(069)【4】優しい手(2)
(2)
ユリシスがアルフィードと買い物に出た頃、ギルバートは、魔術機関オルファースにあるカイ・シアーズの執務室を訪ねていた。
「よう」
「──ああ、ギルバート。すいませんね、こんな朝早くに呼び出して。私の方が訪ねられればよかったのですが……」
扉を開いたカイ・シアーズは、そのままギルバートを室内に招き入れた。
「いや、気にしなくていいぜ」
室内の基調はブルー。ギルバートの執務室がモスグリーンなのに対して、カイ・シアーズの執務室はブルーで統一されている。大きな書棚と机、ソファを除いて、物はほとんどなく、綺麗に片付いていた。
親しくしている事もあり、勧められるまでもなく、ギルバートは勝手知ったる部屋の中央に配されたソファに腰を下ろした。
部屋の主は机の横に立って迎えてくれていたが、青色の外套を脱ぐと、ギルバートの正面のソファに腰かけた。
「どっか出かけてたのか?」
「ええ」
「朝から忙しいなぁ、お前は」
ギルバートの言葉に、カイ・シアーズは曖昧に微笑んだ。
「きっと、あなた程ではありませんよ」
「どうだかね。俺、大概怠けもんだぜ?」
「そう思ってるのはあなただけですよ。今もこっそり、ナルディの悩みを聞いてくれているでしょう? 私に言えない事はあなたの所へ行くみたいです。邪魔になるからやめなさいと言ってはいるんですが……申し訳ありません」
「かまわねぇよ、そん位」
耳の後ろ辺りをカリカリかいて笑うギルバートに、カイ・シアーズは「ありがとうございます」と言って笑った。が、すぐに姿勢を正すと、頬を引き締め、伊達眼鏡をはずして内ポケットにしまった。
遮るものが無くなって、ぱらりと金色の前髪が青い目を隠す。カイ・シアーズは顔を上げるだけの動作でそれを払うと、口を開いた。
「──ギル。最近の総監のご様子、どう考えますか?」
威儀をただすカイ・シアーズを前に、ギルバートはソファにもたれかかっていた体を前のめりに倒した。
「どう……ってのは、どういう意味だ?」
「ドリアム様の動向が気になるので周辺を追っていたのですが……必然、デリータ様の動きも追っていたんです」
ドリアムが次期総監になるべく根回しを続けていた件を、カイ・シアーズなりに調査していたのだ。
魔術機関オルファースが気に入らない方向へ進んでゆくのは、身分による差別、貴族至上主義にも一端があるとカイ・シアーズは考えている。デリータ総監同様、カイ・シアーズもまた、魔術は全ての人に平等であるべきというオルファース創始者キリーの思想を支持している。
貴族至上主義の先導者はドリアムやベイク・ベイソル・ウォールディの一族である。その彼らが皆、魔術師である事をカイ・シアーズは懸念していた。
魔術機関オルファースが汚染されれば、簡単に国全体に広がってゆく。
身分に対して公平であると打ち出している魔術機関オルファースが、この国が貴族至上主義へと方向転換してしまうのを阻止する最後の砦だ。
魔術機関オルファースは、ヒルド国が出来た頃からある。
始祖が初代国王の兄であった事もあり、はじめから、魔術機関オルファースには特別な恩恵と権限が与えられていた。
──国を傾けるならオルファースから。
過去、何度かヒルド国が存亡の危機に立たされた時には、必ずオルファースの魔術師が絡んでいた。大きな権限を与えられていたから、国の根幹さえ揺り動かすパワーをオルファースは持ち得ていた。そもそも、戦闘型の魔術師一人で百の騎兵に勝るとも言われている。当然ながら、王家に最も忠実な者が総監に抜擢される。
ドリアムが次期総監になるべく動く意図は何なのか。ただの権力欲なのか、それとも──。もし、彼が危険な思想を持っていたら、注意をしておかなければならない。国が倒れる時、悲しいほどの犠牲が付きまとうだから。
