(089) - (2)
(2)
オルファース本部のドームの屋根全体に魔術の明かりが灯る。地上の月と呼ばれ、闇を照らし明るみにする。
中庭で一人、ネオは立ち上がった。
陽が暮れてしまった。
テラスのカフェの前を通ると、ポツポツとオレンジの光を発っする紺呪灯が見え、とても落ち着いた雰囲気に吸い寄せられた。空腹になっていたので、食事はとって帰る事にした。
隅っこで空いていた二人がけのテーブルに、壁を背にして座る。すぐにウェイターが来たので、紅茶とサンドイッチを頼んだ。
魔術の光で明るい店内。テラスにも紺呪灯が並び、暗くはなっていない。ざわざわと詳細の聞き取れない話し声があちこちの客から聞こえてくる。客の大半が魔術師だ。こちらを見てヒソヒソとうわさ話をしている者も見えたが、七光りの強すぎるネオは慣れているので気にしなかった。
──ユリシスは、僕に何か言いたかったのだろうか?
テーブルの上で手を組み合わせ、左右の親指を交互に上へ下へとくるくる回した。
以前、悩みを聞いてもらったのに、ひどい事をしたかもしれない。
ネオにしては珍しく深い溜め息を吐き出した。すぐに運ばれた食事にもなかなか手を付けず、何度か溜め息を繰り返した後、諦めるように少し冷めた紅茶をすすった。
どういう顔をして、何て言えばいいのかわからなかった。
傷ついているだろう彼女を、また傷をつける事になったらと思うと、起き上がれなかった。寝たフリなんてせず、起きてちゃんと向かい合えば、言葉は出てきたのかもしれない。シャリーは、ユリシスを探し出し、飛び込んだ。それは勇気……──。
「……違うな……」
ポツリと呟く。
──……違うと思う。
ただ、ユリシスを心配した。どんな言葉を発しようと、それを必死で伝える一途な思い。だから、ユリシスも逆にシャリーを気遣ったんだ。
シャリーはそういう事を簡単にやってのける。誰かの為に心を全て傾ける。自分の為じゃなく、誰かの為に心をすべて。
思い浮かべる──銀色で真っ直ぐの髪をふわりと風に乗せ、微笑むシャリー。彼女は、とても綺麗だと思う……すべて。
だから、自分が余計汚く思えて仕方がなかった。
卑怯だ。
それから、ネオはただ悶々と自分を責めていた。
立てて皿に盛られていたサンドイッチのパンが一枚、具から剥がれてパタリと倒れると、そのパンの端をつまんでいじった。パラパラと粉になって散る。
──こういう女々しい自分も好きじゃないんだけどな……。
「元気、なさそうですね?」
横から声がかかり、ネオはハッとして顔を上げた。
「カイ……さま」
がたがたと椅子を揺らして立ち上がろうとするネオをカイ・シアーズは軽く手を振って制した。
「カイでかまいませんよ。そこ、空いてますか?」
カイ・シアーズは薄手の蒼いローブをそっと外した。
「はい。どうぞ」
ローブを椅子の背もたれにかけ、カイ・シアーズはネオの正面に座った。
ネオの先輩と言えるだろう。副総監の一人カイジュアッシュ・ウォルフ・ディアミス・シアーズ。彼の父は、国王の右腕であるジェイクウッド宰相。ネオの祖母と並んで称される国家の重要人物だ。立場も、もしかしたら自分と近いかもしれない。
「着任して一ヶ月位は楽なものですよ、周りがほとんどやってくれますからね」
カイ・シアーズは座るなりそう言って微笑んだ。
副総監になった事で気負っていると思われたのかもしれない。
「ギルバートの部下には優秀な人が多いから、大丈夫ですよ」
ネオはカイ・シアーズを見た。妙な感じがした。カイ・シアーズは真剣に微笑んでいる。
「彼の築いたものは、消えません」
ネオはポカンとしてカイ・シアーズを眺めた。
ウェイトレスが来て注文を取って行く間もカイ・シアーズの横顔をじっと見てしまった。
「どうかしましたか?」
こちらを振り向いた眼鏡の奥の瞳に全て見抜かれてしまう気がして、我に返った。慌てて視線を逸らした。
「……いえ……いえ……ギ、ギルバート様の築いたものは、消えない……」
誤魔化すようにカイ・シアーズの言葉を繰り返した。
「消えません」
カイ・シアーズがはっきりと頷く様に、やはりネオは正面を向いてその顔を見つめた。
