(072)【4】優しい手(5)
(5)
既に、二人の追っ手は真後ろから速度を上げて迫っており、いよいよ本格的にユリシスを捕捉するつもりらしい。
考えに考えて、先ほどの爆炎の魔術トラップを張る事にした。
自分の通り過ぎた足元へ一つ、踏めば爆発するものを三歩分以上の大きさで地面に落とした。が、しばらくたっても爆発しない。踏んではくれなかったようだ。
──……罠を置いても簡単にはかかってはくれないのか。
先ほどギルバートが洞の出口に罠を張っていたのを思い出してやってみたのだが、シチュエーションが違いすぎたか。魔術師ではないだろうに、魔力の流れが読めるのだろうか……。
ユリシスは集中の為に足を止め、急速に魔力を練り上げ、魔術を三つ仕上げた。追加で引っ張りだした三つの空の紺呪石にそれぞれ術を込めた。アルフィードはじゃらじゃらと紺呪石をぶら下げていたが、この手間を省く為なのだろう。
いま出来る最大の事として作り上げた三つの石と先ほど作った二つの石を、うまく使い分けて戦わなければならない。
五つの石を使う前に、リアルタイムで術を一つ描いて発動させた。
ユリシスの周囲三十歩四方が完全な闇に覆われる。
こんな目くらましが役にたってくれるだろうか……。
他者には目くらまし、術者には手の平のようにその場の挙動が精霊を通して伝わる魔術。ただし、発動時間はそれほど長くない。
──……古代ルーン魔術なら、時間の調節も出来たのに……もっといろんな仕掛けもできたのに……。
相手が近接戦闘タイプでなければ、いや、あれほど素早く動く連中でさえなければ、こんな先読みと魔術の先がけばかりの戦いではないだろうに。
二つの忍び達の気配が、闇の中へ何のためらいも無しに飛び込んで来た。連中は正確にユリシスの気配を捉えている。
ユリシスは退がるよりも前へ出る。
忍び達の体の運び方には差がある。
熟練者とその手下といったところか。
迷わず熟練者の方へユリシスは飛び出していた。相手は武器を持たず、素手でユリシスを捕らえにかかってくる。
二つの紺呪石を握り締めた左手に魔力を集め、ユリシスは勢い良く突き出した。
案の定、闇の中ながら、ユリシスの腕は忍びに捉えられるが、瞬間に二つの紺呪石に魔力を込め、術を発動させた。
鈍く低い音と共に、闇の中、一瞬だけ赤い光が閃く。
目があった。
忍びは先ほどの少年とは違い、成人の体格をしていた。年齢までは量りかねた。
視界は鮮血が散って、すぐ闇に戻った。
──……結構、いや、かなり痛い。
カイ・シアーズの真似にすぎない、こんな戦い方しか出来ないとは……。
左手を開いて、包んでいた紺呪石を開放して術を炸裂させたのだ。爆裂の術──視界に散った大半の血は相手のものだが、自分の手の平にもあちこちに裂傷が走ったのがわかる。もう一つの紺呪石、防護魔術も同時に発動させ、腕を守ったつもりだったが、全ての衝撃を打ち消す事は出来なかったようだ。
相手が怯んだスキに今度は右手に握っていた石を一つ、魔力を込めてから投げつけた。さらに、背後から迫る気配、もう一人の忍びに向かって一つを投げつける。魔術を込めた紺呪石は残りあと一つ。
二つの石が同時に炸裂した直後、辺りの闇の魔術が効果時間を終え、消える。
ユリシスの前方と後方で、地面から盛り上がる大地に飲まれてゆく忍びの姿があらわになった。
──ここから、どうする?
術はせいぜい腰か胸辺りまで地面に飲み込んだら、止まる。
──敵の動きは止めた。どうするの?
湿った土の臭いが広がる。忍び二人は逃れようともがいているが、土はその動きにあわせ、手足に絡みつき、地面へ引き込んでいく。
──……殺す……の?
荒い呼吸の合間、ぐっと唇を閉じた。
──何それ?
