第九話
「広い……」
目の前に広がる光景に、都は感嘆の声を上げた。
足元にはささやかな森、その向こうには銀色に光る水路に沿って緑や黄色に染め分けられた畑が連なる。合間には人の住む集落があり、集落と集落をつなぐ土色の道が線画のように遥か向こうまで続いている。
隣に並ぶクラウディアも目を閉じて気持ちよさそうに深呼吸する。
二人が立っているのは、なだらかな土地にポコンと突き出た岩山だった。「神が腰掛けるために岩を置いた」という伝説があるらしく、そう言われてみると頂上が平らなので腰掛けるのにちょうど良いように見える。
「でもそうすると神様って、物凄く大きい?」
「伝承なんてそんなものよ。湖が足跡だったり、島を引き寄せたり……」
そういえば、そんな話を絵本で読んだような覚えがある。国が違っても、世界が違っても所詮人の考えることは似たり寄ったリなのだろうか。
「あんまり遠くに行かないでね。」
頭上でウロウロしているコギンを見上げる。
「呼んだら戻って来るんだよ。」と言うと、すいっと高く舞い上がった。
見上げると、空を背景にした白い姿が銀色に反射している。
「ここなら銀竜も安心して飛べるだろう。」隣に立ったダールが同じように空を見上げる。
「それに眺めはいいし、めったに人は来ない。」
確かに人の足では大変な登山ルートになる。竜の力を借りるからこそ、あっさりと頂上まで来ることができたのだ。
「あなたにしちゃ、懸命な選択ね。」
「内密の話は得意なんだ。」
「で、砦にはどんな化け物がいるの?」クラウディアが問いかける。
「ありゃ元々は竜の時代の遺跡だ。」
「宗教が己の権力を誇示するため、かつてあったものの上に施設を建てるのは珍しくないわ。いわば陣取り合戦よね。」
「そういうこった。今は創造神ルァの神舎で、遺跡ほどじゃないがそこそこ古い歴史がある。」
あのう、と都が遠慮がちに手を挙げる。
何だ?と問いかけるダールの顔を緊張気味に伺いながら都は尋ねた。
「シンシャ、って何ですか?」
は?とダールは目を剥く。
「わからず聞いてたのか?」
「すみません。その……話、遮っちゃ悪いなぁ……と思って。」
「謝るこたない。」
「何となく……想像はつくんですけど……」
「多分、ミヤコが思ってる通りだ。」
「その、ルァとかいう神様を奉ってる場所……ですか?」
「そうよ。」と、クラウディア。
「ルァっていうのはこの世界が出来た時、一番最初にこの地に降り立った神様。その神が空を作り海を作り大地を作ったの。」
「だから創造神?」
「だな。」ダールが頷く。
「その次に降り立ったフィカって神が人と竜を作り出した。まぁ他にも植物だとか獣だとか色んなものを作ったらしい。普通はルァとフィカを一緒に奉ることが多いが、この神舎はルァだけを懇切丁寧に奉ってる。しかもこの辺りじゃ一番でかい。」
「だとしたら、お参りする人もいっぱいいるんですよね。」
「開帳の儀のときは、な。」
「かいちょう?」
「年に何回かご神体……って言っても姿絵かなんかだと思うが、それをありがたくも見せてくれるんだそうだ。」
まるでお寺の秘仏みたいだ、と都は思う。
「それだけ神舎が信仰を集めているとしたら、もしかして竜の遺跡って部分は話題にもならないのかしら?」と、クラウディア。
「普通は気にも留めないだろうな。だが学者連中の間じゃ有名な話だそうだ。お前さんの旦那も知ってたぞ。」
「ちょっと!」
クラウディアが腰に手を当ててダールを睨み付けた。
「一体いつの間にメラジェに会ったのよ!」
「別件のついでだ。そんなに気になるなら別居なんてさっさとやめて、向こうに行きゃいいだろう。」
「仕事の都合があるの!それにリュートのいない分を埋めるのが大変だって、あなただってわかってるでしょう?」
クラウディアの剣幕にダールは軽い溜息をつく。
「たく、へザース教授も辛抱強いったらありゃしねぇな。と、どこまで話したっけ?」
傍らで目を丸くしている都に気付いてダールは仕切りなおす。
「ようするに、神舎としての存在感があるおかげで竜の時代の遺跡は見事に無視されてる。だから調査されてないし、中がどうなってるか誰にもわからない。けど、ラグレスは何かあるって掴んだんだろうな。」
「何か、って?」
「聖竜リラントと黒き竜を封じ込めた英雄に関する何か、だよ。」
知った名前が出てきて、都は無意識に掌をぎゅっと握りしめる。
