(086)【4】合格なんか欲しくない(3)
(3)
しばらく続いた浮遊感の後、ユリシスはどこかに着地した事に気付く。膝に触れる感触から草の上だとわかった。
ふっと視界が明るくなる。
飛んで来たのであろう空を自然と見上げた。
ずっと遠くに王都の城壁が見える。随分と小さく見える。相当の距離を飛ばされた事になるだろう。見下ろせるから、今居るのは都よりも高い丘だ。
草の丈は低く、ぺったりと座り込んだ脛にちくちく、くすぐったくささる。太陽は中天まであと少しというところ。空はキレイな蒼と白い雲で彩られ、夏の近い日差しと涼やかな風がこの小高い丘の草原を渡っている。辺り一面草原だ。延々草原が続き、きっと緩やかに傾斜して王都に届くのだろう。
手が、べたべたする。
──ふと、見てしまった。
めまいを催す飛翔感とは比べ物にならない、またギルバートがユリシスを隠すために編んだ闇の幕とは比べ物にならない、暗黒の『めまい』がユリシスを襲った。
前後左右の感覚が暗闇に囚われ、その『めまい』に埋もれた。
ユリシスは、思わず受け止めた『血の匂いの濃い』、その塊の赤い髪をはらりと梳いた。
居てよと言ったのは自分だった事を思い出す。
びっくりする位、心が静かだった。
ただ、唾も飲み込めない程、喉がカラカラに乾いていた。
不思議と涙は出ない。きっと、乾きすぎている。
それの額に自分の額を当てた。
血に汚れるのも構わなかった。抱えていた両手も置いていた膝もとっくに血にまみれているのだし。それに、ギルバートの血なら気にならない。
腕に抱えられる大きさのギルバート。
首から下が無い。
顔は最期に見た、優しい笑顔のままだった──。
意識がその『めまい』の奥へ引っ込むのを、ユリシスは許した。
ゆらゆらと足を前へ出し、刎ねられた時のままの姿勢で首から上のないギルバートの横に立った。
言葉にはならない。
空気のカスしか口からは出て行かない。
何度もそうやってつぶやいて、やっと言葉というものになる。その言葉は自分だけが聞く事になる。
「願い下げだ……こんな死に方、すんなよ」
嫌悪で一杯の表情になる。不機嫌な顔というヤツだ。ただそれだけだ。そうして、ぴゅうぴゅうと飛び出ている血を右半身に浴び続けた。
両手を再び『黒の封環』──魔封環で封じられたアルフィードは、小さく息を吐き、周囲を見回す。
「あいつは……」
アルフィードは呟いた。
七階から八階へ上がる階段には古代ルーン魔術での強力な絶結界が張られていた。マナ姫とデリータ総監が古代ルーン文字を術の中から引きずり出した後も、解除には時間がかかった。
アルフィードだってごく普通に使われた古代ルーン魔術──もちろん記述の残る形式のものという意味だが──、ただの結界なら解けただろう。魔封環さえされてなければ、だが。
しかし、そこに記述された古代ルーン魔術は──それを見た時、アルフィードは「相変わらず」と小さく呟いた──短縮と、省略、さらに置き換えや代行ルーンがあまりに複雑に入り乱れている。それによって、濃度を高めた魔力の消費と無駄を最大限に抑えられていた。それがあまりにたやすく見て取れた。
そこまでだった。
──こんな文法がまかり通るなど! これで術が発動するなんて!!
絶結界の古代ルーン魔術から、間違いなくユリシスは上に居ると確信した。夢ではなかったと。
気絶した自分は何かしらの術で牢へ戻されたのだろうと解釈した。正直、ありえないとも思えるが、ユリシスなら有りだ。
「……術とは言えませんね、これは……魔術とは言えない……言えない」
その絶結界の古代ルーン魔術の記述を目の当たりにした時、王女もまた恐れを声音に滲ませた。総監とともに夜を徹して解除にあたっていた。
上で何が行われているのかわからない。空を飛んでこの尖塔に接近しても備えられた魔術の幕に阻まれ、全く別の景色──ただの空を見せられ、屋上の様子は知る事が出来ないだろう。もちろん、外から侵入は出来ない。塔の内側を下から順に進むしかないのだ。
三日経った時──つい先程の事だが──古代ルーン魔術の絶結界は、王女達が解いたというより、時間が来て効力が消えたという風にサラっと消えた。
八階へ上がった時、そこには何もなかった。ユリシスも居なかったし、黒装束の男も居なかった。
マナ王女が歩み出て、この屋上への入り口を開けた。王族のみ所持を許されたマスターキーとして解呪の術が詰め込まれた久呪石を八階の天井に掲げたのだ。屋上へ続く扉が開き、梯子が生まれた。
マナ姫、デリータ総監、アルフィード、さらに四、五名の魔術警備兵が屋上に上がった時、その中心に、両手で術を編むギルバートの背中を見つけた。
上りきった場所からは二十歩離れているにも関わらず、ギルバートの背中からは驚くほどの圧力を感じた。
青空を背景に、ギルバートは両手を広げて術を編む。左右の指先はそれぞれ違う文字を描き、内側から溢れる魔力は暴れる事もなく魔術に収束していく。
アルフィードは思わず目を細めた。
──やはり、太刀打ちできそうにない。自分よりもやはり上だ。いつも俺よりも上にいる。それでいい、それがいい。
魔封環で魔力を封じられ、魔力波動さえ確かにつかめなかったアルフィードは、視界の端に青白い魔力の光を捉え、はっとなった。
真横でデリータ総監が魔術を編んでいた。風の術だ。
いつの間にか全員屋上に出ていた二十余名の魔術警備兵達も魔術を編む。気付いた時は、遅かった。
──なぜ!? 相手はギルバートじゃないか!?