「消させません、絶対に」
強い決意の宿るカイ・シアーズの青い瞳がとても印象的だった。
ギルバートが築き遺したもの。彼が生きていた世界、場所。彼が人の胸に遺した彼への思い。
ネオはカイ・シアーズから自分の組んでいた手元に目を落とした。そろっと開いて手の平を見た。
──手が届きそうだ。今を形作る何かに。
カイ・シアーズがギルバートと親しかった事は知っている。
ギルバートの死に心を痛めた一人である事は間違いない。それでもカイ・シアーズは、心の奥で何かを決した。だから、口元に微笑みを浮かべる。目は大真面目なまま。
──ユリシスは、まだ? 自分も、まだだ。
シャリーはそれよりも手前、死そのものを受け入れられていない。
ネオは開いた手で拳を作り、顔を上げた。
──この人と、もっと話がしたい!
唐突に沸いた感情。ネオは身を乗り出し、思いのかぎりを、自覚している全てをカイ・シアーズにぶつけた。
ネオが話し終えた時、カイ・シアーズは何かを懐かしむように笑み、頷いた。
「君は、血縁でもないから見た目は私と似ていない。けど、ある部分がとても似ている気がします」
「僕……とですか?」
カイ・シアーズは頷いた。
「考えてみれば、君と私は境遇が近いのかもしれないね。お互い、国を支える中心人物にとても近い、とかね」
二人とも上級貴族の生まれで、末っ子、魔術師の道を選んだ。カイ・シアーズの父とネオの祖母は国王の双璧を成して実権を握って国王の補佐をしている。
「一つ違いがあるとしたら、私が君ぐらいの年の頃、身近に師が居た事だろうか」
「……」
「君のおばあさまは忙しい。それは君もわかっている。けれど、本当に飲み込めている?」
ネオはゆっくりと語られるカイ・シアーズの言葉を頷きながら聞いていたが、最後に首を傾げた。
カイ・シアーズは「君には相談する師が不在なのだ」という事を言ったつもりだった。祖母が忙しいせいで当たり前に相談には行けないと“いつも通り”からブレーキをかけている事実にネオが気付いていない事をカイ・シアーズは指摘している。
「前置きをするけれど、私の言葉はきっと君には染み込まないと思っています。きっと、今は、ね。だから、ゆっくり考えてもらえたらと思います」
瞬きをしてネオはカイ・シアーズを見て、ただ「……はい」と言った。
「君は、漠然とした不安、不確かな道筋、周囲の変化に戸惑って、どうしたら良いのかわからないでいる。それが今、君の話を聞いて私が感じた事です。どうですか?」
「はい……そうだと思います」
「私が感じたのは──一つ言えるのは……君のここに……」
そう言ってカイ・シアーズは自分の胸に、自身の手を軽く二度当てた。
「何も無いからだと私は思います」
ネオはまた、首を小さく傾げてポカンとカイを眺めるだけになってしまう。彼はネオにとって未知の概念を離す。
それは望んだ事だった。カイ・シアーズは自分が掴みたい何かに、自分よりも近い所に居る気がした。だから思いを打ち明けた。
カイ・シアーズが話す内容は考えた事が無いもので、ネオの心を真っ直ぐ射抜いてくる。
「私は今とても、君に対して、失礼な事を言っています。気付いていますか?」
ネオは小さく首を横に振った。
「少しだけ、訂正をしますね。何も無い、というのは語弊があるかもしれません。何も無いのではなく、君自身がそこに何も置かないようにしているのです、きっと。わかりますか?」
ネオは眉をひそめ、ゆっくりと首を横に振った。
「回りくどい言い方を許して下さいね。気持ちの問題だと言っても、そんな言葉で伝わる類のものではありませんし……それに、そんな簡単なものでもないでしょう。だからと言って複雑な事でもありませんが……」
言葉の最後は自嘲気味の笑みが混ざっていた。カイ・シアーズ自身が自分の言っている事に矛盾がある気がしたせいだ。
ネオは少しずつ、テーブルに視線を落としていった。
カイ・シアーズの言葉を聞いていると、たまらなく悲しくなってきたのだ。その悲しいという気持ちがどこから何故来ているのか、この時のネオには皆目見当が付かなかった。
「君はそこに何も置かないようにしているから、問いかける事も出来ない状態なのだと私は思っています」