閃いた行動パターンには疑問しか浮かばなかった。
こんなにも非日常的な事はない。自分の生活習慣の中から答えを導き出す手順や例がない。
どうしたらいいのかさっぱりわからない。困惑して次の手を打てずにいるユリシスの背後で、手下と思われる忍びが胸まで飲まれ、身動きが取れずにいた。
一方、前に居た熟練者の方の忍びがスルリとユリシスの術を抜けた。
ユリシスが息を飲んで驚く間に、忍びは大地を蹴って目前に迫った。
避ける間も無かった。忍びはユリシスを押し倒して馬乗りになり、その喉元に短刀をあてがった。初めて言葉を口にする。
「我々と共に来て頂く」
聞いた事がある。先日、カイ・シアーズと会話していた忍びの声と同じだ。高くもなく、低くもなく、感情もない男の声。若そうな感じがして、ユリシスの耳に残った。
少しでも動けば、その鋭利な刃が喉の皮膚を破りそうで恐ろしかった。ポタポタと忍びの右腕から血が滴ってユリシスの服を汚した。その怪我をさせた魔術を撃ったのは、自分だ。
本当に、自分の常識の範囲外だ。
手に残る紺呪石の事も忘れ、恐怖に震えがきていた。
声さえ出せずにユリシスはもがいたが、それは数瞬の事だった。
しゅっと、聞き取れるか聞き取れないほどの音が聞こえた直後、ユリシスの喉元を圧迫していた刃がサラサラと灰となって風に散った。
瞬間、ユリシスと忍びの間に青白い膜が生まれ、爆音が耳を貫いた。青白い膜の上を炎と土煙が爆風に乗って滑るように吹き抜ける。
周囲は火に包まれていたが、膜の下で守られていたユリシスは熱さえ感じなかった。自分の作り出した防護魔術ではないせいか、反射的に手を顔の前で交差させていた。その向こう、耳鳴りの残る耳に声が聞こえた。
「……あんまり、俺を本気にさせるなよ?」
土煙が風に流され、地面の上に残る魔術の火が次第に消えていく合間、忍びを踏みつけているギルバートを見つけられた。
全身を裂傷と火傷で喘ぐ忍びの顎を右足で、鳩尾を左の踵で踏みつけている。
赤い炎に彩られ、熱風に赤い髪をさらすギルバートの姿は、普段とは全く違う人物のように思われた。
ユリシスは肘をつき、上半身を起こした。目前の二人の間に、明確な殺意がある。それこそが、ユリシスの非常識である。戦いの光景なのだ。
──見ておこう。ちゃんと見て、覚えよう。
ユリシスは震える手をさすりあわせながら立ち上がった。
しかし、ギルバートはそんなユリシスをチラリと見ただけで、すぐ視線を忍びへ戻し、口を開いた。
「お前の主も大体わかるぞ。必ず伝えろ、関わるなと」
ギルバートはそれだけ言って忍びから離れた。忍びはよろめきながらも立ち上がり体勢を整えると、ギルバートからジリジリと後退る。そのままユリシスが埋めた手下忍びを引っ張りぬいた。こちらは大地の圧力で気を失っているようだ。
「……あちらはどうした?」
忍びは意外にも口を開いた。あちらというのは、先ほどギルバートが相手にしたゼットの事だ。
「さてね。お前さんにゃ関係ねぇだろう。というより、知りたきゃ自分で調べな」
「…………どこまで知り得ている?」
「それも、自分で調べな」
ギルバートによって手下二人を殺され、ゼットは自ら立ち去った。また、さらに別系統の忍び二人はユリシスによって行動不能にさせられた。最後に残った一人は今、ギルバートによって戦闘不能にされ、立ち去った。
ユリシスはただ呆然と立ち尽くす。
パンッと軽い音が宙に向けて鳴った。
勢いに遅れた髪が後から付いてきて、叩き下ろされた頬にぱらぱらとかかった。
「……へ?」
強引に下へ向けられた視線をそのまま地面へ向けたまま、ユリシスは間の抜けた声を漏らした。
視界の端に自分の黒い髪が割り込んでいる。その向こうに、戦闘の跡、踏みにじられ、少し焦げた地面の上にあるギルバートのブーツが見えた。やはり土に汚れている。
「お前、俺の言った事を覚えてるか?」
上から降ってくる言葉にユリシスは小さく頷いた。
「自分で言った言葉、覚えてるか?」
ユリシスはもう一度頷いた。
「俺は都へ逃げろと言ったし、お前はわかったって言ったんだ」
「うん」
ユリシスはそっと殴られた左頬に手を沿えた。熱くなってる。
