(077)【2】それでも(1)
(1)
城が建てられてから既に二千年近い時を数える。増改築によって古い構造は少ないものの残ってはいる。特筆すべきはその白さ。地上から見た時、空へ伸びる輝く一筋の光に見える。崩壊した魔道大国メルギゾークから逃れる人々の手を引いた一族の示した希望の光をそのまま表していると言われている。
城の最初の主は、当時名もない平原だったこの地にヒルド国を興した。はじめは小規模な王城と十の塔が山の頂上に建っていた。その後、早々、初代国王在位中に山は掘り下げられ増築された。さらに地階も掘られて一層広くなった。メルギゾークを脱してこの地に辿り着いた民衆のほとんどは魔術的に劣って虐げられていた層だった。唯一、メルギゾーク最後の女王の親族故か、魔術師としての能力も高かった初代王妃が居たからこそ、この白亜の王城も生まれたと言える。
先述のとおり、当時からの構造は地階にごくわずかに残るのみだが、建国以降魔術師の能力自体は衰退している中、城の各所に施された、今でも最先端と呼べる魔術は多く残っている。当然ながら、現代では扱い切れない古代ルーン魔術ばかりだが。
現在の行政府はこの王城の地上一階にある。尖塔は幾度か建てなおされ、今では十二本が大空のに向けて伸びている。それら王城と尖塔を取り囲むように回廊が城壁に沿って二重の防壁として高く巡らされている。回廊と回廊の間には木々が茂り、自然だけではない闇が覆って人の侵入を拒んでいる。さらに城壁の外を木々が埋め、城下町との境として深い堀が城の敷地を囲っている。
城下町と王城を繋ぐのはずっしりと構える石造アーチ橋。これは物理的には稼動しない。魔術師によって魔術で稼動する。とはいえ残念ながら、長く戦争を経験せず、内乱もなかったこの国では、それを動かした記録は千数百年前の歴史書に残るだけだった。幾重にも張られた魔術トラップだけで、数十万の兵が常に王城を取り囲み、護っているようなものだ。他国もやすやすとは攻めて来ない。
ユリシスがそこへ飛び込む数分前の事だ。
アルフィードは王城へと続く石造アーチ橋の前へと歩み出ていた。
落ち着いた様子を装って近付き、門兵に軽く手を上げて挨拶。橋の上をゆったりと歩いて正面から入った。
王城の敷地内に何のお咎めもなく入れるのは王城に勤める上級貴族、司教以上の宗教関係者、そして第二級以上のオルファースの魔術師。これらの顔ぶれは門を預かる兵たちの記憶にしっかりと刻まれている。
第一級魔術師であるアルフィードは、何食わぬ顔で橋を渡りきり、二重の回廊を走り出したいのをこらえ、ふらりふらりと歩いた。
歩きながら、脳みそはフル稼働で動いている。
蜘蛛の巣のように細い、しかし強固な魔術的罠がそこかしこに張り巡らされている。王城の外周は比較的新しく簡易なもの──一定以上の魔術師なら誰でも扱えるような魔術が使われているが、城の深奥へ行く程、昔からある難解な魔術が待ち構えているはずだ。無駄な動きは極力避け、寄り道も無くギルバートのもとへ向かいたい。
時折、背後から豪奢な馬車がアルフィードを追い抜いてゆく。貴族様の通勤だろう。
回廊の床材は白地に模様のある岩をブロック状に切り出したものが敷き詰められている。轍は残らない。
アルフィードは目を凝らした。黒い馬車の跡をどうにかして追わねばならない。いくらなんでも、見えるものではないのだが。
以前もこうやって昼間に進入し、闇にひそみ、早朝を待ってここの姫を一人さらい出した事がある。その時と違うのは、求める存在の位置が把握できていないこと。以前は依頼主から姫の眠る場所がどこか聞かされており、準備も出来た。ギルバートが地上にも地下にも大きく広がる王城のどこに連れていかれたのか、アルフィードには全くわからない。
魔力波動を追おうにも、ギルバートは『黒の封環』で魔力そのものを封じられているはずだ。大きな波動でも出してくれればわかっただろうが、か細くなった彼の波動をこの魔力に満ちた王城から見つけ出すのは不可能だ。
──しかし……。
アルフィードは心の中でつぶやいた。
──やってやるさ。
ギルバートは、不確かな意識の中で必死に己を保とうとした。
時折頭を左右に振って自身を取り戻す。随分と長い事、階段を上ったり下りたり、また長く暗い通路を進んだり、じぐざぐとあっちへこっちへと連れまわされていた。左右の騎士たちの鎧のこすれる音、足音が響いく。いい加減、引きずられている靴の先が破けそうだ。
そうして唐突に、光が降り注ぐ。いや、外へ連れ出されたのだ。
重い首を持ち上げてギルバートは周囲を見渡した。
──空?
しかし、力なく首はまた足元へ。その足元には文字が描かれている。目を見開いて左右へ忙しく動かした。
──これは……!
ギルバートはその場の中央へと放り捨てられた。
両膝をついたものの、すぐに肩から崩れ、うつ伏せに倒れた。
目の前からこの場所の端まで、白い床面に文字が彫られている。
古代ルーン文字だと察する事が出来た。文字だけのはずがない。何らかの魔術だ。
背後でガシャガシャと鎧の音がした。ギルバートをここへ連れて来た騎士たちが姿を消したのだ。
耳が痛くなる程の静寂が訪れた。
目を瞬いた。周囲は空だ。青い空に薄い白い雲が転々と流れている。
おそらくどこかの屋上。だが、空気の流れが感じられない。密閉されているのか?
