(078)【2】それでも(2)
(2)
我を取り戻すと、ユリシスは慌てて駆け出した。目指すは──闇雲でしかないが──王城の中央。
堀の淵から中央へはまた森が道を塞いでいる。堀に届くまでの森と似たような罠などがいくつか見られたが、それらを避けてユリシスは道を急いだ。
中央へ向けては上りの傾斜がきつくなっており、時に冷たい地面に手をつきながら登る事になった。
ひんやりとした森は魔力が木にそって巡らされているが、人の気配はなかった。地面は木の根が盛り上がっている場所が多く、道らしい道など無い。獣道さえ無い。足をくじきそうになりながら、バランスを崩しそうになりながら、めげず駆け上がっていく。自然と息も上がったが、気にしている余裕はないのだ。じんわりと汗がにじみ、土に汚れた手で額の汗をぬぐった。道のない山をただただ頂きを目指して登った。
そして、唐突に白い高い壁にぶちあたる。
左右へ、ずっとその壁は続いている。
「……はぁ……はぁ……はぁ……」
早いままの熱い呼吸を整えながら、白い壁にそっと左手を当てた。
「つめたい」
火照った手にその感触は心地よかった。が、目的は休息ではない。
左手の上にユリシスは魔術を描く。
現代では失われつつある古代ルーン魔術を選ぶのは、魔力の放出をおさえる必要があったからだ。消耗したってかまわないのに、極限まで魔力を抑えなくてはならない。この城のセキュリティにひっかかるわけにはいかない。
今、魔術を使うところをバレたって後悔はしないだろう。古代ルーン魔術を使う事を知られたって、大した事じゃない。
繊細に編んだ術の記述が終わると、ふぅと息を吐いた。
ユリシスの左手の周囲の白い壁がすぅーと色を失い、透けていった。壁といっても大地の延長である。大地の精霊に力を借りたのだ。
カイ・シアーズが風を、アルフィードが氷を、ギルバートが火を、シャリーが水を得意とするように──すべてと満遍なく良い付き合いが出来るネオは少し特殊だが──ユリシスは大地の精霊との相性が一番良い。
ユリシスの引いた青白いルーン文字の形をした魔力が、じわじわと溶けてゆく。人の目には見えない精霊がその魔力を食らい、引き換えに術者の願いを叶える。
白い壁の向こうが透けて見えてくる。はっきりと見通せるようになって、壁に穴が空いて通れるような錯覚さえもたらす。
壁の厚みは大人の足で五歩分もあるのがわかった。その先に舗装された回廊が見えた。一度、壁越しの目の前を馬車が駆け抜けて行った。
さらに回廊の向こう側にはこれと同じ壁がそびえ、奥に再び森がある事もわかった。また、森の向こう、山を登って行った先に再び白い壁が木々の合間に見えた。頂きに王城を持つ山肌を、城門から始まった回廊が二周ぐるぐる描いている事がわかる。
「二重あるのか……」
微塵も気を抜けそうにない。少しだけ目眩を覚えた。
左手を壁から離すと白い壁は本来の色と質感を取り戻した。もう向こうは見えない。
ユリシスは森の木々と壁の間から覗く空を見上げた。
野鳥が飛んでいる。鳥の視線を借りようと思ったが、鳥に向けて魔術を放つのは危険のように思われた。
王城全体、周囲には魔術の防護膜が張られているに違いないのだ。重要施設なんかにありがちで、人の手の届きにくい空へ向けてはなおさら魔術に対する術が施されている。王城なら当然何かしているはずだ。
二重の意味を考えた。白い壁の円が二つ、王城に対してあるのか、それとも一本の白い壁がらせん状に二重巻いているのか。円は回廊──道なので後者で間違いないだろう。
念のためにとユリシスはしゃがみ込み、地面に魔術を描く。地に埋まっている壁に力を伝道させ、戻ってきたら前者、戻って来なければ後者で考えようと思ったのだ。力は戻って来なかった。
らせん状なら沿って歩いて行けばいずれ頂上に辿り着く。そこで内側になんとか入り込めば良いだろう。
ユリシスは壁から少し離れ、木々を隠れ蓑に山を登り始めた。
静まり返ったそこにガタタンッと不恰好な物音が響き、ギルバートはうつ伏せのまま顔を向けた。
ここがどこかの屋上らしい事と、柵もなく切り立っているのは見渡せばわかる。床が円形なのか四角形なのかまでは動けないからわからないが。
床面に沿う視線で広さは測りにくいところだが、南北五十歩程はあるだろう。その端の方の床から、禿げた頭が覗いた。
「……まさかこんな梯子で登らなくてはならないとは……はぁ……」
