(065)【3】素敵な嘘(4)
(4)
同じ頃、ギルバートは自宅の地下室に居た。
地下は二階建ての地上よりも深く、三階まであり、それらすべてが書物で埋め尽くされている。持ち出し禁止の書物を自ら覚え、書き写した書も数多くある。
ユリシス・ニア・フリューティムの故郷であるフリューティム村が、実は、キリー村の事だとわかって、ギルバートはすぐにそこへ飛んだ。今日の昼の話だ。
白い日差しが乾いた大地を焼いていた。ひび割れた大地の向こうに、おまけ程度の木製の柵が巡らされて、小さなゲートに続いていた。
ゲートを見上げると、崩れかけた看板がかけられており、そこには「フリューティム村」と彫られていた。
村は、禿げた山にもたれ掛かるように寂しく広がっていた。
長時間飛行して辿り着き、地上に降り立った。外套を翻し、ギルバートは歩いてそのゲートを越えた。
ここは国の最果て、第一級魔術師ギルバートの飛行術ですら、最速で三時間あまりかかった。
人は誰も見当たらない。ちょっと見、廃墟のようだ。
枯れきった細い木がひょろりひょろりと二、三本生えていたりするが、貧しさをより印象付けるものでしかなかった。
岩壁に掘られた二十ほどの洞と、今にも崩れそうなレンガ造り家が散らばって建っている。それぞれの入り口には破れかけた薄汚い布が垂れ下げられていて、時折吹く風にパサパサとなびいていた。
人はいないようだったが、ところどころ焚き火の跡や新しい足跡がいくつもある。生活の痕跡はあるようだ。
村の中央まで足を進め、ギルバートはどうしたものか、腕を組んだ。その背後で、衣をずるような足音が聞こえ、慌てて振り返った。
「……どちら様かな」
しゃがれた声は、男女の区別もつかない。
折れ曲がった背中、杖をついても引きづられるように前へ進む左足。すすけた外套を頭からかぶっており、隙間から白いちぢれた髪がのぞいている。その奥の細いまなざしが、やんわりと放たれた声とは裏腹に、こちらを強く睨んでいた。
ギルバートは老人に対し、姿勢を正した。普段のにやけた表情は出なかった。
「私はギルバート・グレイニーと申します。あなたはこちらの村の方ですか?」
老人はこの村の長老である事を名乗り、ギルバートを、とりあえず、歓迎してくれた。
長老の家へ招かれたギルバートは、この村が本当にヒルド国の一部であるのか、疑わしく思った。それほど、貧しかった。
家の調度品はレンガ造りの作りっぱなしで、日々食べ、寝るための道具しか見あたらなかった。
床にはお飾り程度に布が置いてあって、そこへ座るように促された。ソファというものは無いらしい。
長老はギルバートから二足ほど離れて座った。外套を外して横へ置き、干からびた手足が顕になったが、やはり男か女かはわからなかった。
「旅の魔術師さんが訪れる事はとても稀だ。前回来られた方でも、もう十年前だ。あんたは何をしに来なさった?」
「……魔術師とよくおわかりに……」
「こんな所は、酔狂な魔術師しか来ないねぇ。特に用の無いお方は素通りしてゆくよ、こんな所はね……。何ぞ聞きたい事がおありかね?」
「……ある子供が魔術師になりたがっています。こちらの出身らしいのですが、どうにも戸籍が見当たりません」
この村から送られたという台帳は、一九年前と九年前のものがあったが、前者はユリシスも産まれておらず載っていないし、載っていてしかるべき後者には記載が無かった。
「……まぁね、あんたはとても頭が良さそうだ。まぁ、魔術師なんてものは皆たいがい頭が良いね。わかるだろう?」
カサカサに乾いているのに、ねっとりとこびり付くような声音を長老は発した。
「この村──なぁんもない。村の衆は皆、大人も子供も、毎日総出で食べ物を探しに行っているのさ。それでも、毎日、毎日腹を空かしてる」
ギルバートは一瞬顔を歪めたが、話を戻す。
「そのある子供は、数年前にこの村を飛び出しているそうです。戸籍の登録は……」
長老は両方の口角をぐぐっと下げ、笑った。
