(074)【1】ここから始める(2)
(2)
翌日、天気のいい午後。
ギルバートの方から王都の北にある遺跡に連れてってやると言って来た。
昨日は終日、未読本だらけの書庫にこもってどこにも行かなかったし、今日もどこにも行きたいとは思っていなかったのだが。
ユリシスは小首をかしげ、ギルバートに倣って軽装のまま表へ出た。
ギルバートと共に王都を正門から出たが、ふと、正門を使うのはいつぶりだろうとユリシスはペロリと舌を出した。少なくとも年単位は経過しているだろう。
都を出入りする旅人や商隊とすれ違いながら、ギルバートの後ろをついて歩いた。しばらく行った先の村でギルバートは馬を二頭借りた。いつもは魔術であっさり飛んでゆくのに。
「馬、乗った事あるか?」
馬を撫でながらニカッと笑うギルバートの問いに、ユリシスは首を小さく横に振った。彼はそうだろうそうだろうと嬉しそうに笑った。
馬具を整え、ああだこうだと乗り方を教えてもらいながら、いくら遺跡見学出来るとはいえこんな事なら未読本を読んでいたかったと思うユリシスだった。
王都で暮らしていく分にはあまり縁の無い獣の臭いが鼻をつく。慣れない馬に揺られ、ユリシスはギルバートの後ろをついていった。
硬い鞍に当たるお尻やら太腿やら膝が痛くて仕方ない。普段使わない筋肉はほんの数秒で悲鳴を上げている。痛みに顔をしかめていると、ギルバートが右隣に並んだ。
「落とされないだけマシだぞ。うまいもんだ」
あんまりにも嬉しそうに笑うのでユリシスは悔しくなった。
「これ、すっごい痛い!」
顔を歪めて言うが、ギルバートはハッハッハと声を上げて笑うだけだ。日頃から笑みを浮かべている男だが、大笑いするところは初めて見た気がする。ユリシスはちょっとだけ呆気にとられた。
彼はまだ体を屈めて大笑いしている。何がそこまでおかしいのかユリシスにはわからず、ただムッとして痛みに耐えて馬を歩かせた。
「ユリ……お前……やっぱ、バカ……」
笑いながらなので途切れがちに言葉を発しているが、それがまた余計に腹が立つ。ギロリと睨むが全く効果がない。
ギルバートは左手をユリシスの背中付近に伸ばしてきた。青白い光を指先にともし、ふわりと文字を描く。
「……あ」
──魔術。
腰がふわりと浮いた。鞍と自分のお尻の間に柔らかいクッションが挟まったようだった。膝はぴったりと馬の腹に当てたままだが、足腰への負担はお尻を包むクッションに座る事が出来て一気になくなった。
「出来ないなら俺に言えよ」
ギルバートはユリシスが乗馬を助け、痛みを和らげる術を使えないと思ったらしかった。
「出来たよ! 多分……。思いつかなかっただけ」
そう言い返したがギルバートは一層笑うだけだった。
誰かと居る時には絶対に魔術を使わない。それが今までのユリシスだった。だから、考えもしなかったのだ。
しばらくゆったりと街道を馬に揺られて歩いた。
時折、荷馬車や商隊とすれ違った。護衛についているのはきっと旅の冒険者や傭兵だ。きのこ亭にいた頃、そういうお客がよく来店したのを思い出す。知った人が居ないものかとキョロキョロしていると、こんにちはと挨拶をされた。驚いてユリシスも挨拶を返した。そういうものらしい事を初めて知った。
都から随分離れた遺跡へ向かっているようだった。
夕暮れ時になっても目的地には着かなかった。
不安になってギルバートに尋ねても「もうちょっと、もうちょっと」と言われるだけだった。
人の多い都に居なくて、大丈夫なのだろうか。
夕闇が迫ると不安がこみ上げてくるが、ギルバートには何か考えがあるに違いないと自分に言い聞かせ、ユリシスは大人しく彼について行った。
雑談を交えながら、遠のく王都の巨大な城壁や西側の森、東側の畑、青と朱色の混じり始めた空を見た。風は優しく、初めての乗馬で汗ばむ肌に心地よかった。
いよいよ日が暮れてゆくと、ギルバートはサラサラと魔術を両手で描き、馬の周囲を明るく照らした。
「都に居る事と都から遠く離れる事は結構似てるんだ。奴らは王家直属だから、そんなに長く都を離れられねえんだ」
