(064)【3】素敵な嘘(3)
(3)
温かな陽の射すオルファース魔術機関の中庭で、ユリシスは一人、昼食をとっていた。
いつも一緒のイワンとヒルカは、教室に残って宿題をしている。字を書かないといけないから、教室の机が必要なのだ。ユリシスは夕べの内に済ませていた。
サワサワと抜ける風が心地いい。
柔らかい芝に腰を下ろして、ぼんやりと空を、雲を眺めた。
自然だけは変わらない。それがわかる世界にいられる事が、救いだった。
ふと、芝を踏む音に振り返った。ネオがゆったりとこちらへ向かって歩いてきていた。ユリシスの視線に気付くと、ネオは小さく手を振って足を速めた。ユリシスも小さく手を振った。
「今日は一人?」
ネオはそう言うと、ユリシスの隣に腰を下ろした。
「うん、二人は教室で宿題」
「そっか」
「ネオも一人?」
「ああ、シャリー? すぐ来るんじゃないかな」
ネオは肩に下げていたカバンから包みを取り出した。
ユリシスは目を丸くして、包みを見た。お弁当を自作する貴族も珍しい。初めてみた時も笑ってしまったが、やはり珍しい。
「ユリシス……」
少し低い声に、ユリシスは姿勢を戻した。
「ん?」
「ちょっとだけ聞いてもらってもいい? 相談ていうか、愚痴なんだけどさ」
普段あまり口を開かないネオは、目線を空へ向けたままポツリとつぶやいた。
「……リンド魔術師協会って、知ってる?」
ユリシスが首を横に振るのを見てから、ネオは空を仰いだまま、ぽつりぽつり話し始めた。
──リンド魔術師協会。
国の公的機関でもあるオルファースとは異なり私設協会で、商人由来の“魔術師組合”みたいなものである。
魔術機関オルファースが出来て数百年もした頃──。
全くの荒野に、滅んだ魔道大国メルギゾークから移住してきた人々はヒルド国を建て、ようやっと豊かさを手にし始めた。つまり、貧富の差が生まれ始めたのだ。
オルファースの魔術師達が金持ち──貴族専属になってゆく様を見て、一般国民にもその大きな力は解放されるべきだと考えた商人リンドが、私財を投げ打ち、考えに同調する魔術師達と手を合わせて作り上げた私設組合が、リンド魔術師協会だ。現在もリンドの遺産をやりくりしながら魔術機関オルファースと共存している。
このリンド魔術師協会という存在は、簡単には動かない公的機関である魔術機関オルファースに対し、無料で魔術師との相談会を開いたり、貧しい地区や被災地区に対して迅速に魔術師を派遣する。すべての魔術師はオルファースに所属しているので、その規範内で活動している。魔術師によるボランティア団体のようなものである──近年までは。オルファースのみならず、そこにも貴族至上主義は流れ込んでいるのが、現在のリンド魔術師協会の姿だ。
リンド魔術師協会の会長職は代々リンドの末裔が務めていたのだが、ここ半世紀の間に初代リンドの思想とは裏腹に、私腹を肥やした子孫達は貴族と婚姻関係を結び、徐々に上位貴族に近付いた。リンドの子孫達は代々根っからの商人である事に劣等感を抱いていた。貴族への憧れが強かったのだ。一方、貴族側はその資金力と商人でありながら魔術師達への圧力を持っていたリンド家に、興味を抱いていたわけである。
そして、現在のリンド魔術協会の会長職を務めているのは……。
ベイグ・ベルソル・ウォールディの伯父だ。
ネオはそこまでをユリシスに説明すると、小さく息を吐いた。
「今の会長さんが、そのベイグって人の伯父さんなのが……ネオの悩み事?」
ネオはチラリとだけユリシスを見て、正面を向きなおした。
「ユリシスは知らないだろうね……うん」
「?」
ネオが困ったように、曖昧に微笑んだ。
「知らないから、こうして愚痴らせてもらおうとしてるのかも」
「ネオ?」
「……時間、まだ大丈夫?」
「うん、まだまだ大丈夫だよ」
ユリシスは微笑んで返した。
元来、人の話を聞くが好きな性質のユリシスは、ネオの話を聞くうち、自分の問題を忘れている事に気付いていなかった。それ故に、普段通りの笑顔を作る事も簡単に出来ていた。
ユリシスの笑顔を見て、ネオは続きを話し始めた。
ベイグは、何かにつけてネオに絡んでくる二十歳の第二級魔術師だ。自称ネオのライバル。シャリーが心底嫌っているリーフェティナ・フェルト・イアロージーとよく一緒にいる男である。ペッタリとした黒髪のおかっぱをしていて、顔立ちはとても綺麗。繊細な王子様と言われても、通るかもしれない。
話を聞いていても、面識はないわ、王子様なんて絵本の世界でしかないユリシスには、いまいちイメージが掴めなかった。そんなユリシスの横で、真正面を見据えながら淡々と話すネオの瞳には、微かに影が宿る。ユリシスは口を挟まず、はっきりと頷きながら話を聞いた。
ベイグの家は代々魔術を操る貴族として名高い。その父が妻に迎えたのが、リンド家の娘だった。ベイグの母が商人リンド家の血筋になる。母の兄がリンド協会の現会長というわけだ。
問題は、会長職は十年毎にリンド家から選ばれているのだが、今期、どういう事情か、ベイグの父へと移りそうになっているという噂が、ごく一部の貴族、上位貴族達の間で持ち上がっている。
ベイグ・ベイソル・ウォールディと同様、父も当然、貴族至上主義者だ。一度リンド家から会長職権が貴族へ移れば、二度とリンド家へは戻らないだろうと、皆囁いている。
「それは、いけない事なの?」
ユリシスの問いに、ネオは薄く微笑んだ。
