(080)【2】それでも(4)
(4)
遅かれ早かれ、ギルバートが特別に囚われていた事を知り得なかった以上、ユリシスはこの牢に辿りついていただろう。
その時、やはり遅かれ早かれ、塔にかけられていた総監の魔術で囚われたアルフィードはここへ連れて来られていただろう。
急いでいた二人、多少前後してもこの邂逅は避けられなかっただろう。
ユリシスの中にくすぶる魔力は今までにないほど充実していた。全力で事にあたろうとして、ほとんど魔力を使っていないせいだ。
普段は赤みがかった瞳の色が──目を覆う涙の膜の反射か、体に溢れて巡る魔力のせいか──青さを増して紫紺の色が鮮やかに揺れる。
「立って。アルフィード」
アルフィードは促されるままに立ち上がると額の汗を拭った。『黒の封環』に吸い上げられて枯れていた魔力が、じわじわと戻って来る。周囲の精霊のひんやりとした気配が心地良い。
手首には圧迫されていた赤い跡が残っている。少しだけ痺れの残る両手を二、三回握りなおして具合を確かめた。
思い出されるのは西の洞窟でエナ姫を奪われた時──まだ生きていた姉弟魔術師と共に追いかけた相手……。弟魔術師の火の術を消滅させてなお余りあった魔力。森へと追いかけ、姿見ぬまま敗北を喫した。あの時、あれほどの古代ルーン魔術は初めて目の当たりにした。
国民公園を焼いた大火を消し止めた巨大な魔術には、本当のところ圧倒された……あれは命懸けだった事だろう。
ちらりとユリシスを見下ろした。この小さな体の一体どこからあれ程の魔力が生まれて来たのか……。
苛立ち混じりの溜め息をアルフィードは吐き出した。
もっと何でもない時、あるいは必死で探し回っていた時に出会う事ができていたなら──。
「今は、この上ない味方と思う事にする」
ユリシスが神妙に「うん」と頷いたの見て、アルフィードは口の端を無理やり引っ張りあげて口元に笑みを作り、眉を寄せて強く睨んだ。
「……え?」
何か悪いことでもしたかといった表情でユリシスはドキマギしている。こんな様子もかえって腹が立つ。
「いいか! 覚えてろよ、後で勝負するぞっ!」
「ぇ……ええ~……」
嫌だという意思を全身からほとばしらせるユリシスを無視して、アルフィードは先に牢から出た。頭の中を駆け巡る様々な事からは、今は目を逸らすと決めた。
ギルバートを助ける、全てはそれからだ。
牢屋の詰め所前の扉まで来ると、慣れた様子でアルフィードが両手で術を二つ描いた。
鍵穴からガチンという音が聞こえると、アルフィードはギイィイと耳障りな音のする鉄の扉を開いた。部屋の中には牢番が椅子に座ったままグーグー眠っていた。
鉄の扉の鍵を開ける術と牢番を眠らせる術を同時に組んだようだ。
アルフィードにしろ、その師ギルバートにしろ、器用な事が出来るものだとユリシスは改めて感心した。
一体どうやったら二つの術を同時に描くなんてマネができるのか。
両手でそれぞれ別の文章を書くなど、右利きのユリシスにしたら左手で文字を書くという時点でリタイアしたいものだ。
そんな事を考えている横で、アルフィードが帳簿をぱらぱらとめくって一番新しいページに魔術を描いている。
「お前、たくさんの人間に見られたか?」
「兵士の人と……この牢番くらい……かな」
「俺は総監と会っちまってるから消せねぇが、お前のは消しといて問題ねぇだろ。こんなのに書かれてちゃあ、脱走するってのに後がひたすら面倒だ」
一番最後の行、ユリシスの名前はアルフィードの術であっさりと消されてしまった。
そうしてアルフィードを先頭に、ユリシスは再び地上に出た。
白い床に落ちる影が小さい。もうそろそろ昼前にさしかかる。
ユリシスが爆音を聞いた場所とは反対側の塔へ、アルフィードは音も無く走り出した。慌てて後をついて行く。
魔術的な警備が多いせいか、警備兵は建物の各出入り口に二人ずつで立っている程度で人影はほとんど見られなかった。アルフィードとユリシスが後にした牢は単独だったが、他の主な建物の多くが地下で繋がっているせいだ。
目的の塔の周囲は歩いて二百歩近く。警備兵の目を避け、建物の陰から陰を小走りで駆け、塔の後ろに近寄った。入り口辺りをうかがいながら回り込んだ。入り口まで行く前にアルフィードが地面に術を描く。
ユリシスは横から描かれていく文字を見た。気配や音を拡張してこちらに届けさせるつもりらしい。
膝立てでしゃがむアルフィードの足元に青白い光がポッと浮かんだ。その後ろからユリシスはつま先を伸ばして光に耳を傾けた。
しゅるしゅる──と、衣擦れの音まで聞こえた。
気配は二つ……?
