(082)【3】決めていたから(2)
(2)
構えるユリシスに男は黒い手を伸ばした。
「我が主はお前を求めている」
「…………誰?」
「ギルソウ国王陛下だ」
「わ、私は用ないよ」
声が震えた。やはり、国王に狙われていた……。
「すべては穏便に、私はお前を連れ去るつもりだった。だが、王以外が──」
黒装束の男は口を噤んだ。覆面の隙間から微かにのぞく目を半ばまで瞼が覆うと静かに首を小さく振り、変わらぬ声音で言う。
「すまないと思う」
「何で謝るのよ!」
男はほんの少し首を傾げただけだった。
「私は……私は…………!」
顎を持ち上げ、ユリシスは黒装束の男を睨んだ。
「ギルを助ける!」
言葉と同時、ユリシスの周囲に青白い光の弾が二十数個生まれ、男を豪速で狙い撃ちする。消耗度外視、瞬発力重視の魔力そのものの放出による攻撃。術の記述はない。
一瞬で打ち出した攻撃のはずだったが、男は至近距離にも関わらず九割を避け、残りを素手で叩き落としてしまった。
──素手って……!?
驚きは後回しにする事にした。
避けられてしまった分は反対側の壁に、叩き落とされた分は床に黒い焦げ目を残して消えた。
ユリシスはその間に丸い部屋を壁に沿って走った。ただ走るのではなく、右手は壁に対して術を描きながら。
途中、男が何度も近付いて来ようとしたが、ユリシスはその度に術の記述を中止して大量の足止め魔力弾を放っては逃れ、壁に続きを描いた。
殺そうというより捕まえようとする黒装束の男は、魔術師と逆で近付かなくては何ともならないせいか、隙だらけのユリシスへの接近は容赦がない。一息付く間にまた近寄ってくる事もあった。
先の言葉通りなのか、攻撃らしい動きは見られなかったが、ユリシスの方は捕まった時点で終わり──ギルバートを助けられない。魔力を直で押し出しては不恰好に転びそうになりながら黒装束の男を退け、駆けた。
術は途切れ途切れにしか丸い壁を埋めていけなかった。が、記述を一旦止められる古代ルーン魔術の特性を最大限に生かし、単語の途中でもぶった切っては長いはずの魔術の合間を埋め、ユリシスは少しずつ強大な術を編み上げていった。
喉の奥で荒い息をしながら、ユリシスは相手が同情してくれている事を確信していた。
アルフィードと戦っていた時より手を抜いているように見える。武器も使ってこない。それに対して心を揺り動かされるような事はなかった。敵の感情は測りかねたが、運が良いのだと思う事にした。強い意志で力も漲る。ギルバートを助けなければならないという決意がそうさせた。
やがて、術が完成する。
「ぃいっけえええっ!」
最後の記述に気合を込めた。
ユリシスの呼び声に、何重にも描かれた古代ルーン文字が応えた。頭に響く高い音が鳴り、記述の先頭から青白い光が駆け抜けてゆく。術にユリシスの魔力が行き渡り、満ちる。精霊にユリシスの意志が伝わる。
視界が白く染まる程の光が全周囲の壁から生まれた。
黒装束の男は部屋の中央で視線を巡らせた。どちらを向いても強い発光がある。どのような術を使われたのかわからない。だが、術の発動直後──魔力を一気に放出して脱力する、魔術師にとって最も隙の出来る今が捕らえるには最大のチャンスだという事はわかっていた。
男は気配だけを頼りに駆け出そうとした。が、遅かった。
光は収束し、轟音をともなって雷光が男に襲い掛かった。
「ぬっ…………ぐぅおおおお!」
室内に充満するユリシスの魔力が集まり、黒装束の男を縛り上げて自由を奪う。ユリシスは男が動けないのを確認してから、アルフィードの傍に駆け寄ってしゃがみ込んだ。
光は時にパリパリと爆ぜながら、欠片を散らしながらも男を捕らえたままだ。
「アル! 起きて、アル! アルフィード!」
肩を揺らしたが完全に昏倒している。目立った怪我は見つからない。
ユリシスは歯を喰いしばる。歯の擦れる嫌な音はますます苛立たせた。
立膝で顔を上げ、周囲を見渡した。
辺りは白く輝き、光が尾を揺らめかせて飛び交っている。充満した魔力がうねり、風もないのに髪は揺れている。
そんな中、天井の一点だけ、砂上に息を吹きかけたかのように魔力が弾かれている場所がある。
先ほど青白く点滅した天井だが、弾く中央に文字が浮かんでいるのが見えたのだ。
ユリシスは、ゆっくりと立ち上がる。
──あれか……。
青白い古代ルーン文字が五行に渡って術を形成しているのがわかった。ギルバートは、あの向こうにいるのか。
ユリシスは口元に手を当ててしばらく考え、倒れたままのアルフィードと術の圧力にぐったりとしている黒装束の男、五行の古代ルーン文字が光る天井、そして、ユリシスが魔術で塞いだ階段を見比べた。
魔術で塞いだ階段では青白い文字列が円を描いてグルグルと回っている。上階側なので当然階下からは見る事は出来ない。階段の下にいよいよ気配が現れ始めた合図だ。