ドリアムに抗する現総監デリータ・バハス・スティンバーグはなるべくして総監になった。オルファース魔術機関の運営については何の問題もないが、にらみが足りない。
既に、貴族至上主義を形作る、閉鎖的な隠蔽体質が見え隠れする。良い例が、かの“紫紺の瞳の少女”の八回にも及ぶ、不合格──カイ・シアーズはユリシスが難民であった事を知らないが、果たして、試験は受けられていたのに何の調査もされず放置された理由は、どう結論づけたものか。
ドリアムのような者がつけあがり、このまま望ましくない方向に進むのならば、いっそオルファースなど無くなってしまえば良いと思う。同時に、カイ・シアーズはデリータをいつか助けられるならと情報を集めている。助けるべき時を計る為、デリータの情報を集めていた。
「総監の動き?」
「ええ、最近ではオルファース内の小さな会議のみならず、大きな会議にも出ておいででない事、ギルも知っているでしょう?」
「そういや、特別に会う事がない限り、姿を見ないな。前は結構、見かけた気もするが……」
「王から特命が下っているようなんです」
「特命?」
「以前から、私があなたに依頼をしている話があったでしょう?」
「……メルギゾーク滅亡、紫紺の瞳の乙女。例の伝承の件だな」
ギルバートは顔色を変えずに言った。
「私はあなたに忠告されましたが……出来れば、巨大な力を持ち、今また、危険になりつつあるオルファースを、沈めたい。無くしてしまった方が良いと思っています」
「…………」
「でも、危険でないなら、沈めなくてもいいと思っているのも事実。オルファースどころかヒルド国の命運をも左右する事が出来る存在。存続を根底から揺るがす事の出来る紫紺の瞳の乙女。どこからでも構わない。私は、人々が日々の暮らしを守れるよう、力を尽くしたい」
──言っている事がデタラメだ。
ギルバートは出かけた言葉を飲み込み、次を促す。
「……それで?」
「総監が拝命しているのは、メルギゾーク滅亡に付随するようなものなのかもしれない」
「どういう意味だ?」
「魔術機関オルファースと同じように、このヒルド国成立の頃から大きな権力を持っている組織──ゼヴィティクス教の存在です」
王家、貴族、魔術師ときて、宗教まで顔を出すのかと、ギルバートは目を細めた。
「かの組織の施設である大教会。この地下には、メルギゾークとヒルド国の歴史が、人目に触れぬ歴史が、壁画という古典的な手法で残っているといいます。そこへ入れるのは王家の者や、それらを保護するゼヴィティクス教の幹部達位なのですが……。そこへの立ち入り許可を、総監が王に申請したと」
ギルバートは少し視線を泳がせ思案したが、答えを見つけきれなかった。
「魔道大国メルギゾークの滅亡は、最期の紫紺の瞳の乙女一人の行った事とも言われているのですが、その歴史がひっそりと描かれていると言われています」
「……」
「私は……ギルバート…………」
カイ・シアーズは口ごもった。紫紺の瞳の乙女が現存する事を知っていると続けようとして、やめたのだ。
また一方、ギルバートも紫紺の瞳の乙女がいる事を、ユリシスの事を口に出すまいと固く決めた。
カイ・シアーズなら、絶対的なパワーを持つそれを利用しようとするかもしれない。
ギルバートなら、先手に回り、何としても阻むだろう。お互いを理解する故に、口を閉ざす。
それでも、会話を再開させたのはギルバートだった。
「つまり、何が言いたい? 総監が王命でメルギゾーク滅亡の歴史を探っている?」
顎をひき、ゆるく首を左右に振って続ける。
「おいおい、馬鹿馬鹿しいにも程があるぞ? 王こそ、最もその歴史を受け継いでいる。王なら大教会の地下施設にいつでも、誰の、何の許可もなく行ける。なんでわざわざ総監が、王にとって既知の事を調べるよう指示されるんだ?」