「行方の知れんくなった子を、何故登録するかね?」
「……」
「その子というのは、アリューのとこの子だろうね、居なくなった時は必死で探していたものねぇ。でもね、私達はね、生活せねばならんからね。その子は、捨ててしまったねぇ」
「登録をすれば税金が加算される、だから登録をせず、産まれた事を無かった事にした……?」
「アリューの子は生きていたんだねぇ。それも魔術師になりたいなどと……」
長老はクックックッと湿り気の足りない声で笑った。ギルバートは片手を膝の前に付き、前のめりになった。
「魔術師の試験を通るには身元を明らかにしなくてはならない。その子は何度も試験を受けているが、受からない。理由はやはり、戸籍を持っていなかったから、ですか」
長老は笑ったまま言う。
「……そういう事になりそうだねぇ」
「今からでも遅くはありません、登録をしては頂けませんか?」
ギルバートの言葉に長老は笑うのをやめ、冷たくギルバートを睨み、見下ろした。
「それは無理な話だよ。金は過去を振り返って払わねばならん。遅れた事の罰金もあるんじゃないか?」
長老はずいっと乗り出して、骨に皮が張り付いてるだけの手で、ギルバートの胸を刺すように撫でた。
「あの子は何歳になったかね? 一体いくら用意するのかね? 交易するネタもない、この底冷えのする貧しい村が、一体どれだけの金を持っていると?」
今度は下から恨みがましい目で見上げてきた。
薄気味の悪い印象しか、得られない。ため息を吐き出したい気分を、腹立ちを、ギルバートは押さえ込んだ。
「わかりました。あの子に関わる全ての責任は私が負いましょう。戸籍へ登録してやって下さい」
ギルバートは座ったまま薄っぺらい座布団から退がり、頭を下げた。
長老もまた、そっと離れた。
「無理じゃな。最初から申告しておらんかった罪を、村は被る事になる、それは無理じゃ。罰金なぞ払えるものか」
「それも私が……」
「払わんでいい。アリューの子は魔術師になりたいと言うとるのじゃろう? それは無理じゃ。この村は、王家とも魔術とも縁を切りたがったキリー・フィア・オルファースが作ったものでなぁ。掟があるんだよ、こんなちんけな村でもねぇ」
干からびた皺まみれの顔、目だけがギロリと光っていた。
──いわく、王家と魔術に関わるな。
はらわたが煮えくり返りそうな感覚は、久しぶりだった。
その場で深く考えるのも意味はないし、声を荒げたところで乾いた皮の向こうの老獪な意思は変えられないだろう。
「では、確認をさせて頂きたい。その子供、ユリシス・ニア・フリューティムと名乗る子はこの村の子供ではない、そういう事でよろしいのですね」
長老は小さく頷く。
「そもそも、この国にはフリューティムなどという名の村は存在しないんだしねぇ。このキリー村に、そんな子はおらんねぇ」
「その言葉、決してお忘れになる事ないように」
長老にそれだけ言い放って、ギルバートは王都へと戻った。
すでに夕闇が迫っていた。
それからは、地下室の蔵書に埋もれて調べ物を続けていた。
明日は明日でやらねばならない事も多いが、知っておかなければならない事も山のようにある。
持ち出し禁止の書は、過去、自分もやったが、弟子に修行だと言って図書館で暗記させては家で書かせていた。目を通すのは初めてのものも多い。
魔道大国メルギゾークから人々が落ち延びた際、率いていた男がヒルド国の初代国王である事は、有名というよりも常識だ。だが、その男が実は魔術機関オルファースを立ち上げたキリー・フィア・オルファースの実弟である事は、あまり知られていない。さらには、その男の妻、つまり王妃が、メルギゾーク最期の女王の妹であった事は、完全に歴史に埋もれてしまっている。この四者に何があったのかは知らないが、キリー・フィア・オルファースが晩年過ごした村の生まれだからといって、ユリシスが魔術師になれないのはおかしい話だ。
──ユリシスは運がいい。
ギルバートはそう思う。
──ユリシスは本当に運がいい。