暗にここまでは追ってこないと言っている。不安を取り除こうとしてくれたギルバートの気持ちに感謝した。星が見え始める頃、遺跡に着いた。
遺跡の入り口で野宿をする事になった。
街道から数歩出て、雑草の生えた地面に降り立った。久しぶりに固い大地を踏みしめたが、ふわふわした感じが抜けない。魔術の助けはあったが、やはり内腿が痛かった。足を撫でていると、ギルバートが二頭の馬の手綱を取り、遺跡入り口付近の木の柵に繋いでいた。
青白い魔術の灯りが、ゆらゆらと辺りを明るく照らしている。
適当に腰を下ろし、ギルバートが持っていた鞄から干し肉や乾パンを取り出したので二人で食べた。水は魔術で召喚してしまっていた。お弁当で十分のような気がしてギルバートを見たが……。
「旅っぽくていいだろ?」
ニマッと笑っている。いまいち、何がしたいのかわからない。
辺りには木々もなく、延々草原が続いていた。月と星と、ギルバートの灯す明かりだけが頼りなのに、景色の広がりはわかった。だだっぴろい平原にポツンとある遺跡。広さは魔術機関オルファース程もないとギルバートは言った。
「明日、じっくり見ような」
ゴロリと横になると、星と満月が見えた。二人並んで夜空を見上げた。
「……やっぱバカだよな」
「……」
「落ち込む前に話せばいいんだぞ。ちったぁ楽になる」
「え?」
瞬きをしながら上半身を起こし、ユリシスはギルバートを見た。
──気付かれていた? え? 一体何を。
ユリシスは小さく溜息をついた。
落ち込むと言ったら、今、一つしかない気がした。
「なんでわかるの?」
「結構、勘で言った」
「えぇ?」
彼はただ爽やかに笑っている。ユリシスは苦笑するしかない。
「俺がわかっている限りのお前の状況にだな、まだ十七だった俺を置き換えると、結構へこむだろうなって思うのに、お前はケロッとしてる。今の俺を置き換えても結構ショックだろうなと思うのに、お前は何も言わない。だが──」
はっきりと目があった。
「図星だったか?」
ユリシスは、滲むような黄色い光を放つ月を見上げた。
「……私、夢があった」
ギルバートなら、きっと聞いてくれる。
焚き火というにはおかしな、火を灯した紺呪石をギルバートは地面に置いて、再びごろんと横になった。馬の周囲にあった灯りの魔術はじんわりと消えていた。効果が切れたようだ。
なんだか風情があっていいなとユリシスは思った。
月明かりだけでなく、すぐ側にそっと温かな火が灯る。ゆらゆらと揺れる赤い光が濃淡をつけて辺りを染める。ちりちりと小さく爆ぜる。
「貧しい村を……魔術で豊かにして、家族に笑ってもらいたかった」
ユリシスはゆっくりと口を開き始めた。
考えたくなかった事のはずなのに、考えていなかった事なのにスラスラと言葉になっていく。この言葉はどこから生まれて来ているのだろう。
「八回も試験を受け続けたのは魔術師になりたかったから。貧しすぎたあの村で、家族が笑ってるところなんてほとんど見た事なかった。だから、たまに見れた笑顔が嬉しくて、すごく嬉しくて、私は、笑顔が好きになった。家族を笑顔にしたくて、役に立ちたくて、それだけが夢の支えだった……でも、私が……」
涙声になりそうなのを言葉を切って押し止めた。数秒かけてから次の言葉を続けた。
「私が、馬鹿だったんだね。ギルの言う通りにさ。家を出たら、あんな貧しい村だもん。生まれてなかった事にもするよ。私が村に残ってて、そういう子がいたら、そうするのに反対しないよ。その分、ご飯が食べられるんだし。だから、私が馬鹿で、私が悪いんだよ。戸籍が無くて、試験に受からなかった。八回分の歳月とお金も、自業自得。どれだけ空回ってるんだろうね、私」
両方の口角を無理やり引っ張りあげて、笑顔を作った。
ギルバートの手が伸びて来て、よしよしと頭を撫でてくれる。
勇気が出る。考えたくなかった、直視したくなかった事実に立ち向かう勇気が沸いてくる。
唇を結び、真面目な顔をしてユリシスは続ける。
「私を捨てた村……」
今度ははっきりと言えた。
そっとギルバートの手が離れた。