「ですから、そこは…………」
紫紺の瞳の乙女の存在が現代にある事、それが王にも知れ、王は何らかの理由でその乙女を探し始めているのではないか。その先兵が、総監なのではないか。
「そこは、わかりませんが……」
言葉をにごすカイ・シアーズに、ギルバートは小さく溜め息をついた。
カイ・シアーズは、魔術機関オルファースが貴族至上主義に乗っ取られ、国を倒すのではないかと恐れている。その位なら、オルファースを潰してしまった方が良い──そう、かつてメルギークを滅ぼした“紫紺の瞳の乙女”を復活させて、その強大な力で、と。
同時に、オルファースを守りたいが為に総監を追い、王がこれまた“紫紺の瞳の乙女”の力を使うのではないかと、案じている。
かつて栄華を誇った魔道大国メルギークを滅ぼしたという力に、不安を覚えるのは仕方がないにしろ、考えがあまりに不明瞭だ。力の暴走を恐れるあまり、思考が一本通っていない。
「お前は心配性すぎる。ありもしない妄想に振り回されてるって、気付いてるか? なまじ頭が良いせいか、いらない想像ばっか働かせちまってる。それに、そんなスケールのでかい事は、そうそう起こるもんじゃあないんだ。国だって、なんだかんだで続く。お前は──……考えすぎだ」
一気に言い捨て、ギルバートはカイ・シアーズの執務室を後にした。
──らしくもない、言葉が強すぎた。
だが、事は既に、こんなにも早く動いていたのかと、ギルバートは肝を冷やした。
あらかたの方面に“紫紺の瞳の乙女”の存在は、知られているらしい。
足早にオルファースを出ると役所を訪れ、ユリシスがちゃんと自分の養子になっている事を確認した。
どうやら先手は打てていたらしい。
ギルバートはふっと白く抜けるように青い空を見上げた。不遇の……可哀想な女の子を見ていると、助けてやりたくなる。
本人は何も知らないのだ。普通の人生を送らせてやりたいじゃないか。
ギルバートには本来、今日もちゃんと仕事があった。
副総監として顔を出しておかなければならない所、国や金持ち様の施設へ出向いて魔術措置を施したり、点検したり、いくつか予定があった。それをすっとばしてでも、ギルバートはユリシスを守る為、いくつかの根回しが出来ているかを確認してまわった。
昨日の晩、ユリシスが二階の部屋へ上がった後、ギルバートはアルフィードに魔術の伝言を飛ばした。
魔術で召喚する精霊、ギルバートは火の精霊と特に相性がいい事もあり、炎を呼び出した。ルーン文字を描いて伝言を頼むと、炎は透けるように、不自然に姿を消し、どこぞにいるアルフィードの近くにある炎の中に移動し、精霊が飲み込んだルーン文字を再び吐き出すという方法で言葉を伝えてくれる。アルフィードの側からすれば、いきなり近くにある炎が揺らぎ、ギルバートの筆跡で文字を描くのだから驚きそうなものだが、そういった伝達手段に慣れているのでなんて事はない。
ギルバートは、アルフィードにすぐに邸に来るようにとだけ告げた。
一階の書斎で待っていたギルバートの元に、アルフィードは思いのほか早く現れた。
書斎は広くない。執務室の半分もない部屋は、地下室から持ち込んだ本で溢れ、散らかっていた。足の踏み場は、かろうじてある程度だった。
「お前には話しておこうと思ったんだよ」
「何?」
「俺、ある子供を養子にもらった」
「──は?」
アルフィードの顔は、驚きで口の端が笑っている。
「お前も会った事があるんだが。俺だけじゃ手がまわらないかもしれないんで、お前にも手伝ってもらいたいんだよ」
付き合いが長く、アルフィードはギルバートが昔の恋を引きずって独身を貫いているのは知っていた。にもかかわらず、子持ちとは──。アルフィードはまだくすくすと笑っている。
「何を?」
笑いを堪えながら言うアルフィードに対して、ギルバートは至って真面目に言う。