国内でも十九名しかいない第一級のオルファース魔術師で、十人しかいない副総監だろう。それで──俺の、師匠なんだぞっ!!
瞬間の思考、叫ぶより早く、方々で術が発動。
「ギルゥッ!!」
反射的にアルフィードは絶叫していた。
血煙があがった……。
目の前にある事、それが事実だ。耐え難いが、事実だ。
ギルバートの背で見えなかった黒い塊が、あらぬ方へ、空の彼方へ凄まじいスピードで飛んでいく。
魔術警備兵達が駆けて捕らえようとする。
──そんな事でギルの術を止めれるものか。
アルフィードが無駄だと呆れる横から、魔術警備兵の大半が空へ舞い飛んでいった。外から内には入れないが、塔の結界の大半が解かれた今、内から外には出られた。
首の断面から吹き出ていた血の勢いは、もうほとんど無くなっていた。
ギルバートの体の横でぼんやりと周囲の出来事を観察していたアルフィードに、総監の冷たい声が降ってきた。
「ギルバートは王命によってここに捕らえられていました」
アルフィードはゆっくりと総監に顔を巡らせた。
「それを逃がそうとする魔術師は反逆者です。その魔術師を逃がそうとしたギルバートもまた反逆者です。どちらも、強力な者。逃がさずに捕らえる事は不可能……現行での処刑を判断。よって、術を……止めず……」
黒い塊を追いかけていた魔術警備兵達が次々と帰ってきた。
──ほらみろ、追いつけるもんか。
笑みがこぼれそうだ。
アルフィードは王女の前にふらりふらりと歩み寄り、ギルバートの血に塗れた両手押し出すように見せつけ、魔封環を差し出した。
「これを外せ」
無礼極まりないアルフィードの態度に周りが騒然となる。王女はそれを制し、アルフィードを見上げた。
目が合う。お互いが相手から何も読み取れない。まったくの無表情。
王女は目線を下げ、アルフィードの手首を掴むと先ほどの久呪石を用いて魔封環を解いた。ごとんっと床に術を解かれ、手錠に戻った魔封環が落ちた。
マナ姫は手を離す間際、アルフィードにだけ聞こえる細く震える声で言う。
「申しわけなく、思います」
アルフィードは聞こえないふりをして、実際、彼女の言葉にいささかの気持ちの揺らぎも覚えなかった為、さっさと屋上の中央を振り返り、すたすたと歩いて戻るとギルバートを肩に担ぎ上げた。
「これは確実に死んでいる。弟子の俺が引き取っても問題はないだろう?」
皮肉気に口の端を持ち上げて笑っている。
正気じゃない……魔術警備兵の誰かがつぶやいた。師の、あまりにもむごい最期を目の当たりにして、さらりとそれを受け入れている。そこに居た誰の目にもそう映った。だから、狂っていると多くの者が首を横に振り、慄いた。
マナ姫は小さく肯いた。
「構いません。首はどこぞへ飛んだ様子だし、それをもってその者が既に裁かれた証とし、罪は流しましょう。父上には私の方から……」
マナ姫は言葉を濁すように告げ、言葉を続けた。
「遺体は開放します。どこぞへと持ち行き、埋葬すると良いでしょう」
アルフィードはわずかに下を向いて、ククっと笑った。
マナ姫の言葉を聞き終わるや否や、アルフィードは飛行の術を組んだ。
何の余韻も無く、あっと思う間もなくアルフィードは飛び去った。
墓が作られるにしても、その場所を見届けようとした魔術警備兵が居て、同じタイミングで術を描き始めていた。ほぼ同じでタイミングで空に舞ったが、数分も立たずに帰ってきた。あまりに速くて見失ったのだ。
追わなかった、否、追えず塔の屋上に残った者は皆一様にアルフィードの暗澹とした笑みに怯えていた。
青空を切り裂くように飛ぶアルフィードはあまりのバカバカしさに笑った。
一体、どんな『罪』とやらがあったんだ──?
