こぼれた溜め息
「ちょっと、隆司、聞いてよぉ」
俺の目の前に座っている幼なじみの美樹の口調は舌足らずなものとなり、目はとろんとしていて、頬はリンゴのように赤い。これは彼女が酔っている証拠である。
「ちょっと、美樹! あんた飲み過ぎ!」
「飲まなきゃ、やって、らんないのぉ!」
隣に座っている友人の優香の言葉に耳を傾けることもせず、美樹はジョッキに残っていたビールを飲み干して、大声を上げながら優香を睨んだ。
今日は同じ大学に通う友人達と飲み会をしようということになり、大学の近くにある居酒屋に集まることになったのだが、酒に強くない美樹は案の定、すぐに酔っ払ってしまった。
「だって、だってさ、悠斗がぁ」
美樹の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
悠斗というのは、美樹の彼氏。そして彼は俺の親友でもある。俺を通して二人は知り合い、付き合い始めて三年経った今でも、同じ大学に通っていることもあってか、良好な関係を築いている。
生憎、急なバイトが入ったらしく、彼はこの場に来ていなかった。
「いっつも、バイトとか何とか言ってさぁ、あたしにぃ、全っ然、かまって、くれないんだも〜ん」
涙で潤んだ瞳をして、あひる口になりながら、こちらを見てくる美樹。正直に言うと、かなりかわいいと思う。
「まだ言ってる。しかたねぇだろ。あいつの場合は事情が事情だし」
俺は心の中に浮かんだ思いを悟られまいと、わざと突き放すような冷たい口調で話した。
悠斗の家は母子家庭で、彼が高校を卒業する頃、母親が重い病気を患って入院を余儀なくされた。入院費は保険で何とかなったらしいが、学費や生活費まで母親から、たかるわけにもいかないため、彼はほとんど毎日バイトをしているのだ。
そんなことは彼女である美樹も当然知っているのだが、
「でも、でもぉ、悠斗ったらぁ、バイト増やしたのか、知らないけどぉ、最近、滅多に、会えないしぃ……」
美樹はそう言っては、優香の胸に顔をうずめて声を上げながら泣き始めた。
最近は大学でしか会えないと悠斗も言っていた。美樹が寂しいと思うのは分からなくはないが。
それから二言三言泣き叫んだ後、疲れたのか、美樹はそのまま眠ってしまった。
優香はやれやれといった表情をして、『あたし、もうすぐ門限だから、そろそろ帰るね』っと言った後、美樹が着ていた春物の柔らかそうなコートを、自分が座っていた場所に敷いて、そっと美樹の頭をその上に置き、二、三度頭をなでた。美樹の寝顔が泣き顔から、安らかな笑顔へと変わった。
「悠斗、他に女でもできたのかな……?」
美樹の口から、そんなとんでもない言葉が零れたのは、飲み会に出ていたメンバーが解散することになり、俺が美樹を眠りの世界から無理矢理引きずり出してから、しばらく経ったときだった。
今、店にいるのは俺と美樹だけ。つまり、美樹の問いは、必然的に俺に向けられたものとなる。
「あいつにそんな器用な芸当できるわけねぇだろ。お前の考えすぎ……」
「でも! 最近全然会えないし、会えたって、いつも素っ気ない態度だし! あたし、なんか不安で……」
俺の言葉が言い終わらないうちに、美樹は自分の思いをぶちまけ、視線をテーブルへ落とした。今にも再び泣き出しそうな顔をしている美樹。もう酔いは覚めたのか、口調はいつものようにハキハキとしている。
素面になっても、美樹は幼なじみの俺の前だけでは、いつも不安や悩みなんかを打ち明けてくれた。そんな些細なことでも、俺はつい嬉しいと感じてしまう。
「大丈夫だって。あいつはお前のことしか見てねぇよ。お前あいつの彼女なんだからさ、あいつのことを信じてやれよ」
「隆司はいつも悠斗の味方なんだね。信じろとか言っちゃって……あたしの不安なんか全然分かってくれない」
『幼なじみより親友か』自嘲気味な笑みを浮かべて、美樹はぼそっと呟いた。
そんなことない、俺はお前のことしか……
「お前いい加減にしろよ!」
心に浮かんだ台詞を打ち消すように、俺の口からは怒鳴り声が零れ出る。
