プロローグ
名前を呼ばれて足を止めた。
振り返ると、金色の髪を束ねた男が小走りにこちらに向かってくる。
「相変わらず、歩くのが早いですね。」
追いついたところで緑の瞳が笑いかける。三十をいくつか越えているが、まるで少年のような表情にカズトも自然と笑みを返す。
「そういうつもりはないんですが……休暇だったのでは?」
「明日からです。その間にあなたがいなくなると聞いて……お会いできて良かった。やはりご実家に戻られるのですか?」
「ええ。」
そうですか、と溜息にも似た声が漏れる。
「あなたのその潔さが羨ましい。」
「羨むほどのものでもありませんよ。ただ、やらなくてはいけないことを……父の残した仕事を引き継ぐだけ。それは君と同じです、スウェン。」にっこりとカズトは笑う。
黒髪に濃い茶色の瞳。異国の出らしい顔立ちに違和感を覚える者もいるが、その人懐こい笑顔と穏やかな物腰に好意を感じる者も多い。
彼もその一人。
年齢も生国も違うただの同僚に過ぎないが、時折顔を合わせて彼と言葉を交わすことを楽しみにしていた。
「あなたがいなくなると、寂しくなります。」
「そう言っていただけると嬉しいですよ。上の連中は、僕がいなくなって清々するでしょうから。」
「そんなこと……」
「僕は君ほどの重役ではないから、欠けたところで支障ありません。」
「好きでこの地位にいるわけではありません。英雄の子孫と言われても、そんな遠い昔の話……それに、あなたがいなくなると遺跡の話をする相手がいなくなってしまう。」
「それは……少し残念に思ってます。まだ君の模写したものも見ていませんからね。」
「また、こちらには戻ってくるのですか?」
「ええ。僕一人が出稼ぎに行くようなものですから。妻と息子はそのまま……」
ああ、と緑の瞳が笑みをたたえる。
「例の優秀な息子さん。」
「優秀かどうか……もしかしたら、どこかで君の指導を受けるかもしれませんね。」
「優秀な父親に飛び方を教わったのなら、わたしの出る幕はありませんよ。わたしはあなたほどの乗り手ではありませんから。それに……」
その唇が何か言おうと動いたそのとき。
「オーロフ殿!」
名前を呼ばれた。
スウェンは振り返り、「なんだ?」と苛立ったように返す。
「そろそろ会議が始まります。」
「すぐに行く。」
まったく、と息を吐き出すと今一度カズトのほうを向く。
「お元気で。」
「君も。今度戻った時には、ぜひまた遺跡の話を聞かせてください。」
スウェンは頷いた。
もう一度、呼ぶ声。
「今行く!」叫んでから会釈して踵を返す。
その姿が見えなくなるまで、カズトはその場に立って後姿を見送っていた。