床から禿げた後ろ頭が出てきた後、カラランと軽い音がした。何かを先に床に置いたようだ。次に真っ白のローブに紫のラインが入った袖がにょきりと伸び、重そうに這い出てくる男がいた。
「……ふう」
男は膝を曲げ、腰を大事そうにゆっくりと持ち上げて立った。手には男の身長より少し長い金色の錫杖が握られていた。先ほどの音はこれを床に置いた時のものだろう。
その後ろ姿だけでギルバートには男が何者かわかった。
ゼヴィテクス教大司教ラヴァザードだ。
前と後ろから禿げ上がり、耳の高さだけに白い髪が残っている。
ヒルド国の最高権力者が国王なのに対して、それに次ぐ権力があるのは三者だ。カイ・シアーズの父ジェイクウッドが務める宰相、ネオの祖母デリータの務めるオルファース総監、そしてこのラヴァザードの務めるゼヴィテクス教大司教。
大司教が護衛も無く一人で現れたのは、一体どういう事か──。
ラヴァザードは衣服を整え、金の錫杖でコツンと床を打ってからギルバートに近付いてきた。歩きながら、薄い目を普段より大きく開いた。
「これは驚きました……意識があるとは大したものだ。さすが、第一級魔術師と言うべきですかね」
ギルバートから半歩の所でラヴァザードは足を止めた。狭い生地に金糸の刺繍の施された踵の浅い靴しかギルバートには見えなかった。顔を見上げる力はない。上から声が注ぐ。
「しかし、余計な事に首を突っ込みすぎた」
ラヴァザードはコツンコツコツンと錫杖と両足とで古代ルーン文字の描かれた床を鳴らし、ギルバートの周りを歩いた。
「なぜなのか? 私には全く理解できない」
演技がかっている。自己陶酔型で顕示欲も強いのだろう。こういう嘘くさい男がギルバートは好きではない。
「あれは十七歳だったろう? 君もそれは知っていたろう? なぜ、首を突っ込むのか」
ギルバートは声を絞る力もない。力があっても何か言ってやるつもりはこれっぽちもなかったが。
「あと数年だ。ほんのちょっとだよ……!」
足を止め、肩をすぼめて覗き込んでくるのが影の差し込み具合でわかった。が、振り向く気は相変わらずおきなかった。
「なぜ見送れないのか。君は歴史を変える存在になれるとでも思ったのかね? 君が関わる事で過去からの連鎖を断ち切れると? ばかばかしいっ……!」
ラヴァザードはギルバートの頭の上に杖の先を乗せた。
「八度繰り返された! そして、あれはもう十七だ! 後はもう……例え過去に捕らわれたとしても、時間切れじゃないか。何も変わらず終わったのだ。それをわざわざ掘り起こすような真似をして……」
一層覗きこんできて、囁くように「だから王家に目をつけられるのだ」と言った。
ふんっと吐き捨てるような息遣いが聞こえた直後、左のこめかみに鈍い衝撃が走った。弾みでギルバートは仰向けになった。錫杖を横から打ちつけられたらしい。ずきずきと痛みは尾をひいた。
逸らしていた視線を、ギルバートはラヴァザードへ向けた。
ラヴァザードは関心が自分に向いた事に頷き、しゃがみ込むとギルバートの顎を掴んで口の中に何かを押し込んだ。
薄い小さな紙きれらしきものが舌の上にはりつき、次の瞬間、ギルバートの口の中に甘みが広がった。
「噛む必要も飲み込む必要もありませんよ。溶け込めばそれでよいとの事だ。もう、どうにもならんよ。諦めたまえ」
そう言ってラヴァザードは腰を抱えて立ち上がり、あっさりと来た方へ戻って行った。最後、後ろ姿のままこう言い残して。
「君の事は嫌いではなかった。君と同じく、私もこの貴族至上主義の社会で庶民上がりだ。本音を言えば、ただただ君の行動が愚かしく、悲しい」
ぎこちない様子でラヴァザードは梯子を降りてきた。
白い石畳に両足を付けるとまもなく、彼の身長の倍はあった梯子と天井にあった穴、ギルバートの居る場所へ繋ぐ入り口がふぅと消えた。梯子は姿を消し、天井の穴は他の部分と同じ色と質感で埋まった。
白い床、白い壁、白い天井の特筆すべき点のないフロア。あるのは部屋の中央のポツンとした階下への階段。ラヴァザードは静かに降りて行った。
見送ってから、一歩踏みでた。
白いその空間に、何もなかった場所にすぅと影が浮かび、立体となった。
頭の先から足の先まで、さらに背負った刀の柄も鞘も黒で固めた男が一人……。
彼はラヴァザードが梯子で降り立った辺りに音も無く歩みを進めた後、懐から一つの久呪石を出した。紺呪石はそこらの石ころを変えて作る事が出来る耐久日数数日から数十年の魔術加工石なのに対し、久呪石は連綿と連なる自然の中に埋まる宝石の中でもさらに珍しい、自前で魔力を備えて半永久的に輝きと力を失わない石に魔術的加工を施したものだ。久呪石に込められた魔術は何千年何万年と消えない。
