(084)【4】合格なんか欲しくない(1)
(1)
一歩一歩近付きながら、肩で息をした。
連続で古代ルーン魔術を使った疲労がユリシスの体力を極度に奪っている。
が、辿り着いた。
その中央で、仰向けに倒れている──。
両腕は頭の上で束ねられ、手首に『黒の封環』が見えた。生きているとわかるのは、その胸が微かに上下しているから。だが、そこに血の濃度は濃い。
息を整えながらユリシスは彼に近付いた。顎を持ち上げたまま、目線だけを下ろして見る。覗きこむにはあまりに酷い状態に思われたから。
近づく程、彼の命がその深い傷でじわじわと薄くなりつつある事がわかる。
未だ、彼からはどくどくとその命はこぼれて出て、空を映す赤い鏡として辺りに広がり、点在した。
息をごくりと飲み込んで、ユリシスは口を引き結んだ。
ここへ来ると決意した──その時に決めたのだ。
自分は魔術師になりたい。けれど、誰かを代償にしてでも──などとは思わない。それは魔術師になりたい理由を裏切る事になるから。自分の払う努力以外に何かを犠牲にして魔術師になれる──というのならば、それはいらない。
ユリシスは、奪いたくて魔術師になりたいのではない。
守りたくて、笑顔が見たくて、魔術師になりたいのだ。
堂々と、胸を張って歩ける魔術師になりたい。後ろめたいものも、後悔も、そこにあっちゃいけない。
足元には、直径で四十歩分にも及ぶ魔法陣が描かれている。古代ルーン文字で描かれていたが、ユリシスにはざっと目を通すだけで意味は概ねわかった。
この屋上一面に張られた魔術の上で、解除キーを知らない者が何らかの魔術を使えば、その力は全てこの魔法陣に食われてしまう──そういう魔術のようだ。つまり、今、ギルバートを助ける為に治癒の術を使っても、魔術に座れて癒せないという事だ。
よく読めばわかる。ひっかけや、暗号めいたものもあったが、歯を食いしばってここまでやってきたユリシスの集中力はそれらを読み解いた。
まず最初にこの魔術を解かなければならない。
疲れてはいた。しかし、ここで自分にその余地は許さない。疲れは何の理由にもならない。やらなければならない。やめる理由にも、失敗する理由にもならない。
ただ、全力をつくす。
ユリシスはそう決めつけて、小さく呟く。
「疲れは邪魔──消えろ」
それで消えるものではないが、一層気合は入った。
ユリシスは指先に魔力を集めると、解除キーの記述を始めた。
この魔法陣は、その解除キーの記述のみを受け付ける。キーの書き方は魔法陣の中にある。その意味を理解し写しとって精霊と交渉し、解除魔術とする。
淡々と、宙空に解除キーを描き出す。
ユリシスは眉間にしわを寄せた。額に汗が伝う。この解除キーを二度も描く体力は残っていない。それはわかる。
粗い呼吸が集中を乱す。
解除キーの記述へ傾ける魔力のバランスが、崩れかねない。
そうなれば、解除キーの発動は失敗に終わり、他の魔術を使う事は出来なくなる。その時には、目の前に倒れる人を助ける事は出来なくなる。
救う為の魔術を使う──その為に、解除キー以外のルーンの記述を許さないこの魔法陣を解かなければならない。
今ここで失敗するわけにはいかない。
体力の消耗と集中力の低下を堪えるのに苦労して、焦る。様々な要因がユリシスの中で戦いを繰り広げる。疲労に震えのきた手足と焦燥と不安に揺れる精神で、内側の暴れる魔力を抑え、炎のように安定しない出力を一定に保ち、吐き出す。それは、魔術師の試練だ。魔術師が術を使う、その業の極地での、己との戦い。
下唇を強く噛み、負けまいと必死で魔力を絞った。
ようやっと誰かがこの「果て」に来た事に気付いたギルバートは、その横顔を見た。
薄れ掛けていた意識が瞬間ではっきりとした。
「……ユリ……!?」
驚きの言葉を発しきるだけの力が体には残っていない。王の忍びゼットの刃が急所すれすれを貫いている。一撃でとどめを刺されなかった理由を考える気は、起きなかった。もしかしたら、ギルバートの言葉のせいかもしれない。それは、ゼットにしかわからない事だ。
ギルバートの見開かれた目は全てを語る。その目に映っているのは、この屋上の魔法陣の上へ、それを上回る量の古代ルーン文字を記述しているユリシスの姿だった。
その量の記述をするだけでも並々ではない。さらに言語は古代ルーン文字だ。
