(085)【4】合格なんか欲しくない(2)
(2)
ギルバートの手にぬくもりが戻っている。
疲れきって冷えたユリシスの手にはとても温かく感じられた。
「ユリシス……?」
「ちょっと、待ってね……ふふふ……」
達成感にも近い喜びがあって、顔が勝手に笑ってしまうのだ。引き締めようと真面目な事を考える。
「……ああ、でも」
──そう、やらなきゃならないことはまだある。
「急がなきゃいけないよね。あの結界の効力は……わかってるけど、もう少し……そう、まる一日だけでいい、眠らせて。明日の今頃、起こして。必ず……必ず起こして」
それだけをうわ言のようにぼそぼそと音にして、ユリシスはギルバートに倒れ込んだ。
「おい!? ユリシス!!」
視界は闇に、意識は泥のように溶けて消えた。
夢は悪夢だった。
術に失敗して、ギルバートを助ける事が出来なかった──そういう内容だった。
だが、現実は、きちんと術に成功して、ギルバートの傷もなんとか治す事が出来た。それにはまる二日──二度の夜をこの屋上で過ごし、術を描き続ける事になってしまったけれど。
体力も、気力も、自分の何もかもが消えると思った。
朝がやってきて、眠い目に痛い、憎らしい程の青空。
──早く起きて! 傷なら治したよ、ギルバート!
何度、そう掠れた声で叫んだか。
ここで助けられなかったら、一生自分で自分を許せなくなる。
ただ、力の限りを尽くした今、悪夢の中で目覚める時を──体が休まり目覚めを許す時が来るまで、休息する。
「ギル、私、合格なんて欲しくないよ。誰かが傷ついて、それで得られる合格なんて、意味がないよ」
「ユリシス……でもな?」
総監のサインが既に入っていた師弟契約の書類を考えあわせれば、ギルバートが根回しをしてユリシスを魔術師見習いに引き上げようとしてくれていたのは推測出来る事だった。気付かず、塔の入り口付近で総監と男が話していた内容を立ち聞きしてやっと思い至ったのだが。
「誰かが話してたの……聞いた。私、二十歳までしか生きられないって」
ギルバートはうっと呻いた。
「聞いたのか……誰がそんな……」
痛い所をつかれたといったような反応を見て、ユリシスはあからさまに機嫌を悪くして顔をしかめる。
「ギルは信じるの? そんな馬鹿馬鹿しい話。何を根拠に言えるの!? アホくさいよ。私は今まで元気だったし、今だって元気一杯だよ!」
ちょっと嘘だ。
言葉通りまる一日……とほんの少し、ギルバートは休ませてくれた。だが、魔力なんてとうに使い果たしてる。元気とは言えない。
魔法陣の消え失せた屋上の真ん中で、ユリシスはあひる座りをしてお尻はぺったりと床に張り付けている。根でも生えているんじゃないかと思う程、立ち上がれる気はしない。きっと立てず、歩けやしない。
けれど、魔術を使いすぎてさえいなければ、至って健康体なんだ。二十歳までしか生きられないという話だって確認しなければと不安と言えば不安だが、今はどうでもいい事だ。
ここのところ、魔力を使わなければならない事が増えたけれど……限界まで力は出し尽くさないといけないことばかりだけども……それさえなきゃ、全然平気なんだ。
ユリシスは心の中で、己自身も気付きたくもなかった事を思った。
──黒装束の男はアルフィードの事を「元より用がない」と言った。誰に用があったのか……考えるまでもなく自分だ。
黒装束の男はユリシスに用があった。ユリシスが来る事を知っていたかのように待っていた黒装束の男──……考えたくなかった、ではもう済まない。
ユリシスに資格を何とかして与えようとしたギルバート。根回しの結果デリータ総監によって資格が与えられようとしていたユリシスを、黒装束がおびき出そうとしてギルバートは捕まり、怪我をした。そう考えられなくない。
資格を取ろうとする事、取る事は、何かとてつもなくいけない事なのかもしれない。直感にすぎないが、ユリシスにはそう思えた。
何にしろ、資格ありきの魔術なんか求めていない。
魔術を使いたくて、魔術を得た。資格を得るんじゃない。そんなのは目的じゃあない。
──だから、だから、そんなワケのわからないものの為に、資格なんかの為に、誰かが傷ついたりするなんて、絶対に見たくない。
「ユリシス……」
「帰ろうよ、ギルバート」
考えに沈み、床に目を落としていたユリシスはギルバートの声を遮る。
「ねぇ? ギル。あなたにムリしてもらってまで、私は……」
唾が喉で引っかかった。
「私は──こんな合格なら欲しくないよ? 違うじゃない、こんな、こんな資格……もらえないよ。方法が違っちゃってるよ。そうでしょう?」
ユリシスは言葉にしにくい気持ちをどう言葉にしたらうまく伝えられるのかわからなかった。
──だって、本心ではやはり『第九級』は欲しい。
第九級魔術師資格試験の合格は欲しい。夢に近付く第一歩なのだ。絶対に欲しい。『自分の魔術で人を笑顔にしたい』という夢の、今までの人生全てかけてきた夢の、第一歩なのだから。でも、誰かに……ギルバートに何かあったり、傷ついたりするなら、その夢に悖る。それで第九級魔術師の資格を手に入れるなど本末転倒だ。
あくまで、魔術師の資格など手段でしかない。魔術師になる事など、人を笑顔にしたいというユリシスの夢の手段でしかないのだ。目的とすり替わってしまうようなら、はじめからそんな手段は求めやしない。そんな手段なら、諦められる。
