(087)プロローグ・闇の都
第9話『プロローグ・闇の都』
──風の渡る回廊に、一人。
夕暮れ迫る回廊を奥へ奥へと歩み進めた。
たった一人。
回廊の先には、随分と前に滅んだ国の朽ちた都がある。
ここへ来る前、道を尋ねた最寄りの村で、この闇に包まれた都へは近付いてはならないと注意を受けた。最寄りと言っても歩けば十日余りかかる距離があった。
二〇〇〇年も前にはここで生命の営みを続けた人々が居た事を思うと、荒野に吹く風が無性に沁みた。
最近、この周辺から謎の光が上がるらしい。
ほんの数秒の光らしいが、今までそんな事は一度も無かったという事から最寄りの村の人々はとても怯えていた。
原因を探りたいワケもないけれど、来てみた。ついでに。
だが……その発光する場所こそ、自分の目的地だったとは──。
ジリジリと太陽が沈み、オレンジの上半分だけが地平線からのぞいている。夏はもうすぐそこまで来ていて、脇に汗がたまる。臭くなってやしないか気になった。
ザリザリと赤みがかる大地を踏みしめた。
都の華やぎを知っている──今の、だけれども。
沢山の人が生まれ育ち、死んでゆく。商いをし、生活し、恋をする。子を産み、育て、次代へ繋ぐ。その舞台となる都。
ここにも都があったのだ。ここが国の中心だったのだ。
どれほど繁栄したとしても、人が居なければそこはもう都じゃない。崩れ、朽ちた宮殿跡を見ると胸がちくりと痛んだ。
ここにあった国は二〇〇〇年以上前に滅んだ。
全ての人々が新しい都に移ったのだろうか。
巨大な都を作り上げながら、ただ無為に滅んだのだろうか。
滅ぼそうとした存在が現れてしまったのだろうか。
滅び行くのを止める事は出来なかったのだろうか。
当時の人々は……。
どれほど思いを馳せようと、過去の幻影にすぎない。既に遺跡と呼ばれる宮殿群は何も語らない。
砂に埋もれた都を、血のように赤い夕日がじっとりと染め上げる。
ただ一人、訪れていた者もまた、風になびくローブとともに赤く滲む。
延々と広がる無人の荒野で、静かに長い時を眠り続ける忘れられた都。
訪れたこの旅人は、数ヶ月ぶりの新しい訪問者だった。
「……全ての原点は……ここにあるの?」
旅人は不安気な、頼りない声音でつぶやくと、回廊から宮殿内部へと足を向けた。
所々瓦礫で道が塞がれているが、その程度の障害はこの旅人にとってたいした問題ではなかった。
デコボコの地面に足を取られそうになるが、その度、足元にふわりと風が吹いて体を支えた。そんなだから、半ば宙に浮くように歩くものだから足音はしなかった。
ローブが風に大きくたなびき、夕日を受けて赤く染まる肩までの黒髪がその後を追うように乱れる。
旅人は、指先から青白い光の文字を発しては地面に出来た亀裂をそっと飛び越えていた。
本来、人ならざる──人の内に秘められてあるべき力。これを魔術と呼んだ。
宮殿入り口に程近く、朽ちた様子ではない新しい亀裂の入った建物がいくつか見えた。誰かがここを通った証……先客がいるのかもしれない。
ざわりと不安がたちのぼってくる。
今は誰にも会いたくないのに……。
旅人は宮殿を前に目を瞑った。
震えるような息で心を鎮めようとしているのだ。押さえつけ続けて溢れかけた心のタガはいつ外れるか知れない。そんな状態がずっと続いている。涙はぐっと堪えても、不安定な精神は小さな衝撃で簡単に揺らぐ。
しばらくじっとして気持ちを落ち着かせ、旅人はゆっくりと目を開けた。赤い夕日に照らされてなお、青みを保つ紫紺の瞳が周囲を見渡す。
かつて、この大地を治めた歴代王の中でも特に秀でた力を持っていたといわれる八人の女王達と同じ、紫紺色の瞳。白昼と薄暮と月夜の色を混ぜた紫紺色の瞳に王都メイデンが映し出されるのは二〇〇〇年ぶりの事。
旅人は、封印された歴史の片隅に足を踏み入れる。
なぜ、ここへ来なければならなかったか。
自分は一体何者なのか。
帰るべき場所、目指すべき場所は一体どこなのか。
──何より、たった今、自分は何を望んで生きてなどいるのか。
赤い夕日も落ちた。
東の空からじわりじわりと雲が空を覆い始めていたが、夜には全くの闇が辺りを支配した。
星々も月も瞬かない。
そんな怪しげな宮殿跡を、右手に魔術の明かりを点したユリシスは手頃な寝床を求めて歩み進めていた。
しばらくすると、地下に向けて斜めに穴が空いているのが見えた。
中から微かに、明かりが漏れ出ている。
導かれるように穴へ向かい、奥へ進む。二十歩程歩いただろうか、焚き火があった。傍らには、枯れ木をくべる人がいる。
その人物は、ユリシスが現れた事にそれほど驚きもせず、にこりと微笑った。
「そのうち来るんじゃないかって思ってたよ」
先に訪れていた旅人──男性は漆黒の長い髪を右肩の辺りで一つに結わえ、前へ垂らしていた。声は軽やかで柔らかい。
「さぁ、座って」
ゆっくりと生み出された言葉は優しい音色の楽器のよう。
ユリシスは魔術の明かりを右手できゅっと握って消した。
促されるまま、焚き火を挟んで男の正面に腰を下ろした。
少しだけでこぼこした地面がお尻に刺さる。一度腰を浮かして砂利を払って避けた。三角座りをすると膝を胸に引き寄せた。ちらちらと燃える焚き火を見つめる。
……誰にも会いたくなかったのに。
「元気だったかい? ユリシス」
何気ない声音は、ユリシスが今抱える事情を知らないはず。知らないはずなのに、包み込むような温かさがあるように思えた。
こみ上げてくる様々な思い。慢心と後悔。最後には、懺悔。とはいえ、許しが欲しいわけでもない。酷く罰して欲しい気持ちも強い。蓋をした心は、まだ嵐のように乱れたままだ。
この人と最後に会ってから、なんと多くの事があっただろうか。
出会った頃は、何も知らなかった、知ろうともしなかった。一途に夢を見て、それで良かった。
「……」
「ここへ辿り着いた君は、以前より色んな事を知ったかもしれない。色んな事があったかもしれない」
炎はちらちらと燃え、黒と灰色の煙を吐いていた。芯のわからない煙は上へ上へと登っていく。目で追う。洞窟かと思っていたが、焚き火の真上部分の天井に穴が空いていた。この人が空けたのかもしれない。
煙は空へ空へと登って、闇の都を見下ろすだろう。目印も何もなくても、ただ空へ、ひたすら高みへ。己の正体など関係なく、ふわふわと。まっすぐに。闇の中、ただただ空へ。
「──聞かせてくれるかい?」
ユリシスは男を見た。
男──彼の名をはっきりと思い出したのだ。
「……ゼクス」
乾いた唇が、久しぶりの音を発した。