カイ・シアーズが身を乗り出してネオを覗き込んできた。
「でも大丈夫。これからの君は問いかけてゆくでしょう。問いかけられて、そこには少しずつ、形を成して置かれるものが生まれるでしょう」
ネオはカイ・シアーズをすがるように見た。
「不安や戸惑いから君は自分の立ち位置を見失った。でも、それは改めて自分自身を探してあげられるチャンスでもあります。それを、忘れないでください。間違いでも悪い事でもない、責める必要もない事です。──いいですか? 君が君を見失った理由は、さっきも言いましたが、複雑な事じゃないんです。道筋を辿って来て、至極当たり前の結果なんです。変な言い方になるかもしれませんが、これからの君は、過去の君の中から見つけ出すことが出来る。それさえ見つけたら、不安なんて消し飛びますよ。道筋も明らかになるし、どうしたらいいかわからなくなる事も、なくなるでしょう。わからないものをたよりに探すなんて事は出来ませんから、今、心に聞いてみなさいなんて私は言いません。過去の君と、問いかけをしつこい程繰り返してごらんなさい。やがて君の心が、そこに浮かび上がって、ちゃんと、君は答えを見つけられますから」
カイ・シアーズはネオの胸の辺りを指差して微笑んだ。丁寧な導きにネオは瞬きを繰り返していたが、小さく「はい」と頷いた。
食事を済ませ、別れ際、カイ・シアーズは悪戯っぽく笑いながらこう言った。
「幸運な事に、私には魔術の師ともう一人、かけがえの無い師がいたのです……ギルバートですよ」
カイ・シアーズの目は優しく微笑んでいる。
「さっきのも本当は彼の受け売りです。昔、君と同じように道を見失った時、彼に教えられました……彼の遺したものは私の胸に宿り、君に渡った。ね、消えないでしょう?」
ネオはオルファース内の第一級魔術師に与えられる部屋を片付けに行く事にした。荷物はいずれ、副総監の執務室に移さなければならない。もう辺りは真っ暗だ。
オルファース本部のドームの灯りを頼りに歩いた。
しばらくして第三別館の入り口が見えた時、ネオはギクリとした。
ドアの前の三段ある階段の一段目に、人が座り込んでいたのだ。近付いて、それが顔見知りだと気付いた。
膝を抱え込んで地面を見ている。小さくなって、見るからにとても心細い。
ネオはソッと正面にしゃがみ込み、人影の顔を覗き込んだ。
「ユリシス……」
ゆっくりと面を上げられた。紫紺の瞳の目線はしばらく泳いで見えた。
目が合うと、彼女は微笑んだ。以前と変わらないように見えて、ネオはホッとして微笑んだ。
「ネオ、どうしたの? こんな遅くまで」
「ちょっと用事があったんだ。ユリシスは、どうしたの?」
「私も、用事」
ユリシスはそう言ってから、また表情を消して下を向いた。
声をかけてくれるなと、言っているように見えてネオはどうしたらいいのかわからなくなった。
ありきたりな言葉しかかける事が出来なかったと言っていたシャリーを思い出した。
ネオは精一杯声を出す事にした。それは出してみればいつもと同じ声音なのだけれども、精一杯。
「ユリシス、第九級魔術師の資格をもらえたんだってね、シャリーに聞いたよ」
表情を失くしたままのユリシスがもう一度ネオを見た。
「僕に出来る事であれば何でも言ってもらえたらと、思う。力になるから」
ネオは目を強く瞑って、気持ちを込めて開いた。精一杯の事をしたい、そう思った。夕方、向きあってあげられなかった、何もしてあげられなかったユリシスに。
「ギ、ギルバート様の事は、驚いてるんだ。まさかって今も思ってる。だって、ギルバート様が……」
思っている事をただ伝えようと思ったのに、うまく言葉にならなかった。
ユリシスは感情の無い紫紺の瞳でジッとネオを見ている。
一方で、ネオ自身、自分がどう感じているのかわからなかった。
この状況でも、ただ、ユリシスは悲しんでいるだろう、弟子のアルフィード様もさぞかし心を痛めているだろう、カイ様も辛い思いを乗り越えようと頑張ってらっしゃると、自分以外の事しか浮かんで来ない。
悲しんでいるだろうユリシスにかけるべき言葉とは──?