強く思うのだ。
あなたの犠牲で得られる合格なんか欲しくない──と。
そのまま言葉にするには何だか照れくさい。
……伝わるかな。伝わるといいな。
真っ直ぐギルバートの目をユリシスは紫紺色の瞳で見る。
「あなたは私の父親になったんでしょう? なんで娘の私に説教されてるわけ? あなたは私の師匠になる人でしょう? なんで弟子になる私に助けられちゃうわけ? あなたは私のヒミツを知ってて、私の抱えてるもの半分持ってくれるんでしょう…………持っててよ」
思わず、重い手を持ち上げ、膝立てで傍らに居るギルバートの外套の裾を掴んだ。
「私一人じゃ重たいよ。それだけでいいよ。それだけでいいんだよ。資格なんて、いつかはきっと取れるんだ。私は待てる。大事な事はもっと、きっと……絶対、他にあるよ。だから……──……居てよ、ねぇ」
表情を笑ませて、言う。
「……帰ろう?」
──ユリシスが底なしに疲れ果てていると、ギルバートは今になってわかった。
そうだな、帰ろうか……ユリシスがそこまで言うのなら……──そう言おうとして、やめた。
代わりにギルバートは左手を上げ、ユリシスの頭を撫でた。
利き手の右手は外套のポケットから、まだ何の魔術も込めていない空っぽの紺呪石をひっぱりだして人差し指を立てて握った。その人差し指で魔力の文字を描いて、石に魔術を込めていく。
「……ギル?」
ユリシスがギルバートの行動に気付いてその手元にちらりと視線を送り、きょとんと見上げてくる。
ギルバートはニカっと笑って言う。
「ごめんなぁ、ユリシス。俺はどうも、ここまでのようだ。これを……」
ユリシスに手渡したのは、たった今ギルバートが魔術を込めた石だ。
「悪いがアルフィードに渡してくれ」
そう言って、今度は両手で術を編み始める。手は忙しなく動いているのに、のほほんとした表情は何かを思い出している。
「……『笑顔』か……」
言葉通り、ギルバートの顔には笑みが浮かんだ。
「ユリシス、お前の夢、いいよ。きっと叶えな。きっと、できるさ」
いつもの笑顔。にじむ優しさが染みる。
ユリシスの鼓動が瞬間で早くなる。
──いやだ。そういうセリフは、聞きたくない──
アルフィードのワザと同じ……いや、元々これはギルバートのワザだった。本家本元、アルフィードが編むよりもずっと早い。
魔力の熟成スピードが、つまりは、根本の力量の差が、そこにはある。
──私は、それを習っていない。教えてもらっていない……!
ギルバートの編む術が何なのかはわかった。
でも、ほら、両手で描く時、おさえておかなきゃいけない基本とか、二種類も同時に術を編む集中のコツとか、私はまだ、全然、何も教えてもらっていないよ……!!
「……あ」
ユリシスは息を飲んだ。やっと気付いた。自分で張った階下の古代ルーン魔術の絶結界が破られた──いや、効果の時間切れだ……!
──休みすぎた! 寝すぎた!
今更の後悔。全身が一気に粟肌立った。
ギルバートの体で視界はさえぎられていたが、この屋上への入口付近、彼の背後からいくつもの魔力波動の高まりが感じられた。追っ手は魔術師か。
とっさにユリシスも魔術を組み始めようとするが、魔力のカスさえ指先に浮かばない。そうしている間にギルバートの術の一つが完成して、ユリシスの全身を闇色の幕がクルリと覆った。
術はユリシス自身の視界を奪った。が、外からユリシスの姿を確認する事も不可能にしている。ユリシスは咄嗟にギルバートに手を伸ばした。何も掴めず、ただ空を泳ぐだけ。
──待ってっ!
目の前のギルバートの次の術が完成して、ブンという音が幕にも響いた。球体の結界に閉じ込められた格好だ。さながら黒いシャボン玉。
それと同時。
風を切るような、ズンという音。それは音よりも振動に近い。どこかくぐもっている。
しゃがみ込んだユリシスの膝の上に、ドサリと重い何かの塊が落ちてきた。真っ暗闇の中、ユリシスは無意識に伸ばしていた手を引き戻してそれを受け止めてしまう。
──やけに、血の匂いが濃い……何か。
ギルバートの術は発動し、ユリシスはめまいのする飛翔感に全ての感覚を奪われる。
──転送術だ。どこかに飛ばされてしまう!
「ギルゥッ!!」
外から絶叫が聞こえた。覚えのある男の声が遠のきながら聞こえる。否、自分が離れていっている。
自分だけがどこかに飛ばされている!
相変わらず視界は真っ暗だ。
最後、足音をいくつも聞いた。
追っ手だ。多分、屋上の出入り口付近からギルバートに術を放った後、こちらに駆け寄ってきたんだ。だがそれもすぐ、遠く風の音に紛れて消える。
びゅうびゅうと風の中をつっきって、どこへ飛ばされるというのか。
──……誰が?
あの足音は誰が駆けて来ていたのだろうか?
……ギルバートの背に術を放とうとしてたヤツだ!
ならば敵なのか!
──敵って何??
追っ手だったら、必ず敵なのか。敵でなければ問答無用で魔術も放っては来ないはず。やっぱり敵だ。
ユリシスの思考は混乱を極める。
──それよりも、ギルは……ギルは抵抗する術を組んでいた?
ギルバートの両手が組んだ術は……。
咄嗟に手に取ったその生温かい何かの肌触りがあまりに恐ろしく、吐き気がした。
ギルバートの魔術はユリシスを隠す術だった。ユリシスを逃がす術だった。
ああ、もう、わからない。
めまいがひどい。
──ともかく、血の匂いが濃すぎる……。