(076)【1】ここから始める(4)
(4)
オルファース総監デリータ・バハス・スティンバーグは、最近では毎日のように王城に呼ばれ、魔術機関オルファースに出勤する事の方が少なくなっていた。これは、そんなある朝の出来事だ。
ヒルド国王都ヒルディアムの中心にある王城。
ぐるりと取り囲む巨大な城壁の奥に十二の尖塔がある。その中央に白亜の城が荘厳な様子で建っている。城の中には様々な国家機関が収容されている。そこへ勤める者を癒す空中庭園もある。そして深奥、国王の座す宮殿──名をフィルフォア宮という──が在る。
その王城へデリータは、一人歩いていた。供の者は付けていなかった。物理的にも魔術的にも堅牢なこの王城では必要がないと、魔術機関最高責任者たるデリータは考え、普段から王城へは一人で訪れていた。
城下町と王城を隔てる厳重な城門抜け、二重の城壁に沿った道を歩き、城の内部へと誘う巨大な扉の前にデリータは立った。扉はデリータの身長の五倍の高さがある。その扉が開くのを待っていた時だった。
背後から複数の馬の蹄と石畳を叩く車輪の濁った音が聞こえた。振り返ると、整然と敷き詰められた白亜の舗石を踏み鳴らして漆黒の馬六頭が同色の馬車を引いて走って来た。六頭の馬は毛色はもちろん、馬具も胸懸もバックルも全て真っ黒だった。黒い馬車の方は大きく箱型で外から中は覗けない。小さな前輪も後輪も、装飾枠も全て黒く塗りつぶされていた。御者すら黒い衣装を身に纏っている。
デリータの真横で、馬達は嘶く事なく動くのを止めた。獣の汗の匂いがデリータの鼻腔に届いた。
デリータは胸の前まで持ち上げた右の拳を左手でくるみ、それを支えに姿勢を正して動揺しないよう耐えた。
中から、全身を鋼で鎧った騎士が一人出てきた。重装であるのだろうが、そうは見えない動きだ。背に負った両手剣すら、鳥の羽であるかのように立ち振る舞う。それらには王家の紋章が穿たれている。忠誠の証だ。
そして、馬車の中から見知った男が背を押されて出てくると、デリータは眩暈を必死でこらえた。
まさかと思ったのだ。
──ギルバート!
デリータがオルファースの未来を託したかった魔術師。
ギルバートは荒い呼吸をしていた。
何らかの抵抗をしようとしたのかもしれない。
無意識でも魔力を身の周りに少し放ってしまったのかもしれない。そんな事をしたら、余計つらくなるだろうに。
ギルバートの右手と左手を繋いで拘束している手錠は──真っ黒で幅の広い腕輪を二つくっつけ合わせたような手錠は、魔力を吸い込んでしまう。何か術を描こうと魔力を集中しようとしたならば、全身に魔力をめぐらそうとしたならば、手錠が起動する。銀の腕輪が真っ黒に見えるほど刻まれているのは古代ルーン文字だ。その古の魔術が、力を全て飲み込んでしまう。魂を縛り付けてくるのだ。
上級の魔術師ほど意識しないままに精霊と干渉しながら、周辺を浄化する。それは、魔力の放出によって行われる。上級魔術師達は呼吸をするように精霊達と対話する。それが仇となって、ギルバートは力の大半をその手錠『黒の封環』に奪われていた。
通称『黒の封環』、あるいは『魔封環』という。この魔術師封じの腕輪の存在をデリータは当然ながら知っていた。
魔術師を絶対支配する道具。使用権は国王にしかない。
フラフラと馬車を降り来て上半身を屈めるギルバートと目が合った。
ギルバートはフッと普段の笑顔を見せ、すぐ視線を逸らした。額からはジンワリと汗が浮いている。
ギルバートの後ろからもう一人の騎士が降りてくると黒い馬車──魔術師の葬送馬車は去って行った。
騎士達はデリータに敬礼をし、ギルバートの両脇を抱えるように歩いて丁度開いた城の扉をくぐる。
デリータはゆっくりとその後について扉をくぐった。
心が粟立つ。
それでも、背筋を伸ばしてデリータは表情を変えぬよう努めた。
騎士達とギルバートが地下へ続く扉のある通路へ入ってゆく後ろ姿すら、見送る事が出来なかった。
ヒルド国王城の左右には国教ゼヴィティクス大教会と魔術機関オルファースが配されており、白亜の城は国の中央にドッシリと座している。
大教会とオルファースから伸びる道が合わさって一本の太い道になると、それは緩やかな上り坂になって城門へと繋ぐ。王城全体を国民公園の森よりも密集した木々がぐるりと囲っている。迂闊にその森へと忍び込めば、昼間でも日の光がほとんど届かないせいか迷う。白亜の城と対比して、この闇の森は人を飲み込んで食らい、返さないという噂もある。
当然ながら、民がそぞろ迷い込まぬよう、周囲には大人の背程の鍛鉄の外構フェンスが美しく巡らされいる。
そのフェンスを、左右に人影がないのを確かめてユリシスはよじ登り、超えた。踏み入るは闇の森──目指すは白亜の城。
