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オルファース魔術機関第三別館の別名を資料館という。
その三階の東端にはカイ・シアーズの執務室が、西端にはギルバートの執務室がある。
ネオが都へ戻るべく夜空を滑空していた時、アルフィードはギルバートの荷物に手を付けられずにいた。
ボーッと部屋を眺めていた。
壁紙は落ち着いたモスグリーン。
若い緑と土の匂い。
バルコニーからは春の温かく明るい陽差し込む部屋。爽やかな風の注ぐ部屋。その主は、クセのある赤い髪と人なつっこい笑顔がトレードマークの第一級魔術師。多くの魔術師に慕わている三十七歳。オルファース副総監の一人である彼の名は、ギルバート・グレイニー。
よく言えば生活感のある、悪く言えば散らかった部屋だった。
その中に紛れ込むように厚くニスの塗られた濃い色の机があって、走り書きのあるメモ用紙が散らばっている。その上に何冊もの本が乗せてある。散らかし放題だ。ついさっきまで、彼がそこで作業をしていたのではないかと思う程に。
ごく何気ない日常の背景……主役はもういない。
散らかった部屋が、あまりにも何も変わらないその部屋が、アルフィードには痛くてたまらなかった。手に取る事も片付けるなんていう事も到底出来なかった。
最後にこの部屋を訪れた時はちゃんと主が居た。居なくなってしまうだなんて考えもしなかった。あり得ない事だった。
あの時は、積んであった本を渡された。アルフィードの旧友であるヘリティアやルヴィスの話もした。
目線を移すといつも適当な位置に動いているソファーが見えた。ソファーはここに残り、次の副総監に使われる事になるのだろう。
部屋の入り口近くの棚にティーカップが並んでいる。ここで飲む紅茶はいつも味がまちまちだった事を思い出してしまう。極上に美味しい事もあれば、薄すぎて不味さに吹いた事もある。
古代ルーン魔術についても少し話した。
もっと、もっともっと、もっとずっと、遡ってもゆける。
アルフィードが弟子になったばかりの頃、彼はまだ副総監ではなかった。この部屋を初めて使うという時──副総監になった後、呼ばれた事も覚えている。
アルフィードは何人もの師を渡り歩いて彼に辿り着いた。
農民出身だった事、優秀すぎた事、ちょっとヤンチャが過ぎた事……そんな理由で師から師へと紹介され、転々としていたアルフィードに「俺んとこ来るか」と彼は言った。誘うというより、既に決まった事のように。
何度も何度もそんな事を思い返しては、最後、“あのシーン”の回想へと戻ってゆく。
──背中。
首から真っ赤な血柱。
そして、頭だけの……。
あれだけ鮮烈に逝った。もう間違いなく居ない。
どうしようもなく、死んでしまった。
もしかしたらどこかで生きているかもしれないという幻想を抱く隙もない程に。目の前で。
この部屋は早く片付けた方がいいのだ。
その『何気ない日常』は、もう二度と繰り返されない。共に過ごす事は無いのだ。変えようのない事実が、ひいてはかえす波のように襲うだけ。
いざと思えど、指先すら動かない。
夜が明けて、部屋に再び陽の光が注ぎ始める。
アルフィードがどれだけ動かなくても、何もしなくても、時間だけは過ぎていく。
──腹が、減る。
アルフィードはおでこを人差し指の腹で一文字に強くなぞった。
本当は眠いのかもしれない。目は冴えているのだが。
朝になってしばらくしてから、アルフィードは食べに部屋を出た。
第三別館の階段を下り、玄関口を出る。
目の前に立ちふさがる人物がある。
アルフィードはげんなりした。横を向き、あからさまに溜め息を吐いて言う。
「用はない。俺の前に現れるなと何度か言ったはずだぞ」
今は見たくない顔だ。
不吉と罵られる紫の瞳をしていようがそれまでは特に気にしていなかった。が、いざ不幸があったとなると、出来れば避けたいと心底思うようになった。
──まだ、こいつが殺したとしか思えないから。
立ちふさがったまま、彼女は右手を拳にして前へ突き出した。そっと手の平が上を向き、開かれる。
「これをあなたに渡す」
少しかすれた低めの、だが、はっきりした声で彼女は言った。その目はどこを見ているのかわからない。
うっすらと青味を帯びる石が一個、その少女の手の平にはあった。
あれから都に戻った後、こうやって会う度にただこの動作と言葉を彼女は繰り返す。感情も無く。
アルフィードはこれまでと同じように彼女から目を逸らして立ち去った。彼女は……ユリシスは追っては来なかった。
どこか遠くへ行く気にもなれず、オルファース魔術機関のテラスでボリュームのあるモーニングセットを三つ頼んだ。あっさり平らげると、アルフィードは再びギルバートの執務室へ足を向けた。
今、食べたものの味も、見慣れた景色も、特に何の感情も抱かせなかった。もちろん、朝になってぽつぽつと現れ始めた魔術師達とすれ違っても何も思わなかった。
ただ、第三別館の前に居座り続けるユリシスだけが煩わしくてたまらない。
「これをあなたに渡す」