過去に読んだ本や人から聞いた事から答えを見つけようとして、カイ・シアーズの言葉が鮮明に蘇った。
『何も無いのではなく、君自身がそこに何も置かないようにしているのです、きっと』
己が居ない。
カイ・シアーズが言ったのはこういう事だったのだろうか。自分の感情がわからない。そのせいで、思っている事を伝えるという人として大事な事も、自分は出来ないのだろう。
──……そうなのか……。
「僕は……」
ついには言葉に詰まってしまったネオに、ユリシスはこう言った。
「ありがとう、ネオ」
そして、彼女の頬に涙が次々と伝うのを、ネオはどうする事も出来ず見るだけだった。
ネオは、第三別館の三階にある部屋を片付けた。荷物なんて大して置いておらず、簡単な掃除をしただけだった。ほとんど使った事もなかったから愛着も何もない。
いつからになるかはわからないが、近いうちにギルバートの使っていた副総監の執務室を使う事になる……。
何も無い部屋の真ん中に突っ立って、ネオは窓の外を、夜の闇を見ていた。
やがて、朝が来てオレンジの陽が差し込んでくるのも見ていた。
「……僕は……」
心の中でも一晩中呟いていた。その後がどうしても続かない。
その事実だけを、ネオはただ確認した。
幼い頃、まだ魔術の勉強も始めていなかった頃、両親と兄弟、親類とで、都から遠く南下した辺りにある別荘に遊びに行った事がある。
その時にちょっとした事件があって、ネオは魔術師になる事を志した。その頃にははっきりと「僕は魔術師になりたい」と言えていた。強い思いがあったのだ。
ネオは窓を開けてバルコニーに出ると魔術を描いて空を見上げた。
私用では、魔術をほとんど使わないネオが──……一気に空へ舞い上がる。ネオは南に飛んだ。
今、自分自身で指針を示す事が出来ない。だからカイ・シアーズの言葉を頼りに『……僕は……』の続きを探す事にした。
カイ・シアーズはこう言った。
『これからの君は、過去の君の中から見つけ出すことが出来る』
過去の自分は確かにその続きを持っていたから、カイ・シアーズの言った事は間違いじゃないはずだ。だからと言って、彼の言葉に答えは一つもなかった。すぐに答えを提出するようにとも言わなかった。
ネオが人の言葉をただ鵜呑みにはしない事をカイ・シアーズは知っていたのかもしれない。きっと、彼も言っていたように、ネオ自身が心に……『ここに何も置いていない』から、人の言葉がネオに染み込まない事を察したのだ。
カイ・シアーズがネオの悩みに表面だけで応じてくれたとしたら、良い子になってしまう答えを、自分を良く見せるような答えをネオには出してみせただろうし、カイ・シアーズもすぐに答えを持ってくるよう要求しただろう。
それは、本当ではないはずだ。
カイ・シアーズは『ゆっくり考えてもらえたらと思います』と言った。
明けたばかりの空の中、ネオは口元をキュッと引き締めて飛ぶ。自分の胸元に右手を置く。
早朝の風がネオの黒い髪を梳いた。
今日はとても晴れていて、心地良い。
──……そういう事は当たり前に思うのに。
ただただ、手を置いた『そこ』に何も無いという事実だけをネオは自覚した。