少し声が大きくなり過ぎたかもしれない。美樹の肩がぶるっと震えた。
「あいつに女ができただのどうだの言って、何なんだよ!? お前はあいつと別れたいのか!?」
「ち、違う! 別れたくなんかない! 悠斗とずっと一緒にいたい!」
少しどもりながらも、美樹ははっきりとそう言った。改めて、美樹本人の口から聞くと、やっぱりショックだ……
「だったら、あいつのことを信じるしかないだろ。お前、言ってたじゃん。『あたしには悠斗が必要なんだ』って」
あいつがお前のことを必要としているように。
俺の言葉が穏やかなものになったためか、美樹は一瞬ほっとしたような表情を浮かべて、そしてぽろぽろと泣き出した。
「おいおい、泣くなよ。俺が泣かせたみたいだろ」
「だって隆司のせいだもん。隆司のせいで……」
美樹は涙を我慢することもせずに、ハンカチをびちゃびちゃに濡らしていく。
俺は隣に行って、胸を貸したい思いをぐっと堪えて、ただ、泣きじゃくる美樹を見つめることしかできなかった。
「今日はありがとう。隆司に話して、なんか落ち着いたみたい」
店が閉店時刻になり、終電はすでに行ってしまったため、美樹はタクシーで、俺は歩いて帰ることにした。
「同じ方向だし、隆司も一緒に乗ればいいのに」
「金がねぇんだよ。さっきの居酒屋に払ったのが、俺の全財産」
「お金なら、あたしが払うわよ。一人で帰っても、結局あたしが払うことになるから一緒のことじゃない」
「女に奢ってもらうのは、俺の性分に合わねぇんだよ」
美樹が苦笑した、ちょうどその時、タクシーが俺達の前に滑り込んだ。美樹はもう一度『ありがとう』と言った後、タクシーと共に、去っていった。
美樹はきっと俺のことを頼れる幼なじみとしか考えていない。俺が美樹に秘めた恋心を抱いているとは、夢にも思わないだろう。
「あーあ」
誰に聞かせるわけでもない、後悔が多少混じった溜め息を吐く。そして俺は、ある人物に電話を掛けることを思い付いた。
意外にも、その人物はワンコール目で出た。もっと時間がかかると思っていたのだが。
「もしもし、お前バイト終わった? は? 美樹を口説いたりしなかったかって? 開口一番がそれかよ!」
なるほど、彼はそれが聞きたくて、すぐに電話に飛び付いたんだな。焦っているあいつの顔が頭に浮かんで、俺は思わず笑みを浮かべた。
「大丈夫だって。誰があんなめんどくせぇ女……嘘です。美樹さんは大変すばらしい女性です、はい」
わざと美樹の悪口を言うと、案の定、あいつは怒鳴ってきやがった。本当に美樹のことが好きなんだな……
「そんなことよりさ。美樹のやつ今日泣いてたぞ。お前に会えなくて寂しいって」
お前がバイト増やしたのかいけないんだぞ、とは言わない。俺は、あいつがどうして急に大金が必要になったのか知っているから。
「まあ、あいつへの誕生日プレゼントのためだから、しかたないけどな。確か……婚約指輪だっけ?」
それだけじゃない。夜景の見える高級レストランも予約したらしい。そこで苦労して買った指輪を出して、プロポーズをするのだろう。ロマンチストなあいつが好みそうなことだ。
婚約指輪。できれば聞きたくなかったその言葉。だって、美樹があいつからのプロポーズを受けるのは、ごく当前のことなのだから。でも、
「まあ、頑張れよ。あいつの誕生日まで、あと一週間だからな。ん? お前も早くいい女作れって? 余計なお世話だっての。じゃあな、悠斗!」
これは俺が選んだことだから。俺じゃ美樹のことを幸福にはできないんだ。悠斗じゃなきゃだめなんだ。
「あーあ」
電話を切った後、さっきと同じような溜め息が零れる。違うのは後悔が少しも混じっていないということ。ただそれだけ。でもすごく大きいことだ。
いつかは忘れることができるだろう。この胸の痛みも、さっきから俺の目から零れ出している、この塩辛いきれいな水さえも。
都会の夜空は闇色で、星屑一つ浮かんでいない。それでも俺は祈ってしまうんだ。
美樹と悠斗がいつまでも幸せでありますように
小さな白い光が、ビルの狭間を流れていったような、そんな気がした。