そう言って、また手の平を上にしてこちらに差し出してくる。相変わらず、淡い青色の光を放つ紺呪石がのっかっている。
それを素通りしてアルフィードはギルバートの執務室へと戻った。
モスグリーンの壁紙の部屋はとても散らかっていて、落ち着く。
部屋の中央、バルコニーを眺められる方へソファーの向きを足で押しやって、どさりと沈み込みように座った。しばらくぼーっと天井を眺めていた。
一日の終わりが近付き、部屋に夕日が差し込み始めた頃、ドアがノックされる。
ゆっくりと立ち上がり、ドアを開けると女が立っていた。
オルファース本部で見かけた事がある女だ。顔は覚えているような気がする。名前は出てこない。ほっそりとしているが、女のわりに背が高い。三十歳から四十歳位だろうか、金髪をアップでまとめている。年齢が量りにくい女だ。真面目でキツそうな性格を思わせる顔つきをしている。
女はドアとアルフィードの隙間から部屋を覗き込んだ。
「まだ……ですのね。早く手を付けないと、上の方々が口を挟んできますよ」
女の声は見た目の印象と違って随分と柔らかかった。やや早口で、突き放して言っているような感じではあったが、表情はほんのり微笑んでいるように思えた。生まれもった顔つきが少々キツめのせいか、やはり厳しくは見える。
「何の用?」
長身のアルフィードは部屋を隠すようにして、女を見下ろした。女はアルフィードを見上げ、手に持っていた書類数枚をアルフィードに渡した。不審がりながらアルフィードはさっと目を通す。
「サインの必要はありません。皆さん義務になっておりますので」
「……こんな規則、あった?」
「何百年も前からありますよ」
やはりやや早口で突き放すような言い方をしてくる。
「まじで……」
アルフィードは表情を歪めた。
「あなたが今まで弟子を一人も取ってきていない事で抵抗があるなら、いい機会ですね。彼女の新しい師が見つかるまでの間ですから、深く考えずやってみればいいでしょう」
「…………」
「それから、第五級未満の魔術師の交流戦も近いですから、がんばって指導してあげてね。彼女の第九級魔術師資格取得は特例中の特例、ついこないだでしょう? 魔術師見習いになったばかりではレポートの提出は無理ですものね。参加だけでいい交流戦になるでしょう?」
研究タイプの魔術師と魔術師見習いにはレポートの提出が、また戦闘タイプの魔術師と魔術師見習いには交流戦の参加が、進級して最初の提出期限、最初の交流戦にそれぞれ義務付けられている。以後、進級するまでは自由参加となる。
アルフィードは女をじっと見た。
「あんた名前は?」
「サラよ。サラ・フィード」
「サラ……ね」
アルフィードはニヤリとして言った。
「あんた、冷たそうなのに結構おせっかいだな」
サラはニッコリと微笑んだ。
「あなたも、噂よりもずっと繊細そうね」
そう言ってサラは去って行った。颯爽という言葉が似合う。
嫌いなタイプが多いオルファースにしては「マシだな」とアルフィードは思い、記憶にその名を刻んでドアを閉めた。
書類は、アルフィードが仮に師を引き継ぐようにという『指示書』とギルバートとユリシスが交わした『師弟契約の写し』だ。
指示書は師弟契約の写しに書いてある内容を、ユリシスが新しい師を見つけるまでの間アルフィードが引き継ぐべしと書かれたものだ。
第五級未満の魔術師見習いが師を亡くした場合、兄弟弟子の中で第五級以上の魔術師に師事する事が決まっている。ちなみに、兄弟弟子がいない場合、あるいは第五級以上の魔術師が兄弟弟子にいない場合、オルファース魔術機関の予備校が該当の第五級未満の弟子の監督をしつつ師を斡旋する。あくまで監督なので、指導する事はなく、魔術を勝手に使用していないかの見張りにすぎない。
アルフィードはいつも危険と隣り合わせの依頼を受けていたから、死ぬとしたら師より自分の方が先だと思っていた。こんなオルファースの決まり事、聞き流していた。
「それにしても…………なんだこれは……」
ギルバートとユリシスの間で交わされていた約束事──師弟契約を見てアルフィードは戸惑わずにいられない。
『一つ、この師弟関係に金銭は一切発生しない』
『二つ、魔術の使用に関して師は弟子の意思に一切を任せ、その責は全て師が負うものとする』
『三つ、師は弟子を全力で護る』
なんて少ない。
「ギルは……知ってたってのか?」
ユリシスが古代ルーン魔術の使い手だった事を──。
実際には、この契約を交わした時、ギルバートはユリシスが魔術を使えるという事を知っていた。紫紺の瞳についても少し……。古代ルーン魔術の使い手であった事までは知らなかったが。
アルフィードが気になるのは三つ目。
ギルバートはユリシスを護ろうとしていたという事がはっきりとわかる。ギルバートが傍に居てやれない間の護衛依頼なら受けた記憶はある。今考えれば、妙な感じがする。あの古代ルーン魔術さえ使いこなすユリシスを、護る……?
──どういう事だ。
ユリシスが何かに狙われている事は伝わる。それも大きな何かに。
最後の最後、ギルバートはユリシスを庇った……。
だが……何がある……?