ドサリと音がして、ぺったりと座り込んだまま振り返る。不思議そうに眺め、その正体を探った。
「ああ、良かった」
それが何か気付き、ユリシスは心底ホッとして微笑んだ。
これでギルバートはギルバートになる。
ユリシスはギルバートの体を持ってきてくれた人を見上げた。
「ありがとう」
にっこりと笑って見せる。自分でも随分と素直な笑顔だなぁなどと心の中で思った。
その者はズカズカと草は蹴散らし、地面を踏みつけてこちらに歩いて来た。ユリシスの前で片膝をついて、顔を両手でくるむように掴んだ。
「なぜだっ!? なぜギルはお前なんかを助けるっ!? なんで命まで懸ける!? お前にそれだけの価値があるか!?」
強い力で頭は揺すられた。
ユリシスはただポカンとして、随分と怒っている──いや、声なき哀哭──、これはとても悲しそうな顔だ。その人を見上げる。どこかで見た事がある気のする人だなぁと思う。
その人の口の端は持ち上がっていた。なぜか『表面』的には『笑って』いるように見える。暗い皮肉気な『笑み』に似ている。
けれど、今にも泣きそうに見えるのは、きっと錯覚じゃないだろうなぁ、と思う。……だったら泣けばいいのに、とぼんやりと思う。
ぶんぶんとこちらの頭を揺らすので、めまいを起こしそうだ。
──そう、『めまい』を……
『めまい』の奥の──放っておいて欲しいのに。せめてもう少し、時間をくれたっていいじゃないか──気だるく、意識は引っ張り出される。出て来れば、現実は過酷なのに。
「──なぜ?」
ユリシスは小さく呟いた。
衣服を血まみれにしたその人は、いや、泣く事を必死で堪えるその男は、ユリシスを揺らすのをやめた。
ユリシスの顔を掴む男の指と指の間を、ユリシスの涙が伝ったからだ。
涙が、血でべっとりとした顔を、その男の手を濯いだ。
「なぜか──なんて……私が聞きたい」
カサカサに乾いた声は空気に混じった。
「なぜ? なぜ、私は助けられてしまったの?」
虚ろに呟く。こんな言葉、何の意味も無い。
震えた声は、空気まじりに押し出される。
視界は急速に水没した。ユラユラと目の前の人の正体がつかめなくなってしまう。
ユリシスは、手にもっていたギルバートを膝の上において、自分の頬を掴むその男の腕をがっちりと握った。力の限り──爪が食い込む程に。腕が傷つくかもしれない。でも、そんなコトはどうでもいい。構わない。傷ぐらい、たいしたコトじゃない。『死』にはしないのだし。
「ねぇ、アルフィード!」
アルフィードの両腕にぶら下がるように体を持ち上げ、顔を近づけた。
「私はこんな合格なんか欲しくなかった! なのに、なんで!? なんで私は、ギルバートを『死なせて』いるのっ!?」
見開いたままの紫紺の瞳から、止めどなく涙が溢れ流れる。
「私に教えてよっ! ねぇ!? なんでよっ!? なんでっ……!」
応えないアルフィードに、ユリシスは唸り、吠える。
「ねぇえ!? 応えろっ! バカっ! 応えてよぉぉおっ! アルフィードォォ!!」
見開いた目は、何も見えていなかった。
だから、代わりとばかりに大声で叫んだ。
──カサカサの喉が痛かった。
ギルバートの死様は笑顔だ。
私の夢は何だった?
ナ・ン・ダッ・タ……?
もう少し、この事は考えず、あの気分の悪くなる真っ暗闇の中に潜んでいたかった。
何も考えたくない。
何も考えたくない。
何も考えたくない。
何も考えたくない。
何も考えたくない。
受け入れたくない。
受け入れたくない。
受け入れなきゃいけない。
受け入れたくない。
受け入れなきゃいけない。
受け入れたくない。
受け入れたくない。
──こんな現実。
……ギルバート……。
「……『笑顔』か……ユリシス、お前の夢、いいよ。きっと叶えな。きっと、できるさ」
あの笑顔にきっと応えられるように……。
今は無理……無理、絶対に無理。
でも……受け入れてみせる。
いつか、必ず……受け入れてみせるから。
だから、今だけ……こんなのは今だけだから。
だから……許して、ギルバート……。
ユリシスはアルフィードの腕を離し、崩れるようにしゃがみ込んだ。ずるずるとアルフィードの衣を伝い降りていた両手は一気に大地に叩きつけ、地面に伏してむせび泣いた。時に、喉の奥から搾り出される声が辺り溢れて満ちる。いやいやをするように地面を殴りつけ、腕は泥と血で汚れる。
泣き疲れて眠るまで、ただ泣いた。




