意味だから。それに読むことができたとしても、完全に蘇らせるのは不可能です。言葉の音も意味も、昔と今では変わってます。何より……力を言葉に託すことができるほどの気なんて、今の世界にはありません。」
「同感だ。」
まさかそんな返事が返ってくると思わず、ネフェルは一瞬きょとんとする。
「こんなところにいるのが勿体ないほど、優秀な語り部だな。」
「勿体ないのは私のほうです。歴史ある神舎でお仕事をさせていただいているのですから。」
「そう思ってるなら構わない。だが、世界はあんたが思っているより広い。」
ネフェルはぎゅっと掌を握り締めた。
「そういうことは……」平静を装うが、声が震える。
「今は考えたくありません!第一……あなたはここで何をしようとしているのです?」
「探し物をしにきただけだ。」
「ならば正面から堂々と……」
「行ったが断られた。」
「だから忍び込んだのですか?」
「結果、そうなっただけ。言ってみれば偶然だ。」
「はぐらかさないでください!」思わず声が大きくなる。
「そのつもりもないが……」
ネフェルが口を開きかけた時、入り口の見張りが彼女を呼んだ。
「ゼスィを呼ぶか?」
黒い警備服の男が囁くのを、ネフェルは首を振って制する。
「大したことではないの。私から彼に報告するから。」口早にそう言うと、もう一度独房のような部屋に戻る。
けれど彼は再び本と向き合っており、二度と顔を上げようとしなかった。
ネフェルは読み終えた本をまとめると、足早に部屋を離れた。
十四話、今回のエピソードの半分地点でございやす。後半戦はもうちょい動きが活発になるかなーと。