村を出て、どうやら一度も帰っていなかったらしい。その事から、死んだものとされて、戸籍に登録されていない。
キリー村で登録されていたなら、村の掟とやらに拘束されたろうし、おそらく国側でも何らかの動きを取られた事だろう、排除されるとか。何せ、キリー村へは一切の経済援助、支援をするなという記録がある。二千年も前、初代国王が制定したらしいが、こんなものが今も有効だとは……。
ユリシスは、今はただ、戸籍未登録者、身元不明者として試験を弾かれているだけのはずだ。これは非常にラッキーだ。
地下室を魔術の灯りで照らして歩く。下働きさせられる弟子がおらず、魔術関連のこの地下室と書斎は掃除が行き届いていない。埃が溜まった床を、ゆっくりと歩く。
目当ての本、というより目ぼしい本を探す。改めて、魔道大国メルギゾークは、なぜ滅んだのか。
背表紙に指を当ててなぞり、次々と本のタイトルを睨んでゆく。書棚の一番上の段は、ギルバートの背の一.五倍はある。梯子を持ってくるのも面倒だから、サッと魔術で浮いて見てゆく。
──言ってみれば、ユリシスは難民だ。
ヒルド国こそ平和そのものだが、近隣諸国に争いは絶えず、この国に流れ着いて来る難民は大勢いる。密かに逃れてきた他国の者同士から、この国で生れ落ちる者がいて、そういう存在は大概、国籍を初めから持っていない。得る資格も無い。
いわゆる、書類とか法に整理される社会からはみだしてしまった存在、難民だ。ユリシスもそれに該当するだろう。
ならば、救いようはある。
ギルバートは思わず微笑んでいた自分に気付いた。
「まったく、遠回りで、運が悪いんだか良いんだか……」
そして、一冊の書を見つける。
現在、ゼヴィテクス教大司教ラヴァザード・ベネフッドの手元に原書があるルーン魔術史の写本──そこからさらに写した本だ。
内心、よくこんなものまで写したもんだと感心する。どの弟子が写したかはわからないが、おそらく読めもしなかったであろう。
突っ立ったまま、ギルバートは古代ルーン文字のみで書かれたルーン魔術史を開いた。
翌朝、ユリシスはいつものように朝陽が昇るか昇らないかの時間に、目を覚ました。今日はちょっとした目標、目的があった。
ネオは言った。
王族貴族こそが神の遣いであり、民衆は神の遣いの為だけに存在するという偏った知識によるおかしな差別が、ヒルド国の前身、魔道大国メルギゾークにあったと。
信心深い方ではないユリシスは、国教であるゼヴィテクス教の教会に足を運んだ事がほとんどない。が、唯一絶対の神と、神には手足となって働く神の遣いがいた事は知っていた。
夕べ、軽く調べた所、神のようにすべてを見通す目はないが、代わりに千里を飛び越える翼を与えられた神の遣いがいた、という事を知った。それらの存在は“天使”と呼ばれていたと。天使には翼がある──という事だ。もう“天使”だとかいう言葉は、どうでもよくなった。
問題は、翼だ。
見たことがある。
絵だったけれども。
幼いエナ姫と出会った場所、ギルバートやアルフィードと遭遇して例の黒装束の連中が、王族の忍びだったと知らされた場所。
またそこへ行くというのは相当に滅入るが、どうせどこに居たって事態はきっと変わらない。そこで何かが起こるのを期待して身を任せてみるのも、いいかもしれない。
洞の奥には、天使が描かれていた。今はもう亡き姉弟魔術師が荒らしたあの場所で、天使以外に見たのは、あれは絵とかヒビじゃない──きっと文字、古代ルーン文字だった。
寝巻きから外着に着替えた頃には、朝陽は地平線から頭を出していた。
何でもいい、何からでもいい、ヒントになってもならなくてもいい。ちょっとでも気になったら、全部飛びついてやる。謎になんてしない。「わからないままでいる方がいい」と言われた事もある。
──……でも。
帯紐をギュッと締めなおして、きのこ亭三.五階の住み慣れた部屋で、晴れ渡る空を、方々に煌き放つ陽光を、ユリシスは鮮やかな紫紺の瞳で受け止めた。