(073)【1】ここから始める(1)
(1)
西の洞での襲撃があってから、ユリシスは心を開いてくれるようになった。まだ隠している事はあるだろうが十分だとギルバートは考えている。
ただ、紫紺の瞳の持ち主としての何かがあるなら話してもらいたいと思うが、やすやすと聞いていいものではない。『自覚』が見えないのだから──。
襲撃から二日経った昼過ぎの事。
ギルバートは書斎の窓からぼんやりと外を眺めていた。
通りに面していない側の庭、小さな池がこしらえられている。池の周りには石を並べてあり、さらに丈の低い草と小さな花がびっしりと植えられていた。水溜りのようにささやかな池へさわさわと風が流れては水面が波打ち、陽光も反射してキラキラ光る。春の日向のにおいがする。
あの襲撃、先に来た忍びはヒルド国国王ギルソウの回し者だとギルバートは推測を付けている。一方、ユリシスが対峙していた連中はギルソウの娘マナ姫の忍びだろう。
やはり、両者は別で動いている。お互いを牽制している。
だからこそ、前者ゼットはユリシスの危機にギルバートを解放した。ゼットと対決を続けていれば、決着を付けるのにはひどく時間を取られた事だろう。
あれから二日、その間、ユリシスの希望もあって王都内外近郊の遺跡や図書館へやらと振り回されたが、苦ではなかった。可愛いわがままだ。
今まで一人で気ままに暮らしていた分、むしろ楽しかったかもしれない。弟子も長らく居らず、暇だったのだ。
その間も、連中の襲撃は跡を絶たなかった。毎日のようにユリシスを狙って現れる。都さえ出なければそんな事はなかったのだろうが……。
連中も殺そうというわけではないらしく──忍びの暗殺術を考えれば、その点では極端に手を抜かれている──、自分さえいてやればしのげるので、あまり深刻には考えていなかった。
ただ、唯一、ギルバートが辟易としている点がある。
書斎の戸がノックされ、ギルバートは目を細めて「……開いてるぞ」と答えた。
扉をゆっくり開いてやって来たのは、分厚い本を開いたまま何やらブツブツとつぶやき歩くユリシスだった。
「ねえ、ギル、ちょっとこれわかんないんだけど……」
本を指さし、散らかった書斎の本を床同然に踏み潰しながらユリシスは窓際までやってくる。見えていないらしい。
「あ~もう、お前、頭、ゴミだらけじゃねーか」
地下書庫の一体どこを引っ掻き回してきたのか、埃まみれだ。払ってやるが本人は気付きもしない。
──これが危険信号。
しばらくしてわかった事だ。ユリシスの長所とも短所とも言える性格だが、夢中になったら周りが見えなくなる。恐ろしい程の集中力とも言えるが。
「ねえ、これ、ここ。なんで光の精霊と闇の精霊は別物って書いてるわけ?」
「ああ?」
特大の本だ。閉じても両手で抱えるに難しい、厚みも手の平を広げた程の本を、よく見れば魔術で軽くして片手で開いて持ってきている。
眉をひそめつつもギルバートはユリシスの指差すページを覗き込んだ。そして、内心、しまったと思う。
いつものパターンというものが早々に出来上がってしまっていた。昨日も一昨日もこのパターンで、本当かどうか確かめたいからこの遺跡に行くとか、もっとよく知りたいから大きな図書館に行くとか、言い出すのだ。ただ、行ってくると言うのだ。
一人で外出するなと言っているのに。結局、連れてけと言っている事に気付いていない。無意識だろう、探究心に思考力を奪われて周りが見えていないのだ。そこらへん、性質が悪いとギルバートは苦笑いする。
ユリシスを狙う存在を考えあわせれば、ギルバートが放っておくはずもないというものを。
結局、ギルバートはおねだりをされたワケでもないのに、ユリシスのしたいようにさせてしまうのである。
ギルバートはしみじみ思う。この探究心だからこそ、独学で魔術を得る事が出来たのだろうと。
埃を払ってやりながら、そのまま頭を撫でた。
きょとんとしたユリシスの紫紺の瞳がギルバートを見上げる。
「お前って、バカだよな~」
「へ? な、なにそれ! だ、だって、光と闇って相反する別々のものじゃないでしょ? 普通に考えて、これって疑問だよ。なのにこの本ったら不親切でそこんとこ解説ないんだもん。定説は同一視でしょ!? 私が馬鹿なわけじゃないってば」
真面目すぎてバカなんだという言葉を、ギルバートは笑って飲み込んだ。
「いいか? 光と闇は目には二種類に見るが、精霊側からすると明滅みたいなもんでお前の言うように同一存在の裏と表だと言われてる。昔は光の精霊と闇の精霊は別物だと考えられていたが、昨今では一つの存在だというのが、古代ルーン魔術の解析から確認されている」
ユリシスの持ってきた本は相当古いもので、曖昧な時代に書かれたものだろう。著者もはっきりと書かなかったようだ。
「……そういえば、光と闇はそうでも、火とか風の精霊には裏も表もないよね?」
火の反対は水だとか風の反対は土だとは言わない。効果はあっても、火は水を、水は火を魔術的に相殺出来ない。
「あるだろう。防炎魔術はわかるか?」
「うん」
「記述する構文のベースは、炎の術だってのは気づいてたか?」
「……あ」
「火をつけるのも、消すのもどちらも火の精霊を召喚する。風をおさめる時もだ。光と闇みたいに目に見える反対概念の言葉が無いだけだよ。大昔、光と闇みたいに分けて考えられてなかったせいだな、きっと」