ギルバートはごくりと唾を飲み込んだ。
暗い森を抜けると視界はぐっと明るくなり、堀に出た。
空は青く、周囲は白く輝いている。野鳥が空の高いところを飛んでいる。ユリシスの気持ちをよそに、のどかな空気が流れている。何も無ければ昼寝でもしたいような陽気だ。
左右を見渡した。
知識として、ユリシスはこのお堀が城の敷地を巡っているのだとわかる。なにはともあれ、これを渡らなくては話にならない。
城とこちらを繋ぐ橋はずっと向こうあるが、丸く巡るお堀の為、見えない。どちらにしろ警備兵が居るのだから、ユリシスには通れない。
城に近づけば近づく程、辺りに魔力が充満しているという事がわかる。魔術でもって鉄壁の防御を敷いているのだろう。が、その魔術を読み解いてしまえば行き方を描いた地図がぶら下がっているようなものだった。
お堀に満たされた水にも気配を感じる。
ユリシスは右手の親指以外の指を下唇に当て、揉むように触れた。急いでどんな魔術を使うべきか考える。
しばらくしてさらさらと魔術を引いて、そっとお堀に投げてやった。
次の瞬間、ユリシスの目の前に人の二十倍の体長はある巨大な魚が水面から飛び跳ねてきた。不思議と音はない。お堀の中に居たのが信じられない大きさだ。
巨大魚はユリシスの投げた魔術をバクリッと飲み込んだ。
巨躯を持ち上げるパワー。陽光をキラキラと照り返す虹色の鱗。のっぺりとぬめった顔に丸い目。お堀の淵まで魚の頭は届き、短くも長くも感じられる滞空時間に、ユリシスはそいつと目をしっかりあわせた。
魚は透けており、あちらの風景がほんのり見えた。
飛び跳ねたはずなのに水音はしないし、お堀の水は飛び散りもせず、波打ってもいない。
巨大魚が再びお堀に沈むと、ユリシスは屈んで水面を覗き込んだ。
──そこで何してるの?
心で問いかけた。魚が食ったルーン文字、魔術を頼りに言葉を飛ばしているのだ。
──この堀を橋を使わずに渡ろうとする者を喰うておる。
口調に似合わず、澄んだ、透る若々しい声がした。
──いつから?
──……お前は渡るのか、渡らぬのか?
──……渡るよ。
──ならば喰わねばならん。
ユリシスは舌なめずりをした。冷や汗をかきそうになる。あの魚は精霊の類だ。年経て死んだモノがたまにそういう存在になるらしい事は書物から読んで知っている。しかし、現物に会うのは初めてだ。
戦わなければならない? いや、それは避けたい。
精霊は魔術師が助力を願う力の源のひとつ。
仲たがいをしたくはないし、なによりここで魔術戦を展開するのは論外だ。ならば、論破。言葉で彼をねじ伏せなければならない。
出来るだろうか……。
──主は?
──既に亡いな。
──なぜ、食べ続けるの?
──……。
答えはなく、しばらく両者は沈黙した。ユリシスは考え考え言葉をつむぐ。
──いつから、ここにいるの?
──……もう早、二千年近くここに縛られているな。
──二千……では主は初代ヒルド国王かそれに連なる存在だよね?
確認するように言いながらユリシスは古代ルーン文字を描きはじめる。それほどの魔力を使いはしない。この王城に充満する魔力に紛れる程の力加減で。
──人の世はよう知らん。だが、縁からここに棲む者を守る約束をした。
ユリシスは小さく頷いた。精霊が約束というのなら、それは契約だ。二千年もの長い時を縛る契約となると、どれだけ大きなものか。
──縁、というと?
──ディアナと約束をした。昔に、あれは我が一族を救った故な。
ディアナって誰だろうと思いながら、ユリシスは青白い文字を描き続ける。
──今度はあれの一族を我が守ると約束した。だからここにいる。
──ディアナ?
思ったままユリシスが問いかけると、魚は沈黙をした。
ユリシスは描いた魔術を保留にしたまま、魚の反応を待った。こと長い時を生きる精霊達を相手にする時、人間の性急さは嫌悪されると読んだ記憶があったから。
かれこれ十数分、ユリシスは焦れそうになるのをこらえ、ただ待った。
──しかし……。
魚は、重く言葉を吐き出した。
──しかし、お前が望むなら、ここを通そう。
──……え?
気を抜いた瞬間に描いていた魔術がふっとかき消えてしまう。
あっと思う間に、トプンと水につかる感触に飲まれた。急の事で反射的に目を瞑ったユリシスは慌てて頭を振って己を取り戻そうとした。
そして、目を開いた時、驚きを隠せなかった。
きのこ亭を五軒並べても埋められない幅のお堀を、目を瞑った瞬間に越えていたのだ。
丸いお堀の内側にユリシスはしゃがんでいた。体はどこも濡れていなかった。
慌ててお堀の水面を覗き込んだ。
──お前の道を妨ぐるものは全て、我が排除しよう。
魚の態度の変化にユリシスはついていけなかった。
──名をなんという?
──……ユリシス。
──そうか。我はヴァイヴォリーグ。我は常にお前達の力である事を忘れるな。
ユリシスは「はあ……?」と言葉とも相槌とも言えぬ返事をした。それしか思い浮かばなかったのだ。
それを魚が見抜いていたかどうかはわからなかったが、温かな気配が流れてくる。好意的な精霊の放つ柔らかな空気だ。笑っているらしい。
──わからんでいい。
──……。
──その瞳が示すまま、見つめるままに行くといい。
魚はそれだけ言うと完全に沈黙した。気配も遠のいた。
再び、魚の精霊ヴァイヴォリーグはこのお堀を回遊しているのだろう。
考えていたよりもずっと簡単にお堀を越えられた事にユリシスは呆け、しばらく次に動く事を忘れてしまっていた。