塔の封鎖が解かれた為、警備兵が続々と集まって来ているのだろう。ユリシスは階段の傍へ行くと古代ルーン文字を丁寧さよりも速度重視でざっくりと記述し、そこに施されていた結界魔術を強化した。ここまで必要なのかとも思ったが、これで三日は保つだろう。
面を上げられないままの黒装束の男の脇を通り過ぎ、再びアルフィードの傍に立つとさらに術を描く。
今度の魔術は、少し疲れるものだ。
十分程、ユリシスは何もない目の前に延々と青白い文字を描き続け、円と四角を混ぜた図案も描き加えた。この図案に対して、術を発動させるようにという指示図というわけだ。
描いた円はユリシスが両手を上下左右に広げて潜り抜けられる程のもの。
最後に作動キーの記述を行うと、文字は大気に吸われた。すぐに図案は立体化し、真っ暗闇に繋がる扉が開いた。
術の完成に溜め息を吐き出したユリシスの額に、じんわりと脂汗が浮かぶ。
疲労から、いくつかの動作の度に深く呼吸するようになってきた。
短く息を吐いて気合を入れ、アルフィードを肩に担ぐと彼の膝から下を地面に引きずりながら、闇の扉へと入った。
闇を超えた先は、やはり闇。
闇といってもただ暗いだけ。上下左右わからない程の闇ではあったが、足はちゃんとつくし歩くことも出来た。次第に、腐った水の臭いが鼻につき始める。ぴちゃんぴちゃんと不規則な水滴の音も聞こえた。
現代ルーン魔術にはもう存在しない、遙か昔に失われた地の術最高難度の“地穴”という術を省力化したものだ。離れた場所と場所を繋げさせ、その精霊の内側を通り抜ける。一時的に精霊の通り道を作り出し、そこを潜る。魔術最盛期でもこれを一人で使えた者は数人しかいない事をユリシスは知っている。省力化しているのは、ユリシスもそれだけの魔力を出せないからだ。移動距離も一杯一杯だった。
ユリシスは闇を抜け、アルフィードをその狭い小部屋の壁にもたれかけさせた。アルフィードは座って眠っているように見えた。
長身のアルフィードはやはり重かった。紺呪石をあちこち隠し持っているせいもあるだろうが。ユリシスは肩をコキコキと鳴らしてほぐすと、壁と反対側──鉄格子を一瞥する。
ユリシスは床に置きっぱなしにしていた『黒の封環』を拾い上げ、アルフィードに付けた──外す前と同様に。
ここは、先程までアルフィードとユリシスが囚われていた牢だ。“地穴”で精霊の通り道を穿ち、物理的な距離を飛び越えて来たのだ。
ユリシスは壁とは反対側の鉄格子に触れる。鍵を使わず、ユリシスが鉄格子を溶かして開けた。正面の牢も同じだ。ユリシスは一息吐くと、二つの牢を直した。
牢の帳簿のユリシスの名は抜け出す前にアルフィードが消した。これで痕跡は全て消えた。アルフィードは総監に見られていたようだから、これ以上の事は出来ない。
これから先、アルフィードも巻き込むワケにはいかない。
明日、またギルバートとアルフィードと、昨日までと変わらない日常が欲しいと思うから。
家族として全てを受け入れてくれたギルバートとの新しい生活を護りたいから。
夢想する。
これから魔術師見習いになり、ギルバートの弟子として、いろんな人の依頼をこなして、魔術を学んで、ごく普通の一般的な魔術師とその弟子の生活をする。ギルバートと一緒ならどんなに楽しいか。アルフィードに古代ルーン魔術の使い手とばれてしまったけれど、大した問題じゃない。彼なら通報なんて野暮な事はしない……勝負はしないといけないだろうけど、ひどい事はしないはずだ。そう思う。
春を終え、夏を超え、秋を、冬を共に過ごしてゆく日々──。
それは、どんなにか幸せで楽しい事だろうか。
鉄格子の切れ目の溶接も魔術をそっと当てて元通りで終わり。アルフィードも牢の中。彼の手首には再び『黒の封環』がある。
これで、自分が捕まる前とほぼ同じ状況になったはず。
──昨日と変わらない明日の為に。
ユリシスは開いたままの闇の扉を一人くぐり、再び光の渦巻く塔へと戻った。扉をまたいだ後には、闇は音も無く大気に霧散して消えていた。
光景はついさっきと変わらず、黒装束の男はしっかりと捕らえてある。ユリシスは自分の魔術が弾かれる天井の真下へ歩み寄る。
持ち上げて術の記述を始める右手が、ぷるぷると震えていた。
空間を捻じ曲げて他の空間を繋ぐ先ほどの“地穴”の術は、現代のルーン魔術には存在しない。現在には残ってはいないのだ。伝承出来なかった術の一つ。古代ルーン魔術で描いても、膨大な魔力を消耗する。かつて古代ルーン魔術が盛んであった頃は、数十名のゲートキーパーなる存在が国々の各所に散らばり、人を飛ばしていたというが……魔術の力がより強大だった過去ですら、多数の魔術師を要した魔術を一人で描いたのは、正解とは言えなかったかもしれない。
まっすぐに線が引けなくなった右手を左手で支え、ユリシスは術を描く。
激しく動いたわけでもないのに肩で息をし始める自分に気付いた。
国民公園の大火を消し止めた魔術を描いた日を思い出さずにはいられない。
限界は、そう遠くないかもしれない。