話し声がぼそぼそと聞こえ始める。アルフィードが小首を傾げた。
「総監と……誰だこりゃ……どっかで聞いた事ある声なんだがな」
女性の声は総監のもの、もう一人の声は男だった。
「──その件はもうよろしいでしょう、いくら話しても平行線ですよ」
「……私は諦めるわけにはいきません」
「そうですか。でしたら取引をしましょう。あなたがオルファース総監特権を使って我々の検閲を飛ばして……試験も時期も何もかもを無視して例の村の者に与えた資格、あれを返上してください。そうすれば我々も考慮しましょう」
「この事と今あなたのおっしゃる事は全く別でしょう。取引にもなりません。あなた方は彼女に戸籍が無かったのをいい事に私の元に受験者の資料が届かないよう妨害を──」
女性──総監は咳払いを挟んで言葉を続ける。
「作為的な検閲をしていたでしょう? 私もギルバートの報告が無ければ気付かなかった……遅れて資格を与えても問題は無いはずです。彼女は八年前、初めて受けた試験で合格点を出していたのですから、返上するも何もないでしょう? 能力は備わっているのです」
「私はそれでも別に構いませんがね。総監はルーン魔術史が必要だったのではありませんか?」
「…………」
どちらかがコツコツンコツコツンと杖を突きながら歩いている。総監は杖を持たないので、男の方だ。
「娘一人の魔術師資格とルーン魔術史を天秤にかけるなど……苦笑を禁じ得ませんな」
苦笑と言いながら、声音は嘲笑交じりに聞こえた。
「ましてや例の娘──十七でしたな。もって後三年ではありませんか。あなたもギルバート殿も──。そんな命に何の価値があるのか、是非伺いたいものですね」
ユリシスの鼓動がトンと早くなった。
今、話題に上がっていたのは、もしかしたら自分ではないか。
八年前から試験を受けていたとか、戸籍が無かったとか、自分と符合する。
その後の会話をユリシスは聞いていなかった。いや、聞いてはいたが、頭をするりと通り抜けていく声を止める事が出来なかった。
「──よし、行くぞ」
真横に居たアルフィードの声ではっと気付いた。塔の中の人の気配は消えていた。
「中の封鎖は古代ルーン魔術交じりの術になっていた。そこは道具を使いながら施したんだろうが、そうなると俺には解けない」
「……やる」
ユリシスが頷き言うとアルフィードは「頼む」という風に一瞬だけ目を閉じた。
塔の外壁をよじ登るのは目立つし、何より窓がない。遠くから空を飛んで来て屋上に降り立つという手は論外だ。魔術の防護膜が城の敷地内を覆っているし、この塔の屋上からはさらに強い魔力が感じられた。何かの術が施され、稼働しているのは間違いない。だからこそ、アルフィードもここにギルバートが囚われていると確信したのだろう。
どこでもない家屋ならば音もなく壁に穴を空けて侵入する所だが、この塔の外壁にも魔力が感じられた。セキュリティの網が張られているのかもしれない。入り口から入って、中を行くしかない。
魔術的な警備が厳しいせいか塔の入り口に警備兵は配置されていないようだ。周辺の警備の隙を見て二人は塔の扉の奥へ侵入した。扉にも何も仕掛けはない。中で使われている魔術だけで十分という事なのだろう。
アルフィードは部屋の中央の階段の前で止まると、半歩後ろのユリシスをチラリと見た。
ユリシスは小さく頷き真っ直ぐ歩み出る。
階段付近へユリシスが左手を差し伸べると、青白い膜がふわりと光って見えた。手を離すと再び光は消える。この膜がオルファース総監の張った封鎖魔術。
ユリシスは意識的に肩の力を抜いて封鎖魔術の青白い膜に触れた。
手元を中心に光が浮かび、次第に濃い光と薄い光に別れる。濃い光はすぅと文字の形でくっきりと浮かび上がり、広がる。光自体がユリシスの手を飲み込もうとし始めた。
いよいよ青みを深めた紫紺の瞳がそれらを睨み、同時に右手の指に魔力を集め、スラスラと文字を描く。
ほんの数瞬の後、ぱきっという軽い音と共に総監の張った封鎖魔術の青白い膜にヒビ割れが生じ、剥がれながら形を失って消えていった。
ユリシスは小さくため息を吐いてアルフィードを振り返った。
「行こう」
もちろん勘のいいアルフィードには察しが付いていた。
同時に、総監の会話の相手がゼヴィテクス教大司教ラヴァザードだという事も思い出していた。
総監と大司教の会話にのぼった少女は、隣を走るユリシスだろう。
総監とギルバートは動いていたらしい、こいつの為に。
──こいつは何で魔術師になれていなかった?