仰向けに倒れたまま見上げたユリシスの真剣な眼差し。噛みしめた唇には血の玉が浮いて、魔法陣に滴っている。それは何滴目なのだろうか。額の汗も頬を伝い、顎からポタポタと落ちている。黒い髪はべったりと首筋にまで張り付いていた。
ここに描かれた古代ルーン文字による魔法陣は、かつて古代ルーン魔術が盛んだった頃、当時の上級魔術師達が何年もかけて作り上げたものだ。ユリシスは、それを何の助けも無くたった一人で解こうとしている。
魔術師ではない少女が──魔術師見習いでもない少女が、だ。
瞬間にひらめいた。
──アルフィードを負かしたってのは……。
ギルバートはアルフィードに教えてやりたいと思った。だが、傷は思った以上にギルバートの力を奪っている。
ユリシスの解除キーの記述も、肩で息をするような体力を思えば失敗するのは目に見えた。
必死に魔術を創りだそうとする少女の姿に胸打たれる思いのギルバートだったが、己に訪れる死は変わらぬものと覚悟した。
足元をふら付かせながら、けなげに解除キーを描き続けるユリシスには言葉を掛けてやりたかったが、声は出ない。細い息をするのでやっとだ。
迫る死。それは、果てなく落ちる感覚、ただ一人の感覚。
それは、せまる暗黒。永遠の孤独。
その孤独を感覚の端に精一杯追いやると、もう何も思う事は無く、こんな「果て」に来てくれた少女が努力の報われない事を知り、涙しない事をただ祈った。祈りながら、見開いていた瞳にそっと幕を下ろした。
そう、目を閉じた──のだが。
──……あぁ?
空が見えた。目が開いたのだ。
「……良かった~…………」
声が聞こえた。
ギルバートは目を閉じ、開いた。二度と開く事は無いと覚悟したはずだったのに、平気で瞬きをしている。
全身の感覚が戻っている。
ピクリと動かした右腕。動くのがわかると、その手を腹の傷へ移動させ、ゆっくりと触った。破けた衣服の下に、穴は──傷は開いていなかった。さすってみる。皮膚だ。血も痛みも無い。ペチペチと叩いてみる。
人並み程度には鍛えられた筋肉がその手をはじく。
──これは……!?
次の瞬間、全身に血が巡るのがわかった。思わず、跳ねるように立ち上がった。
「うわっ!?」
また、声がした。
立ち上がったギルバートは、自分の左側にしゃがみ込んでいた人影を見る。立ち上がった自分を見上げていた。頬には幾筋も涙の通った跡がある。ぺたりと座り込んでいる。両腕ともに、床に落としてしまっているかのように力無くたれ下げている。腕を自分のもののように扱えるだけの体力さえ彼女には残っていないのだ。
そこまで考えて、ようやっと理解した。
「うまく……いったのか?」
ギルバートは失敗すると思った。この王城深奥の床に描かれた、古代英知の塊である魔法陣の解除など。
その力も無いのか、ひきつったような、それでも心底嬉しそうに、ユリシスはえへへと笑った。
目ももう開けているだけで大変だといわんばかりだ。極度の疲労から睡魔がきているのだろう。
魔法陣の解除だけで力の全ては使い果たしてしまったであろうに。もう、体には何の力も残っていなかったであろうに……。
ユリシスはギルバートの傷を治癒させる術を施し、体力の回復を促す術まで使った。さらには、腕にあった手錠状のもの、首輪、各足にあった足輪状の『魔封環』も床に転がっている。これまで取っ払ってしまって、どれだけ魔術を使ったのか。ギルバートがこうして起き上がれるのはこんなに沢山の骨の折れる魔術が使われた為だ。ユリシスは、今はもう気力だけで起きているという風だ。
ギルバートは辺りを見回した。
自分が瞳を閉じ、死を覚悟してからどれほどの時間が経ったのか。いや、それよりも、一体何時間、ユリシスは古代ルーン魔術を描き続けていたのか……いやいや、そんな事よりも、だ。
今──信じられない事に──自分は元気だ。一方で、そうしてくれたユリシスがフラフラだ。
ギルバートはしゃがみ込んでユリシスを覗き込んだ。
「大丈夫か?」
ユリシスは右手を軽く上げて揺らした。えへらえへらと笑い、大丈夫だと手を振っているらしかった。
ギルバートは力なく持ち上げられたユリシスの右手を強く握り、もう一度問う。
「大丈夫か?」
青い魔力の揺らめきが微かに残る紫の瞳をしっかりと覗き込んだ。
応じるたった一言の声に力は無く掠れていた。だが──。
「……よかった」
内側に笑みが含まれていた。