方角さえ誤らなければと大丈夫だろうと暗闇へ足を伸ばした。
魔術師というものは、精霊達との対話を常に絶やさない。太陽の光の流れてくる方向、風の向きも見誤る事はない。ユリシスは精霊達やエネルギーの流れに神経を集中させた。
が、森に入って緩やかながら登ったり降ったりしている内に、目が奇妙な錯覚に飲まれそうになる。延々と続く景色は薄暗い木々が植わっているばかりの森。簡単に迷子になってしまうというのも肯けた。
五分あまり薄闇をまっすぐ王城へ進んだ頃だろうか、くらりと軽い目眩を覚え、右手を額に当てて目を瞑った。数秒そうして目を開けた時、方向の一切を失った。自分の足跡も見当たらない。どちらに向かって歩いていたのかわからなくなった。
「……え……?」
驚いてユリシスは闇に目を凝らして周囲を見渡した。日陰というだけではない気がする。
周りに冷気が立ちこめてきているような不気味な感覚にとらわれ始め、歩いて汗ばんでいたユリシスは寒気を感じた。
王城に近いこの場所で、魔術を使うのは危険だと思った。
王様の居る場所はきっと警護も厳しいだろうから、魔力波動のチェックもされているのだろうと思ったのだ。それはユリシスの想像にすぎない。実際には、王城や各施設に魔術が施されており、小さな、例えば灯りの魔術程度なら紛れて誰にもわからない。
ユリシスは暗闇に手を伸ばした。すぐに木の感触が右手にコツリとあたる。軽くさすって木肌の感触を手のひらで確認した次の瞬間、木からバチンッと光が走り、ユリシスは右手のひらに軽い痺れを覚えてサッと手を引いた。
手のひらを見ると、青白く細い蜘蛛の糸のような光が数本絡まっていた。
ユリシスは口をへの字に曲げた。
糸が空気に揺れて右手に触れる度、痺れが襲い、次第にそれはひどくなってきていた。
胸の前で右手をかざし、指三本分ほど離した位置に左手あわせるように近づけた。そっと魔力を集めその糸を絡めて引っ張りあげる。左手を頭の上、右手を腰まで下げた頃、ユリシスの目の前で糸はふらふらと揺れていた。
何かの魔術の一部だろう。これ単体では指向性がないようだ。何の魔術的命令も込められていない。
糸を睨むユリシスの瞳は、紫からより青みを帯びていく。魔術に集中を高めて魔力を練る時、本人の気付かぬ内に瞳の色は都度一層紫紺の色に近くなる。
きゅうっと右手と左手をひねるとユリシスの魔力にあてられ、糸は縮れるように丸く固まっていく。それを先ほどの木に近づけるとあっさり吸い込まれた。
この魔術には心当たりがあった。
魔術罠の一種だ。魔力に対する耐性の無い生物を気絶させ、魔術糸の源に発動した事を知らせるセキュリティ魔術の一つだ。侵入者の動きを止め、その場所を知らせる。糸は長距離伸ばせるが伝達速度が遅い上、想定外の──例えば無害な鳥獣など──情報まで送ってしまう。最近ギルバートの書庫で読んだ。
多分、これでいい──ユリシスは心の中で呟いた。
魔術は木に仕込まれていたが、すぐに戻した。ユリシスは術の特性からも楽観的に「多分大丈夫、気づかれはしないだろう」と踏む。
魔術罠はこれで良いとしても、方向感覚は消えたままだ。
この辺り一帯に、方向に対する感覚を奪う魔術が仕掛けられていてもおかしくはない。あの目眩を感じた時だろうか。
まだ早朝、しかし森の中は薄闇。突っ立ったまま、ユリシスはそっと息を吐いた。
王城へ入るのはそれだけ難しいという事だ。
正面から入れるような身分ではないので森からこっそり忍び込もうと思ったが、行くも帰るもままならない状況になった。
前も後ろも右も左もわからない状況だが、ユリシスの心は落ち着いている。
さらに、これも魔術だろうか、闇は次第に濃くなって空間と物体の境界もわからないほどになってきた。だが、ユリシスは惑わない。
「……大丈夫」
小さな声で呟いた。
導はある──ギルバートを助ける、ただそれだけ。
──でも大丈夫。
追い込まれながら、逆にユリシスの紫紺の瞳は輝く。
やってのけてみせる、必ずギルバートを助け出す。
王城という得体の知れない化け物にこれから挑む事になる。それでも不思議と力が沸いてきている事にユリシスはちゃんと気付いていた。研ぎ澄まされていく感覚にも気付いていた。
方向感覚にかかっていた霞は徐々に薄れ、精霊の動き、流れが見え始める。
一度、精神的なものだったが、境界のない闇からは引き上げてもらった。もう迷いはしない。差し伸べられていた手が離れてしまっても、今度はちゃんと自分から伸ばしてゆける。
ここから始めてゆく。
前と比べて何か変わったなんて思っていなかったが、ギルバートに分けてもらった沢山の力を蓄えて、心はずっとしぶとくなっていたらしい。力がじわじわと沸きあがってくる。
ユリシス・グレイニーは、ここから始まる気がした。