「でも仮にそれが竜の時代の遺跡だとしても、空の一族は言葉を持たない。何よりそれ、リュートの守備範囲じゃないわ。」クラウディアは眉をひそめた。
「んにゃ。それがそうとも言えなくて……奴はガラヴァルとリラントの記録を探してるよな。」
「ええ。だからずっと聖堂の書庫に通ってたでしょ。でも遺跡調査は専門家の仕事よ。」
「神の砦は五年前に今の司祭になってから随分と閉鎖的になっちまったらしい。なんでも先代の司祭が集めた膨大な蔵書があって、以前は外部の人間も閲覧できたが今は申請しても通らないらしい。」
「人嫌い?」
「学者まで受け付けないってぇのは聖職者としてどうだ?」
「じゃあ竜嫌い。」
都がえっ!と声を上げる。
「そういう人、いるんですか?」
そうね、とクラウディアは一瞬思案する。
「一族が聖竜リラントを敬っているのは知ってるわよね。隊に入るとき、あたしたちはリラントと一族の祖であるガラヴァルに忠誠を誓うの。」
「それが宗教?」
「もちろん人によって捉え方の差はあると思うけれど、空を飛ぶあたしたちが心の拠り所にしてることに違いないわ。」
「じゃあ竜が嫌いって言うのは、宗教の違い?」
「ま、そんな所だな。」ダールが言葉を引き継いだ。
「一族ってのはどうも閉鎖的なところがあって……もちろん歴史的な理由があるんだが、そのせいか神舎のお偉いさんの中には竜と聖堂が気に喰わないってのが時々いるんだ。」
「だからと言って、表立って対立してるわけじゃないわ。」クラウディアが補足する。
「昔ほど国と宗教が密接な関係にあるわけじゃないもの。ただ竜は創造神が創り出したものだから、神のほうが上の存在って考え方があるだけ。それに竜を信仰することに反目してる人はほんの一部で、多くの人たちは今でも竜を神聖な存在として見ている。」
「まぁこればっかりは感情の問題だから、何とも言えねぇんだよな。」
そう言われて、都は頭上で旋回しているコギンを見上げた。
恐らく自分に信じる宗派があれば、考え方が違うのかもしれない。けれど都も彼女の母親も典型的な日本人らしく無宗教に近かったので、その辺りどうにもピンと来ないのだ。正直、神様に頼るのは正月と受験シーズンくらい。
それに気になるのは、もしそういう宗教観のある世界であれば……。
「一族は創造神の神舎に入ることができない、とか?」
「入れないわけじゃないが、研究者でもない限りあえて近づかねぇよ。」
「普通は、ね。」
「だがラグレスの奴はそういうことに隔たりがない。まぁ、今回は膨大な蔵書とやらに惹かれた気はするんだよなぁ。」
「偏見がない……と言えばいいのかしら。カズト伯父さまもだけど、リュートも宗教や国の違いに寛大な解釈を持ってるわ。」
「それ、珍しいんですか?」
クラウディアは肩を竦める。
ダールは困ったようにこめかみを指先でつつきながら、
「仕方ないっちゃ仕方ないけどな。」
「仕方ない?」
「だって考えても見ろ。忠誠を誓ったところで、それが絶対でないことを奴は知ってるんだぜ。逆に寛大になんなきゃ門番なんてやってられるか。」
驚いて都はダールを見上げた。
「ダールさんは門番のこと……」
いたずらっ子のような笑みをたたえながら、ダールはそっと片目をつぶる。
「奴とは長い付き合いなんだ。ミヤコがどこから来たか、ってのも知ってるぜ。どうして契約したか、てぇのも。」
そうだったのか、と呟いてから都は改めて目の前の大男を見た。
「オーディの口が堅いのは確かよ。隊でそのことを知ってるのは他に上司だけだもの。」
「ま、それくらいしかできるコトもねぇしな。」そこまで言って真顔になる。
「奴は今、必死で手がかりを探そうとしてる。物語や言い伝えでない真実の記録を。」
「記録・・・」
「何でか、ってのは言わなくてもわかるよな。」
都は頷いた。
かつて封印され、今また復活した「黒き竜」の魂。それを封印する手段として伝えられてきた方法が失敗したのは都もこの目で見ているし、その方法を探していることもリュートの口から聞いていた。それに特命のような形なので手助けがないことも。
「本当に……リュート一人で探してたんだ。」
「それに関しちゃおれも言いたいことは山ほどあるが……奴らしいっちゃ奴らしいやり方だ。」
「だって、そんなの……」
ああ、とダールは頷く。
「ミヤコの言いたいことはわかる。寛大ってのもそうだが、何に対しても一歩手前で立ち止まって深入りしない。付き合いが長くても常に一線を引くのがラグレスのやり方だ。ガキの頃はそういう態度に腹が立ったもんだが、さすがに奴の立場を理解すれば、それも仕方ないと思うさ。」