ユリシスは「そっか!」と閃いたように目を大きく開いたが、すぐに手を顎に当てて顔を逸らした。
「──あれ? 大火事の時、火の術でなくて水の術を使ったような……あ、そうか、炎の精霊は大半が暴走させられてたし、残ってた精霊もみんなオルファースが……」
「あ? 何?」
「あ、なんでも、なんでもない!」
「で? 今日はどこにも行かないのか?」
窓枠に肘をつき、ギルバートは口元に笑みをたたえてユリシスを見た。
「なんで? 別にどこにも行かないよ?」
そう言うとユリシスは書斎を出て行った。おそらく、地下書庫に戻ったのだろう。眉を上げ、扉を見たままギルバートは独り言を言う。
「研究者向きの魔術師だよな、性質は」
だが、事も無げに独学の魔術で本の重さを調節し、安定させていた。この間の襲撃でも、数分にしろ、持ち堪えるだけの魔術を使ってみせた。
ギルバートは真顔で顎を撫でた。
安定して魔術を使えるというのは見習いを脱却する第一歩なのだが、その観点から言えば、ユリシスは既に正魔術師と変わらない。
こと戦闘については経験不足というのは否めないにしろ、アルフィードという完全戦闘タイプの魔術師を見てきたギルバートからすれば、素質を感じずにはいられない。
紫紺の瞳だとか、何年も合格をもらえなかっただとか変なおまけがついているが、弟子としてユリシスは鍛えがいのある素材だと思った。そうして、嬉しくなる。
ポンと叩いて鈍い音を返されるのではなく、澄み通った音を四方に反響されている感じだ。波のように返ってくる。
ギルバートは一人で笑って呟いた。
「こりゃ楽しみだ」
「──ギル!」
直後、書斎の扉を元気よく、勢いのまま開いたユリシスが現れた。重い本ではなく、二通の封書を持っていた。
「こ、これ、郵便、届いた」
本を蹴倒し、踏みずらし、ユリシスはおたおたと姿勢を崩しながら突進してきた。手渡された封書の差出人にギルバートは目を通す。思わずニヤリと笑った。
「おめでとう、ユリシス。お前さんは晴れて俺の弟子になった。これはその認定の書類だ」
開けてみな、と一通をユリシスにほいと返した。
「も、もう一つは?」
勢いよく駆けて来たわけは、封筒に書かれた差出人から中身が何なのかわかっていたからではないかとギルバートは思う。すぐ周りは見えなくはなるが、決して頭は悪く。
ギルバートは手元の封書をびりっと指先で器用に開けると、一枚の紙をひっぱりだした。
「こっちは、お前が俺の養女になりましたっていう証明書だ」
その書面をギルバート・グレイニーはヒラリとユリシスに見せてやった。
ユリシスの口はぽかんと間抜けに開いている。瞬きしながら紫紺の瞳は書面を走る。
「ユリシス・グレイニー? あはっ、なんか、変な感じ」
肩をちょろっと上げ、ユリシスはクスクスとはにかむように笑った。
封書は自分で保管しておけとギルバートに言われ、ユリシスは二階にもらった自室へ置きに戻った。
以前までのきのこ亭の屋根裏部屋とは違い、それなりの広さと大きな出窓が一つある。ベッドと机とユリシスの数少ない私物があるだけ部屋。塵ひとつ無いフローリングに白い壁の新しいユリシスの城。
どさりとベッドに腰を下ろすと、おしりが軽く跳ねた。少しだけ、以前までの板のように固かったマットを思い出した。
ユリシスは証明書を封書から出し、文面を見る。
名前がユリシス・グレイニーになっていた。
──不思議な気分になる。
自分はフリューティム村のユリシスだと思っていた。が、ギルバートに聞かされた話では、戸籍登録がなく、自分という存在はこの国にいなかったそうだ。ギルバートが難民申請をし、その後、養女として迎えてくれた。
名前と戸籍と、新しい家族を得た。
当然の事だが、自分自身の体は何も変わらない。
何も変わらないのに、自分が家族だと思っていたフリューティム村の両親や兄弟達とは縁が切れてしまったようだ。……いや、元から無かったらしいのだが。
柔らかな風がレースのカーテンを揺らす部屋。春の心地良い気候。この季節は毎年巡ってきていた。実家で家族と暮らしていた間も、きのこ亭に来てからも、そして、今も。
自分の手足を眺めた。
この体は何も変わらないのに。
ギルバートは事実だけを教えてくれた。
──今、深く考えたくない。
ユリシスは体を起こし、静かに窓際に立った。庭が見えた。ちょうど真下がギルバートの書斎になっていて、彼は今もそこにいるだろう。
戸籍上、あの村にユリシスは生まれていなかった。
確かに、生まれた村は日々食べるのも困難な程、貧しかった。
いなくなった人間にかかる税金を払うという事をしなかったのも、頷ける。
──大丈夫、理解できる。
呼吸が、運動をしたわけでもないのに、こんなに荒くなるのは初めてだ。
服の胸元を自分で鷲づかみにした。
誰かを憎みそう。
──まる八年だ……。
誰なのかは、考えたくない。今は考えたくない。
生まれたあの村を正魔術師になって豊かにしたい。家族に笑顔を。
それだけが、夢で、心を支えてきたものだった。それを考えるのは、今はやめておこう。わかりきっているのだ。自分勝手が過ぎる。
今はただ、全くの他人だったにも関わらず助けてくれるギルバートに応えていこう。
感謝で心を満たしておこうと、ユリシスはぎゅっと目を閉じた。