「家族の為に必死になってた私は、そんな事も知らずに受かるはずもない試験に八年も費やしていた……私の夢は……」
ユリシスは近くにあったギルバートの手を掴んだ。
自分を捨てた村を家族を、許せないと思った。憎みそうにもなった。でも、それは自分のせいでもあるのだ。そんな風に思う自分こそ、許すべきでない。
「ギルバート」
まっすぐ彼を見れば、笑みは無く、真剣な顔で聞いてくれていた。
「私の夢はそれでも、人を笑顔にする事だよ。やっぱり、あの村に帰って、家族を笑顔にしたい」
ギルバートはユリシスの言葉に何度も頷いてからから、わかったと言った。
言うだけ言い、初めての乗馬に疲れていた事もあってかユリシスはあっさりと眠りに落ちてしまった。安心したのかもしれない。
ギルバートは薪の無い魔術の焚き火を見下ろした。
すぐにその赤いチラチラした光をうけて眠るユリシスを見た。
ユリシスが眠ってしまってから、ギルバートは自分の外套をかけてやっていた。アルフィードの布団代わりになった事もある外套だ。
下は土、すこし冷えるかもしれない。そう思って、大地を温めるべく紺呪石に術を込めると地面の中に親指でググッと押し込んだ。
頭だけ出ている石は一瞬微かに光った後、地面にその力を広げた。
ギルバートは眠るユリシスの頭をそっと撫でた。
普段から朝が早いユリシスだから、日が暮れてしばらくすると眠くなるらしいのは知っていた。
「……バカだよな。一人で抱えちまう性分ってやつか? いつでも言えばいいんだ。どんな秘密でも、俺が半分持ってやるよ」
秘密を持つことの危うさなど、とうの昔に知っている。だからこそと思う。まだ十七で、夢を持つ子の重荷を少しでも減らせるなら簡単な事だ。
今、情熱を注ぐべきものをギルバートは持っていない。
かつて、ギルバートは心を交わした相手を守る事が出来なかった。その後悔を埋めて忘れさせてくれていたのがアルフィードという新しくやって来た弟子だった。成長著しい彼を育てる事に情熱を注ぐ。その間、様々な後悔やつらい記憶を心の奥へ押しやっておけた。……情熱を注ぎすぎた結果、とんでもない魔術師を世に送り出してしまったわけだが。
──いやいや、俺のせいじゃねぇよ? 奴は元々問題児だったんだ。
自分の物思いに言い訳をしてしまい、ギルバートは一人ふっと笑った。
アルフィードが巣立ってしまうと、一年も経たない内にギルバートの心には再び空虚な穴が開いた。
日中、仕事だけで忙しい。弟子も家族も居ないプライベートな時間が出来てしまうと、酒の量は簡単に増えた。暇な時間は自分には必要が無い事を自覚したものだ。
代わりを求めるつもりではない。これは自分の性分なのだと、ギルバートは思い込もうとした。
誰かの為に体を動かす事が、自分の心を癒す。本当は性分ではなく、ただ大事な存在を守れず失った悲しみや後悔を少しでも和らげたかった……やはり、自分勝手なのだ。
アルフィードが第五級魔術師になり、正魔術師の資格を得てギルバートの下を巣立ってからの数年間、なんだかやけに間延びした時間を過ごしてしまったとギルバートは思う。人の依頼をこなし、副総監の仕事をこなし……ただ大人の面をしていたと思う。
自分の両手を眺めた。
熱く夢を語るユリシス。
つらい目にあっているだろう、隠し事を何年も押し通すのは心が痛いだろう。夢の対象にすら裏切られていた事を知ってもなお、叶えたいと訴える。
何がユリシスを突き動かしているのか、ギルバートにはわからなかった。だが、自分が失っていた情熱はそこにある気がした。
後悔と戦う日々はもう終えようとギルバートは思う。
心を傷だらけにしても前へ前へと歩もうとするユリシスに、いつまでも昔の事に拘泥している自分を改めよう思わされる。
人が人と触れるのは、きっと必要としているからだ。補いあい、気付かされる。
年齢の上下も、立場の上下も関係がない。心、魂の前では平等なのだから。
ギルバートはそっと息を吐いて、決意を新たにする。そうすると、ニヤリと笑えてくる。
──いける! 何でも来い!