「刺客から俺の子を守るのを」
ギルバートが表情を消して言うから、アルフィードの笑いも簡単に消えてしまった。
養子と聞いて冗談かと思って笑いが込み上げていた。三十七歳の独身男が今更何をとち狂ったのかと思ったからだ。
だが、その一言を聞いてアルフィードは妙に納得した。
「“守る”って?」
至って真剣な、鋭い表情でアルフィードは問う。
「厄介な事に巻き込まれてるみたいでな。俺は……守りたいと思ったんだ」
「…………俺が会った事あるって、誰?」
「ユリシスだよ」
「……あ~……あいつ」
アルフィードは、目の前の師匠の癖──頭をかりかりと掻いていた。そうして言葉を続けた。
「ギル、あんた、まだ吹っ切れてないんだな」
ギルバートは、ただ穏やかに微笑んだだけだった。
若い頃のギルバートには、どうしても守りたかった少女がいた。守れなかったのだが。それに未だ縛られたままのギルバートを、アルフィードはしょうがないと溜め息を吐き出した。
誰にでもあるものだが──師匠の心の闇、誰も立ち入る事の出来ない痛み……過去とアルフィードは知っている。
ギルバートは微笑みながら、いつまでたっても乗り越えられない記憶に、心が泣きそうになるのを堪えていたのだった。
誰しも過去がある。利用するわけではないが、ユリシスを守る事で、成し遂げる事で己の魂の開放を願う。似た事を繰り返して、今度こそはと立ち上がろうとする。──次は必ずと。
ギルバートはゆっくりと瞬きをしてから、アルフィードを見た。
「手伝って、もらえるか?」
「しゃぁねぇなぁ……俺の弟弟子でもあるわけだし、かまわないぜ」
こうして、ギルバートが傍に居れない時のユリシスの保護をアルフィードは無償で請け負ったのだった。
ギルバートは己の出来る限りの準備をしておこうと思った。
想像以上に事態の進展が早いようで……。
一昨日、ユリシスが現れるまで読んでいた例の洞窟の壁面に刻まれていた文章を、思い返す。その文章は、ギルバートは知らない事だが、ユリシスがエナ姫を誘拐犯である姉弟魔術師から守ろうと逃げ出そうとした折、弟魔術師が放った爆炎魔術で吹き飛ばした壁画の下から出てきたものだった。
先にギルバートが行っていなければ、ユリシスも見てしまった事だろう。
ユリシスには明日と言っておきながら、今日、ギルバートはその足を洞窟へ向けた。はじめは歩いていたが次第に駆け、しまいには魔術をひき、昼前の都を文字通り飛び出した。
雲の無い空を飛びながら、ギルバートは思い出していた。
洞の奥の広間。瓦礫を避けて進んだ壁面には、短い、ほんの数行の文章が刻まれていた。ひっそりと長い時を眠っていたのだろう。
『存在という存在を総べる女王にして、至上の魔術師ディアナ。
貴女に私の総べてという総べてを捧ぐ』
──あれはきっと、ユリシスにとってよくない。
『今、人はその紫紺の瞳を災厄と忌避し、呪いと定めた。
一部の者が、貴女が記憶を継承する稀有な存在だと知ってしまったから。その貴女方がメルギゾークを滅してしまったから。
貴女がいかに優れ、その英知でもって、メルギゾークを、世界を救ったかも知らずに。
私の女王。総べての女王』
古代ルーン文字で壁に刻まれたそれは、むしろ、そら恐ろしく感じられた。ギルバート自身、過去に苛まれている。人は誰でも、その短い人生の中、いくつかの場所で足を止め、引きずりながら生きねばならない。ひとつ、ひとつと荷を背負い込んで生きて行かなければならない。なのに。
『願わくば。
もう一度私が生を受ける事が叶うなら。
次の紫紺の瞳の乙女と共に。
その生こそ、共に』
──……あれは、消しておこう。
あのの、古代ルーン文字で刻まれ、隠されていた文字こそ、呪いだ。
『──今は亡き、女王ディアナに永遠の忠誠と愛を誓う。
キリー・フィア・オルファース』