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(3)
ネオがスティンバーグ家の領土内避暑地の別荘に着いたのは昼を過ぎた頃だった。
南は海に面し、西に大河を、東に森を抱える自然豊かな土地だ。農作物も豊富に育ち、人々は健やかに過ごしている。特にこの辺りをミルシァ村といった。
ネオの両親は芸術や娯楽に傾倒して政治はおざなり、領土内の状況も祖父母の代のままだった。スティンバーグ家の領地はぬるい取り立ての税金さえ上げず、領民はのんびりと穏やかに発展を続けていた。支配者が世界的に魔術界のトップであるオルファースの長であった事も犯罪や反乱の抑止力として働き、平和な土地となっていた。
上空からからミルシァ村全景を眺めた。
転々と建つレンガ造り家々の煙突から、昼の支度をしているのだろう、煙が糸のように上がってきていた。そんな中、小高い丘に一際大きな家、邸がある。4階建てで室数は50近い。ネオはその庭へスーッと降下した。ここがスティンバーグ家の別荘になる。
「──まぁまぁ、ネオおぼっちゃま! お久しゅうございます!」
降り立ってすぐ、隣接する小さな離れの方から女性の声が飛んできて、ネオはそちらを見た。
「やぁ、ターナ。元気そうだね」
ネオは幼い頃の記憶を辿り、女性の名を呼んだ。彼女はターナ・ニア・ミルシァといって、別荘の管理を普段してくれている人だった。別荘は離れに住む彼女の一家がいつも丁寧に手入れをしてくれている。
ターナは40台後半の大柄──太めの女性だった。両手に洗濯物を抱えている。いつ、スティンバーグの人間が来てもいいようにシーツにカーテンの洗濯、掃除も決して怠らない。
駆け寄るターナはネオを上から下まで何度も眺め見る。
「まぁまぁまぁ……! 大きくなられてっ! 以前お会いした時はまだこーんなお小さくて」
膝下まで右手を持っていく様子にネオは思わず微笑った。
「いや、そこまで小さくはなかったと思うよ?」
然様でございますか? とターナも笑う。日に焼けた笑顔は清々しい。
「ネオおぼっちゃま、お昼ご飯はもうお召しに?」
「いや、まだだけど……」
朝食もとっていない。
「でしたら、すぐ支度致しますっ! 昨日、とっても美味しいジャムが出来たんです、是非召し上がって頂きたいと──」
満面の笑みを浮かべて大きな声で話すターナに、ネオは「いや……」と割って入った。
「それは嬉しいのだけれど、用事があって来たんだ」
「さ、然様でございますか……」
「大洪水の時、人々を救った魔術師が居たと思う。その魔術師の話を聞きたくて、この村に来たんだけど、ターナは何か覚えていない?」
ネオが魔術師を志すきっかけとなった事件は、幼い頃、遠くからではあったがここを訪れていた時遭遇した災害、正体不明の大洪水だ。
「大洪水でございますか……。もう10年以上も前の事ですから、ん~……魔術師ですか……男の方だったと思いますけれど……」
どうにも頼りにならない。だが、ターナは氾濫した大河のほとりではなく、この小高い丘のこの邸の敷地内の家に住んでいるからあまり記憶に残っていないのだろう。それに、あの魔術師はすぐに立ち去ったとネオは記憶している。
「僕の記憶が間違っていなければ、洪水に飲まれてなお生き残った子が、魔術師に助けられていたと思うんだけど? それは覚えてる?」
ネオの問いにターナはビクンと反応した。一気に青ざめていく。
「お、おやめください! あの子は……メライニは魔女……いえ、悪魔ですっ……! 生き残ったのは体だけ、心は……心はずっとっ……」
そこまで言ってターナは「はっ」と我に返り、目を泳がせた。
挙句「し、失礼しますっ」と慌てて厨房の方へ走り去ってしまった。
ネオはふうとため息をついた。
この村を訪ねたのは魔術師を目指す前、まだ幼い頃、親に連れてこられて以来。あの頃から続く何かがあるようだ……。
ネオは邸には寄らず、村の中心へ向かった。
助かっていた子は、メライニというようだ。
別荘の敷地を背の高い木々が囲んでいる。芝を割るように轍が続いている。露出した土は明るい茶色をしていて道は乾いていた。坂を下っていくと広葉樹の木々も途絶え、果物畑がずっと広がる。
温かいというより暑い気候だが、空気はカラッとしていて過ごし易い。
──が、次の瞬間。
ネオの肌をネットリとした粘着質の液体がこびりついたような感覚が襲う。あまりの気持ち悪さに呻いた。
──っ……何だ……これ!?
