夢捨者
血の描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
白いシャツが、徐々に赤く染まっていく。
男はその様子をじっと見ていた。己の着ている白いシャツが、赤く染め替えられていく様を。
左胸には、突き刺さったナイフ。それが確かに深々と刺さっているのに、痛みはない。
男の口元に笑みが浮かんだ。胸に手を伸ばし、赤く濡れて光るナイフの柄に手を掛ける。ぎゅっと握り、男はそれを一気に抜き去った。
心臓の鼓動に合わせて、胸にぽっかりと開いた穴から赤い液体がピューッ、ピューッと噴き出す。男はその赤い噴水を、恍惚の表情で見つめていた。
痛みはない。しかし意識はある。はっきりしている。
男は、自分が誰か、どうしてこんな所にいて、こんな格好をしているのか、ちゃんと分かっていた。
ピューッ、ピューッ…
噴き出す液体の量は徐々に減ってきていて、それは男のシャツを赤に変えるだけでは飽き足らず、男の周りに水溜りを作っていた。
男はその水溜りに両手を浸す。そして、夏に水遊びをする幼児のように、赤い液体を掬い上げ、目の高さからまた下に落とした。二度、三度と繰り返すたびに、口元の笑みが顔全体に広がり、深まっていく。
そうしているうちに、胸から噴き出す液体が潰えた。残ったのは、赤い穴だけ。
痛みはない。しかし意識はある。はっきりしている。
自分は誰か。どうしてこんな所にいて、こんなことをしているのか、ちゃんと分かる。
それを確認した男は、こらえきれなくなったかのように笑い出した。
男が笑うたびに身体を震わせると、その振動は赤い水溜りに伝わり文様を描く。その下に微かに浮かび上がるのは、魔方陣。
男は自らが描いたその陣が光ったことに気がつかなかった。高らかに笑い続け、その合間に切れ切れに言葉を紡ぐ。
――ふじ、み、の、から、だ。
不死身の身体を得た、と。
狂ったわけでは、ない。そう考えるだけの根拠はあった。
男が敷いている陣は悪魔を召喚する為のもの。呼んだ悪魔に言われたように、男は自らの体内を流れる赤い液体を全て捧げた。これで契約は成立した。
男は、永遠の時と、不死身の身体を手に入れた。
全ての血を失ったと言うのに、こうして生きている。考えている。このことが、何よりの証拠だ。
笑い声が一際高く響いた。
それから。
男の首の近くで、何かが鋭く光った。
サシュッ。
笑い声が、途絶えた。
甲高い声を上げる男の背後に、少女が立っていた。
全身を黒いローブで隠した、10歳程の少女。身長は140センチほどで、程よくカールした金色の髪が長く腰までかかっている。大きな二つの蒼い瞳が、無表情に見つめていた。
男の、首筋を。
少女は手に、その背格好には似合わない大きな鎌を持っていた。刃渡りが少女の身長ほどもある、大きな大きな鎌だ。少女は無造作にそれを振り上げる。その視線は、男の首筋から動かない。
少女はそのまま、鎌を振り下ろした。金色の髪が揺れる。
サシュッ
軽く空を切る音がして、大鎌は男の首を通過した。鎌は確かに通ったのに、男の胴と頭は繋がったままであった。代わりに笑い声が途絶えて、言葉を成さない叫びとなり、空へ消えいく。
少女の無機質な目が見つめる中、男の身体が音を立てて崩れる。やがてその身体から、白い蒸気のようなものが立ち昇り、それらが集まって球体を成した。その球体は光を放ちながら、空へと昇っていく。
少女の瞳はそれを追いかけ、やがて球体が見えなくなると、視線を目の前に戻した。その先には一人の男。血溜まりに沈んだ男とは別の。
全身を覆う黒いローブに、肩口でざんばらに切った黒い髪、少女を見つめる黒い瞳。儚げな少女とは対照的な、たくましい長身。
その男は声を殺して笑っていた。それを見つめる少女の瞳は飽くまで無機質。男に倣うことはない。
「何をしているの」
少女の口から漏れた響きは透明で繊細。譬えるならばガラス、高く細く鳴る風鈴。
「すまない。ついおもしろくてな」
答える男の声は笑っていたが、その目は決して笑ってはいなかった。
少女が骸に視線を落とす。男もつられる様にして、視線を落とした。
「これの、何が」
「―――さぁ」
男は肩をすくめた。答えられないのではなく答えないだけではあったが、少女にはどちらでもおなじこと。もとより答えを求めていたわけではない。
「永遠、なんてものそんなに欲しいのかしら」
少女の落とした呟きを、男は黙って聞いていた。
「私はこんなもの、いらないのに」