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冷える朝

作者: 竹仲法順

     *

 一会社員の俺は一人暮らしのマンションで朝起き出すと、キッチンでコーヒーを淹れて、一杯飲んでから出勤準備を整える。歯を磨き、スタイリングムースで髪の毛を整えて、小型のノートパソコンや必要な書類などが入っているカバンを持つ。そして玄関にキーを掛け、歩き出した。この季節、朝と夜は冷え込む。会社まで最寄の電車の駅から二駅だ。ここは東京や大阪のように大都会じゃなくて地方の一都市だったから、そんなに大混雑することはない。ただ最近この街も何かと物騒になってきたのは分かっている。現に近所で人が刺されたり、ひき逃げ事件などが起こったりしていた。面倒なことには巻き込まれたくない。そう思っていたから、なるだけ身辺には気を付けている。幸い部屋の扉はオートロック式で、泥棒などが簡単に入れないようにしていた。朝出勤してきて、フロアにある自分のデスクに就く。パソコンが立ち上がる間に自分でコーヒーを淹れて飲む。フロアの隅にコーヒーメーカーがセットしてあって、社員は全員自分で淹れるようになっている。その代わり、たくさん淹れてあって飲み放題だ。仕事の合間にも何杯か飲んでいる。コーヒーがホットであることは年中変わりない。それに濃さもちょうどよかった。エスプレッソじゃなくて、アメリカンで淹れてある。あまり苦いものばかり飲んでいると胃腸に悪いから、ちゃんと配慮があった。

     *

「永友課長代理」

「何?」

「お客様がいらっしゃってます。東奥商事の片岡様です」

「応接室にお通しして」

「分かりました」

 平のOLの一人が声を掛けてきたので椅子から立ち上がり、応接室へと向かう。いったんトイレに入っていき、ミラーを見てネクタイが曲がってないかどうか確認してから歩き出す。俺も課長代理というポジションにいる。三十代前半で勤続年数は十年を超えた。今のポストから上がるとすれば次は課長だ。それも(じき)に見えてきつつある。歩きながらそんなことばかり考えていた。課長の伊島(いじま)はこういった商談の場には滅多に来ない。きっと課長室に詰めていて忙しいのだろう。半分は管理職同然の立場にいる俺にとって、伊島の代わりをするのも業務の一環だ。ずっとサラリーマン人生を歩みながら、そんなことばかり考え続けていた。慣れてしまっているとは言え、夏の暑いときも冬の寒いときも休みの日以外はずっと会社に出勤し続けてきている。疲れてはいたのだが、給料を取らないと生活できないのが現実だ。

     *

 元々大学時代芸術学部にいて、在学中ずっと創作などをやっていた。ゼミの担当教官から、

「ここ出ても就職口はほとんどないよ。もし就活(しゅうかつ)するんなら早いうちにやっておきなさい」

 と言われて、三年生の後期から就活し始め、四年生の前期に卒業制作である二百五十枚の作品を大学事務局に提出した。そして四年生の後期はゼミに出席する以外、ほとんどの時間を就活に()てる。さすがに今の会社の内定をもらったときは嬉しかった。もちろん卒業前まで、なぜ俺はこんな学部に来たんだろうと思うことはあったのだが、どうやら自分には芸術をやる才能はないと思って、半分諦めた形で卒業した。卒業後、すぐに会社に入社し、研修会等に出席して、サラリーマン生活がスタートする。自分では大学入学当初夢見ていた小説家への道はほとんど絶ったものと思っていた。だけどそれから先、日々淡々と勤務しながらも何か物足りなさを感じていたのが本音だ。何か自分の時間が滅私奉公(めっしほうこう)で終わるのが嫌な感じがしていて、仕事が終わったら自宅に帰り、パソコンに向かって少しずつ小説などを書いていた。物になるかならないかは別として。大学時代の同級生で文芸賞などを獲り、作家になった連中もいる。その手の人間たちの真似は出来ない。やはり諦めずに頑張ればよかったのかもしれない。今から十年ほど前はホームページやブログなど作品を発表できる媒体がほとんど普及してなかった。仮にそういったものがあったとしたら、俺もサラリーマンなどをやらずに適当にバイトなどをしながら生活費を稼ぎ、書いていたものを発表することが出来たのかもしれない。でももう終わったことだ。今は目の前に仕事がある。これから東奥商事の人間と会う必要性があって、おそらく商談だろうからまっすぐに応接室へと向かう。変なことは考えないで必要なことだけを考え続けていた。商談でまさかあんな話が出るとは思いもしなかったのだが……。

     *

「こんにちは。東奥商事の片岡です」

興譲物産(こうじょうぶっさん)の永友です」

 お互い挨拶し、名刺交換すると席に就く。付いてきていたOLに席を外すよう促し、商談を始めようとした。すると片岡が、

「永友さん。確かあなた、海生大学(かいせいだいがく)の芸術学部ご出身でしたよね?」

 と訊いてきた。

「ええ。……それが何か?」

「いえ、実はね、私も海生大の芸術学部出身なんですよ。しかもあなたと同じく文芸学科だったんです」

「そうでしたか。偶然だな。片岡さんも私と同じところにおられたんですね」

 俺の言葉に片岡が頷き、

「あなたは聞くところによると成績も抜群によくて、早いうちから就活し始めたと聞いてます。もったいないな。サラリーマンなんか誰でもやれる仕事でしょ?もし預貯金があるなら、そういった、昔夢見ていた作家の方に転進した方が断然いい。しばらくは(たくわ)えがあられるだろうし、書き物しながらでも食べていけるだろうと思われますし」

 と言った。最初は躊躇(ためら)っている。当然だろう、一度はどっぷりと浸かっていたことをまた始めるのは大変だからだ。それに才能らしい才能もないと思って半ば諦めていたから、サラリーマン生活に入ったわけで、文学・文芸への道は絶ったも同然だった。だけど片岡から促されて一念発起する気持ちがどこかから湧いてきつつある。不思議だった。そしてダメを押すように、

「私は創作の才能の方は皆無だと思って諦めました。でもたまたまあなたの卒業制作を拝読したとき、惜しいと思ったんです。あなたには創作家として天賦(てんぷ)の才能がある。そっちの方に転進してみませんか?サラリーマンやるほど、凡人じゃないと思ってますからね」

 と言われた。もう一度あの道を――、そう思ったのだが果たしてやれるのか……?今からだと、まずはネットなどで発表しながらいずれは大手の文芸賞を目指すか、電子書籍などを出すかいずれか、だった。幸い今はネットの方に機軸が移りつつある。俺の夢も捨てたもんじゃないと思ったのが本音だった。

     *

 銀行に預けていた貯金が五百万円ほどあり、しばらくはこれで生活できるなと思ったので、片岡の進言通り、作家になる道をもう一度模索するつもりでいた。おそらく厳しいとは感じていたのだが……。だけどこれだけは言える。一度は遠ざかってしまった夢をまた取り戻してみるのも悪くはないということだ。そのカケラが努力の末にいずれは結実するものと思い。あの日、片岡と別れてしまった後、また作家になる道を捨てずに生きていけると感じられたからだ。課長も辞表を受理してくれ、俺は退社後、自室で創作をし始めた。学生時代に書き溜めて古いフロッピーディスクなどに残っていた作品を全てフラッシュメモリの方に移し、一作一作丹念に推敲して読むに耐えるものにする。朝と夜は相変わらず冷え込んでいた。風邪などを引かないよう注意しながら、文筆業に専念する。あの日、社の応接室で片岡がそっと背中を押してくれたことに対し、感謝しながら……。

                                  (了)


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