黒装束の男は久呪石を天井にかざした。
先ほど閉じたばかりの天井にふぅと青白い文字が六百字ほど浮き上がる。男にはさっぱり読めなかったし、読む気もなかった。
天井のブロックがカコカコと外れ、すとすとと足元に落ちてくる。すぐさま形が揺らぎ、梯子に変化して天井と床を繋いだ。
久呪石に込められた鍵の魔術だ。
男は梯子を使わず床をとんと弾いて飛び上がる。天井の穴を通り抜け、屋上の床に静かに着地していた。
男は音のないすり足でギルバートの横に一気に近寄ると肩ひざをついた。
「……!」
ギルバートは驚いていた。気配に気付かなかったのだろう。
常に身に魔力を帯び、精霊の力を借りていた魔術師だが、封じられては生身の人と変わらない。
──そうなると途端にこうも……。
黒装束の男は落胆を一切出さず、事務的に声を発す。
「ラヴァザードはお前に何を言った?」
ギルバートは何かを言おうとしたが、やめた。それだけの力がないのかと思えば、冷や汗を垂らしながらにやりと笑う。
黒装束の男──ゼットも黒い覆面の下で笑うしかない。
「何の情報もくれてやらん、そう言うつもりか?」
ゼットは、ヒルド国の国王が隠して持っている忍び。ヒルド国で誰よりも深く、誰よりも近く暗躍する。
「あまり意味はないぞ。むしろ、お前がかばおうとする娘に不利益だ。さっさと言っておけ」
ギルバートがゼットを強く睨んでくる。
「不利益というのが気になるか?」
「…………」
「ラヴァザードは何かしら話したろう? 私も同じように、とまではいかんかもしれんが話してやろう。何せお前はもう、なあ? わかっているだろう?」
ギルバートはふいと床に目をやった。
「お前は少しだけ勘違いをしていた。私と私以外の忍びが動いている事から王と王女が対立しているとでも簡単に思ったのだろう?」
よそを向きながらもギルバートの耳はこちらに集中してる。
「残念ながら三つ巴だ。ラヴァザードが来たろう? 本当に残念だが、王と……王妃が争っている。……愚かな王女は王妃の事に気付きもしないが」
王妃──その単語が出てきた瞬間にギルバートがこちらを向いた。
「例えば、お前がわかっている範囲の王と王女は、むしろ優しいだろう。事さえ無ければあの娘の命を奪いはしないだろう。その力が発現するなら利用しようとはするだろうが」
「……王妃?」
ギルバートがやっと言葉を発したのに対して、ゼットは大きく頷いた。
「表向き、病の為静養中という事になっている」
「どういう意味だ、わからん」
「王妃については私の方でも把握しきれん。王室で最も魔術に関する知が深い。簡単に近寄れるものではない。周知のことだが、何せメルギゾークを脱した魔術師本流の末裔──エリュミスの出だ。計り知れん。それで、王でも王女の側でもないラヴァザードがお前に何を言ったのか気にかかると言えば、私の言わんとする所も伝わるか?」
ギルバートは口にはしなかったが頷いた。
王と王女は大人しくしていれば──“紫紺の瞳の乙女”として動かなければ殺しはしないが、王妃はどんな事情でもユリシスを狙う。その手先としてラヴァザードが動いている可能性があると読める。
「何かを口の中に含まされた」
「見せろ」
ギルバートはおとなしく口を開く。ゼットが覗き込むとギルバートの舌の上に小さな小さな青白い文字が躍り、少しずつギルバートの体内に沈んみこんでいっているのが見えた。
ゼットにはいかなる魔術であるかは測れなかったが、結末は同じだろうと考えた。
ギルバートの口を閉じさせて、ゼットは問う。
「他には?」
「失望されたな、なぜ首を突っ込んだのかと。それ位だ」
「………そうか」
しばらく両者ともに何も言わなかったが、ゼットがすっくと立ち上がった。
「私の存在は、国王に絶対の忠誠を誓う物だ」
感情を持ってはならない物──それは、ゼット自身が言葉にして確認し、言い聞かせているようにも聞こえただろう。
ゼットはギルバートの目を見て告げる。
「お前は助からない。これは絶対だ。私がここに来た理由はただそれだけだ。お前は今から誰に裁かれる事も無く、死ぬ」
ギルバートがゴクリと唾を飲んだのがわかった。
「何か残したい言葉、行動はあるか?」
「──俺は死なない」
「………………わかった」
スラリと刃物が鞘を擦れる音がした。