ギルバートはそっと息を吐き出し、続けた。
「意味わかってんのか?」
「……だって、アルが来てくれる様子なかったし、都に入ったらどうなるか……だから……」
口から出た言葉の声音は、拗ねた子供と変わらなかった。
「だからなんだよ。俺がその位の事も考えずにお前に都へ逃げろなんて言うと本気で思ってんのかよ……。奴らは隠密が最大の使命だ。関係のない者に触れるなんてあり得ない。普通なら絶対関わらない一般人でごったがえす都で、奴らが姿をあらわにするわけねーだろーがっ」
「…………あ……そか……」
「言ったろう。太刀打ちできると思うなって。事、戦うっていうのは、元来、看板娘やってたのお前の人生で多分、非常識なんだよ。あいつらはそれを常識の生業にしてるような連中なんだ」
一気にまくしたててから、ギルバートは髪を乱暴に掻き、その手を払うと腰に当てた。ユリシスの耳に深い溜め息が聞こえた。
「……頼むから」
少しだけ間をおいて、ギルバートの声は届いた。
「俺を信じてくれ」
ユリシスはうつむいたまま、頷いた。
それを確認して、ギルバートはほっと息を吐くと微笑んだが、その表情はユリシスには見えなかった。うつむいたまま、顔をあげられなくなっていたから。
それにユリシスが気付いたのは、ギルバートに頬を打たれた瞬間だった。
気付いたらあとはもう、涙が頬を伝うのをどうすることもできなかった。打たれた頬にあてがった自分の手の平が熱い。指の間をトロトロとした涙が絡まった。
言い付けどおりに都へ行かなかったわけを問われて、答えた声音は、それでも震える事はなく、ユリシス自身ずいぶんと驚いた。その涙が、心が揺り動かされて零れたものではなかったという事になるから。
止まらず溢れるばかりの涙のそのわけを、始めユリシスもわからなかった。そのヒントをギルバートはそっと告げたのだ、ただ一言、信じてくれと。
──……ああ、そうか……私は、信じていなかった……。
何も、誰も信じて生きて来なかったのかもしれない。
ユリシスが必死で身につけた魔術や沢山の知識は、隠す義務を生み、心から人を信じる権利をユリシスから取り上げてしまっていたのだ。
秘密を持つ、隠し事をする。
事情があったら仕方ないものだと思っていた。今も、心底悪い事だとは思わない。
だが、代償はとても大きかった気がした。隠していた内容はどうあれ、人として当たり前に備えておくべき信じるという大事な感情を、捨てながら生きていたのだという事にユリシスは気付いた。
その代償が、気付いた途端、あまりに痛くて。
自分を不幸だと思った事なんてなかったのに。いつも夢を見て一生懸命走って、そんな生活が出来ているなら十分に幸せだと思っていたのに。自分という体の中から大事なものを毎日毎日捨てながら生きていたのだと思うと、後悔とは言い切れない切なさが胸を締め付けた。
手に入れてきた力とその為に捨ててきた人としての大事な心。
──本当は、その行為に気付いていながら見ないフリをしてきた自分と、取り戻せないという覚悟をした元の自分。覚悟をして生きてきて今の自分を作り上げたのに、たった一人で走って来ていた間は、それでいいと思っていたのに、そこに、こんなにも優しい手が差し伸べられては、それまでの自分が馬鹿みたいに思えて涙が止まらなかった。
気付けば、泣きやまないユリシスの頭をそっと撫でてくれるギルバートの手がある。
誰かの目に映る自分に気付いた。
初めて哀れだと思った。馬鹿だと思った。どちらかと言えば、ぶん殴ってしまいたかった。
そして、本当に殴って気付かせてくれたその手に、それでも許して撫でてくれる優しい手に、感謝の気持ちが止まらなかった。
その気持ちが一層ユリシスの涙を止めない。小さな、小さな声でユリシスは呟いた。
「ごめんなさい」
「いいさ」
そう言ってくれる彼の表情が見たくなった。
涙で酷いままの顔を持ち上げて、ユリシスはギルバートを見た。普段とはちょっと違う、きっと泣き止まないユリシスに困ってる、でも、優しい笑顔があった。ユリシスはギルバートと目をあわせ、涙に引っ張られる頬を持ち上げると、微笑んだ。
「……ありがとう」