その言葉を聞きながら、都は早瀬家の和室に据えられた仏壇を思い出した。それに都の母親の位牌に迷うことなく手を合わせていたことも。寛大というより身についてなければ自然にできないはずだ。今更ながらに、二つの文化を背負う意味を垣間見た気がする。同時に、自分が彼のことをそこまで理解していなかったことに気付いて情けなくなる。
都の前にダールがすとんと腰を落とした。
「難しいこと言っちまったな。」
まるで小さい子供をあやすように目線を合わせて覗き込む。
都は首を振った。
次の瞬間、ダールの大きな掌が都の頭をくしゃりとなでた。
びっくりして思わず声を上げた都は、反射的にクラウディアの背後に逃げ込む。その様子に、ダールは声を立てて笑った。
「ぎゃう!」
主人の一大事と思ったコギンが急降下する。
「大丈夫よ、コギン。オーディもミヤコが男性苦手だって聞いてるでしょ。」
クラウディアに言われて、コギンは困ったようにパタパタ宙に浮いたまま都とダールを見比べる。
「聞いてた以上だな。」
「すみません」都は泣きそうな声を出す。
「その……ダールさんが嫌いとかじゃくて……」そういうことに慣れていないから、反射的に動いてしまったと言い訳する。
「いや、こっちも悪かった。ミヤコは妹に年恰好が似ているもんでつい、な。」立ち上がりながらダールは言った。
「それに今、自分が何も知らないって落ち込んだろう。」
「そ、それは……」図星を指されて返事に戸惑う。
「ラグレスが言うには、ミヤコは自分に厳しすぎる上に負けず嫌いなところがあるらしい。」
「そんなこと……」
「こっちの宗教事情なんざ、ミヤコが知らなくて当たり前だ。」
「でもリュートに関わることなのに……」
「そりゃリュート・ラグレスに関して、だろう。ハヤセ・リュウトとしての奴はミヤコのほうが良く知ってるはずだ。」
「それ、言い訳だと思います。」
「急がなくていい、と奴に言われただろう。」
「言われました。でも……」
「だったら焦るこたねぇよ。面倒な部分をミヤコに話さなかったのは、ラグレスなりに考えがあってのことだ。今のミヤコはそいつを一人前にすることに一生懸命だろう。」ダールは都の肩に止まって心配そうに覗き込んでいるコギンを目で示した。
「だからこれ以上、負担を増やしたくないと思ったんだろう。それにただでさえ一緒にいる時間が少ないのに、それを小難しい話で埋めるのは奴だって意に沿わないはずだ。」
「だったら、とっとと戻ってくるべきでしょ。」と、クラウディア。
「そうなんだが……何か妙な確信があったか、想定外の事態が起こって神の砦に向かった……と、推測でしかないけどな。」
「婚約者を放り出すほどの想定外って何かしら?」
「それはラグレス本人に聞くしかないだろう。」
ふと、ダールが都に顔を向けた。
「ひょっとして、えらく面倒な奴と関わったって後悔してないか?」
「面倒?」
「ただでさえ面倒な『一族』の上に、もっと面倒な『門番』って肩書きまでついてくるんだ。ちったぁ、後悔したくなるだろう。」
「それは……そうかもしれないけど……」都は首を傾ける。
「でもダールさんとクラウディアさんのほうが、わたしなんかよりずっと長くリュートといるんですよね?」
ダールはクラウディアと顔を見合わせた。
「あたしは身内だから仕方ないけど。」肩を竦める。
「おれも似たようなもんだ。奴とは物心つく前からの付き合いだし、仲違いする理由もない。」
そんなに長い付き合いなのかと、内心驚く。
「わたし……こっちでのリュートのこと何も知らないから、こうやって二人の話を聞いてそうなんだ、って思うのが精一杯で……後悔とかそんなとこまで考える余裕ないのが本音、です。」
「そうか。」ダールが頷く。
クラウディアが空を振り仰ぐ。
「リュートが飛んでるのって、口惜しいけどとても綺麗よ。」
「ああ。ガキの頃から上手かったが、隊の中では一番の乗り手だ。竜と本当に言葉が通じてるんじゃないかって思うほどな。」
「そう……なんだ。」。
出会って間もない頃、一緒に空を見上げ、けれど彼が自分と違う空を見ていると感じたことを思い出す。今頭上に広がる空は広く、青く、そしてどこか深い色をたたえている。近づけたはずなのに、嬉しいはずなのに、不安は拭えない。
ほとんど無意識に胸元に手を伸ばす。
小さな銀の花に包まれた守り石を手繰り寄せると、そっと握り締めた。