慌てて周囲を見回すが、何も無い。
今のは何かの気配を感じ取った周囲の精霊達からの警鐘だ。
「どっちから……」
すぐにわかった。
西だ。
大河の方から妖しい気配が流れて来る。
今から13年前。
今日のように乾いたある晴れた日。
ミルシァ村の西の大河が突然氾濫し、低地帯は洪水に飲まれた。
たまた通りかかった魔術師の師弟が奔走し被害を食い止めたものの、大河のほとりに住んでいた85名が死亡、172名が行方不明となった。
ネオは異変を感じて村の中心へ急いだが、その慌てた様子は村人達に驚かれただけだった。
村人達は足を止めたネオをぽかんとした目でしばし見ていたが、すぐにそれぞれの立ち話や仕事に戻った。
こちらを見た村人達はのどかなものだった。
井戸の周りで話し込んでいる女達。笑いながら追いかけっこをしている子供達。漁具や農具の手入れをする男達。
この辺に先ほどの妙な気配の原因はないか気を配りながら、ネオは井戸へと近寄った。
「こんにちは。少し話を聞いてもかまわないだろうか?」
ターナとは親しくても、村の人々一人一人と親しいわけではないので、ネオは言葉に注意した。
女達は20後半の子供達の母親だった。彼女達にとってネオはただのよそ者にしか映らない。ヒソヒソとささやきあっている。その向こうから、腰を曲げた老婆が近づいて来た。
「おやおや、ラヴィル・ネオ・スティンバーグ様ではありませんか」
腰は曲がっているものの、言葉はしっかりしている。
「フライレ! 貴女に会えて良かった」
ネオは彼女の事も覚えていた。ネオは物事を忘れる事の方が珍しい。村人達の間から彼女を「長老」と呼ぶ声があがる。井戸の周囲に居た女らが道を開けた。
ネオがフライレと呼んだ老婆はこの村で長老を務めている。以前、幼い頃に訪れた時も彼女は長老で、腰を曲げて出迎えてくれたものだった。
フライレはふふふと微笑った。
「大きくなられて……」
「突然来てしまって申し訳なく思います。貴女も、村の皆さんも元気だろうか?」
「ご覧の通り、皆、元気にやっております。ラヴィル様もお元気そうで何より何より……」
フライレ長老はネオの祖父で前のオルファース総監のラヴィル・オル・スティンバーグを心から尊敬している。その事はこの村では有名な話だった。ネオはその名を受け継いでいた。それ故か、ネオに対してもフライレはひとかたならぬ配慮をしてくれる。それに甘えてはならないと、ネオは肝に銘じずにはいられないのだが、今も、ネオをフルネームで呼び、村人達によそ者ではなく領主の血縁者だと知らせてくれた。ありがたい事だ。
そうこうしている間に村人達が続々と集まってきて、ネオとフライレの周りに輪を作った。
「ミルシァ村にどのようなご用でございましょう?」
村人達も聞く前で、ネオはうんと頷いた。
「大洪水の時、人々を救った魔術師が居た。その魔術師の話を聞きたくて、この村に来たのです……が、その前に……この村で何か変わった事はありませんでしたか?」
村人達は「変わった事……?」とざわざわと話している。それが済むのを待った。
一人、中年男性が挙手して進み出た。
「最近と言うわけでないが……大洪水以降、日に何度か村全体が湿気る時がありますよ」
村人達がうんうんと頷いて、誰かしらが「さっきも湿気ったな」と話している。
「たしかに、大洪水の前と後ではそのような変化がございます。逆に大洪水以降はそれ以外の変化はございません」
ざわつきをおさめ、フライレがまとめた。
ネオはまた「うん」と頷いた。
先ほどの異変は大洪水以後、日常的にこの村を襲っているらしい。
「──あっ!」
井戸の周りで話していた女達のうちの一人が声を上げた。
皆がそちらを見ると女は申し訳なさそうにキョロキョロと周りを見た。フライレが「どうした?」と聞くと女は少しだけ前へ出た。
「一昨日から、村に旅の方が滞在しています。今日は朝からどこかへ出掛ける姿を見ました」
「マルシェリ、宿にそういう者が泊まっているのかい?」
フライレは建物に近いの方に居た中年女性に問い、彼女は「はい」と返事をした。
「男性3名、女性2名。計5名の旅の方ですが」
それは関係ないだろうとネオは思った。例の異変が以前からのものならば。
「ありがとう。では、魔術師について覚えている人は居ないだろうか?」
今度はしんと静まり返ってしまう。13年前の大洪水で、身内に不幸があった者も少なくないからだ。それを承知で尋ねている。
フライレがゆっくりとネオを見上げた。
「師の方は覚えております。40か50の男でした。村人達をせっせと高い所へ、ラヴィル様のお邸のある方へと運んでくれていました」
ネオが記憶している風景で一番印象的なものがある。
邸の前に集まった自分の一族の者達。その周辺に村の者らが続々と避難してきていた。泥まみれの村人も何人かいた。確かに、男の魔術師が空へ舞い上がっては村人を連れて来ていた。何度も。洪水の中へ潜ったりもしたのだろう、全身濡れていた。だが、ネオの心に最も焼き付いているのはその魔術師ではない。
ずぶ濡れで一度邸にやって来て、その師という魔術師と何か話をしていた少年が居た。少年は、笑って、森へと消えていった。5歳の頃の記憶なので、少し霞がかっている。ターナやフライレのように何度も会って話したわけではない……遠目に見ただけの少年。
大人達が不安に心細くなっていっていく中で、笑って姿を消した少年は印象的だった。
それが昼過ぎだったのも覚えている。
そして、魔術師と避難した村人達、さらにネオの一族の者達が見守る中、夕方頃、大規模な洪水は風呂の栓を抜いたように引いていったのだった。
今のネオならわかる。自然に引いたのではなく、何らかの力で引いていった事も。それが、魔術であろう事も。あの快晴で、乾いていた日の出来事。大河の水位も標準より低かったにもかかわらず起こった大洪水が、人の手によるものであろう事も、今ならわかる。
大洪水が引いた後、あの少年がやはりずぶ濡れのまま、一人の女の子を連れて戻ってきた。
女の子を女長老フライレが抱きとめた。それが先ほどターナの言っていた生存者“メライニ”なのだろう。
──そう…………。
今、記憶が鮮明になる。
呆然として抱きすくめられる“メライニ”と幼いネオは目があった。
“メライニ”の瞳の色は……紫……。