以前なら特に興味を持たなかっただろう疑問だが、今、魔術を使え、しかもあの古代ルーン魔術の使い手とわかった以上、謎でしかない。
戸籍がないと言っていたが、それならそれで役人が放っておかないだろうに。戸籍がない事は当人にはすぐに伝わるものだ。それがなかったとなると、何者かが試験の度に役所に手を回していたと考られる。だとしたら、誰が何のために?
──古代ルーン魔術を使いこなす。鍵はそこか?
八年前に試験を受けたというが、その時からこれほどの力を操っていたというのか? それは理解し難い。
現代ルーン魔術だって習得は難解だ。さらに複雑怪奇な古代ルーン魔術がその時点で──試験時は七、八歳のはずだ──使えて鍵になどなるわけがない。
ならば、大司教は何故ユリシスに魔術師の資格を与えたがらなかった?
──…………埒もないが。
考えても埒もないが、これを考えずにはユリシスの横を走れない。
ユリシスだって自分の事と気付いたはずだ。
自分の命が後三年などと聞かされて……心穏やかなはずがない。
ただ、今考えるわけにはいかない。今はギルバートを救わなくてはならない。そう思っているのだとしても、この後も平常心を保ってまともに魔術を使えるかどうか不安が残る。
アルフィードは階段を駆け上がり、さらにまた封鎖魔術を次々と解いてゆくユリシスの横顔を見た。動揺しているようには見えなかった。
古代ルーン魔術を誰よりうまく使いこなす、より深いであろう知識を持つ者は、そんな話を聞かされてもなんともないのだろうか?
堂々と魔術を描く姿。
今朝までのぼんやりした冴えないガキという認識もどこへやら、認めざるを得ない魔術師としての実力を前にアルフィードは興味津々だ。
ほうと顎をなでたくなるようなルーン構成を見ても、アルフィードは記憶に留めるのに必死で解釈にまで頭が回らなかった。
これだけの事が出来るというのに……。
アルフィードは自分の年を思う。二十一歳だ。
二十が寿命とすれば去年には死んでいると置き換えられる。
──……そこで人生終わるには、あんまりにも短いんじゃねぇか?
ギルバートはこの事を知っていたのだろうか。養女にすると言い出したのもこの為なのだろうか……。
寿命が無いと知ってしまったら、ギルバートはきっと「可哀想だ」と思うはずだ。
ギルバートが手を差し伸べた事実。総監と大司教が共通認識として話していた「命が後三年」という話……。揃って人物が人物だけに、与太話だと切り捨てられないのが痛い。
アルフィードはぐっと歯を喰いしばった。
今は考えまい。
ユリシスが古代ルーン魔術の使い手とわかった事も、その古代ルーン魔術の使い手の寿命が後三年だとかいう耳障りな情報も……。
考えまいとしても、それらは頭の隅をちらついて消えてはくれなかった。
一方ユリシスは、階段を上がるごとに施された魔術を解くのに必死だった。それほど難しい古代ルーン魔術とは思わなかったが、王城周辺の森でも見たような魔術の源へ解呪を知らせるルーンが含まれていて、それを残して道を開くのは面倒だった。
術そのものはユリシスにとってひっかけも何もない、素直な術ばかりに思えた。
戸惑いながら、ユリシスはこう考え、答えを導き出した。
あの話が誰のものからなのかは知らない。総監の発言ではなかった。でも、あの誰かの話を総監は真剣に受け止めていた……ような気がする。そこら辺の会話はよく覚えていない。だとしたら、本当かもしれない。本当じゃあないかもしれない。でも、本当の可能性はある、ような気がする。でも。本当? 嘘?
──死ぬの? 三年以内? 私が?
激しい動揺はあった。だが──。
「……それでも……!」
本当か嘘かは知らない。だが、今一番大事な事じゃないのは確かだ。
か細く心もとないがそれを根拠にする。
こんな急ぎでなかったら、うずくまって泣いてしまいたい。でも泣いたって何も変わらないとすぐに気付く。そして、きっと真実を求めて、動きだす。それは確信している。自分はそういう人間になれているはずだ。
うずくまる暇があるなら、今、目の前の事に集中する方がいい。答えは、もう出ているんだから。
あの会話が本当かどうかを自分は必ず確認する。
でも、それは今でなくていい。
だから、絶対迷わない。
ユリシスは大きく紫紺の瞳を見開いて、目の前に立ちはだかる封鎖魔術を睨んだ。
──この先に、ギルがいるんだ!
描く古代ルーン魔術に力がこもる。