まだ“魔術師”ではないユリシスは、当然、知りようもない。ユリシスがいかに裏でコソコソと魔術を得たとしても、世の魔術師達がどのように生きているかなんてものは、知るすべがない。無知とも無垢とも言えないが、その様は、ネオをほっと和ませた。
「一度だけ、ユリシスはリーナに会ったことがあるよね?」
リーナやベイグが度々行っているリンド魔術師協会会員として『真の教育』──無料相談会は、結局のところ、身分による違いを延々と強く説いているものなのだ。民は王侯貴族に支配されるものなのだと。ネオからすれば、身分の違う者達の溝をより深くする活動にすぎない。役割はあっても、それによる迫害があってはならないと、ネオは考える。
ユリシスはうんうんと頷きながら聞いている。
「今はまだ、リンド魔術師協会は商人の──というか商工会の手にあるからいいけど……」
「しょうこうかい」
「あ~…話がどんどん複雑になってゆくね」
ネオがまた困ったように、しかし、心底可笑しいというように微笑んだ。
「商工会の話は省略するね。とにかく商人や職人の組合だよ」
ユリシスは、またうんうんと頷いた。
まだ、会長が商人のリンド家の者だから、リンド魔術師協会の決定には、商工会の同意も必要になっている。しかし、会長職権が貴族に、ウォールディ家に移ってしまえば、商工会は黙殺される可能性が高い。貴族達は、その権利を取り上げる事も目的だったから。そのうちきっと、庶民から魔術を奪うのだ。
「う~ん……。リンド魔術師協会ってそんなにいいの? メリットとかよくわかんないな。だってボランティア団体なんでしょ?」
ユリシスの問いに、ネオは厳しい顔をした。
「ボランティアと称して人々に本来とは異なるリンド魔術師協会の姿を見せつけ、それが本当になってゆくんだろうね。協会ではなく、貴族の成果になってゆくんだ。本来、人々を無償で救う団体だったはずが、貴族こそ、王族こそが神の遣いであり、民衆は神の遣いの為だけに存在するという偏った知識が伝えられ、おかしな身分差別意識が植え付けられてゆくよ」
ユリシスは、グーにした手を顎に当て、首をひねった。
「ごめん、よくわからない」
眉根にしわを寄せて考えるユリシスに、ネオは厳しい顔のまま正面を睨み、答えなかった。
「神ってなに? 身分差別って、今もあるよね? もっと酷くなるって事?」
「……──文献によると、ヒルド国の前身、魔道大国メルギゾークの末期は、支配者層と被支配者層にはどうしようもない程の溝があったと……」
貴族の馬車がとある庶民を轢いた。その庶民の家族が、馬車を穢したと処刑された。その事例を、ネオはわざわざ言う事は無かったが、辿り着くのがそこなら、ヒルド国でも繰り返されるなら、それは悲劇だ。
「……メルギゾークがなんで滅んだのかは、まだまだ謎が多いけれど、オルファースの創始者キリー・フィア・オルファースも、リンド魔術師協会の創始者モスキング・フィズ・リンドも、魔術を身分わけ隔てないものにしようとしていたんだ。精霊は、事象は、地位なんて選ばないから」
「…………」
「おばあさまは必死にキリー・フィア・オルファースの思想を守ろうとしているけれど、次期総監にはドリアム様がなるだろうって言われてて……リーナの父親だよ、貴族至上主義者のね」
「……えっと……」
「リンド魔術師協会がベイグの父のものに、オルファースがリーナの父のものになる世の中がその内来てしまう……」
沈黙したままの時間が流れる。
ネオは自分の内に引きこもり、難しい事を考えているようだ。
ユリシスはしばらく待ったが、立ち上がり、真正面を見据えて座るネオの目の前にひょっこり顔を持っていった。目をあわせるために。
「ネオ」
「ん?」
「それって…………愚痴?」
「……?」
「相談?」
「あ……いや……うーん、なんだか、ちがうねぇ」
言って数秒して、ネオは跳ねるように笑った。ユリシスも笑った。
ひとしきり笑って、ネオは両手を腰より後ろにつくと、空を見上げた。視界の端でユリシスの後姿があった。ユリシスは柔らかな風の中に立っている。
「考えすぎると、人って不安になるよね。どんどん思いつめちゃって」
「……そうかもしれない。なんだか、誰にも言えなかったんだ。日頃から抱えてたと、思う」
その恐れが、解決させる事の出来ない己の未熟さが、リーナやベイグの態度にいちいちカチンとさせ、腹も立たせていたのかもしれないと思った。いつかはその問題に踏み込まなければならない立場だと、感じている。いつかは、同じ貴族で魔術師であるという自分は、彼らと対決するだろう。だが、まだ時ではなく、自分はあまりに頼りない。不安が勝ってしまう。ふと、リーナを嫌いだというシャリーも、ネオと似た事を考えているかもしれない。どっちも何も言わないけれど。
「ごめん、ユリシス」
「ん?」
「なんかヤなもん聞かせちゃって」
ネオが申し訳なさそうに言うのに対して、ユリシスは大きく頭を振った。そして、笑顔で振り返る。
「気にしない気にしない! ネオがちょっとでもすっきりしたなら、めっけもんだよっ」
ネオも笑顔になったところで、遠くからシャリーの声が聞こえた。笑顔で手を振りながらこちらへ走ってくる。ユリシスもネオも手を振って応えた。
その日の晩、ユリシスは家へ帰ると、頭を抱えた。
素敵な答えは、一つ出ていた。
ネオの悩み事を聞きながら、誰もが何かしら不安を抱えながら生きているのだと、わかった。だから、いつもいつも深く考えなくたって、いいのかもしれない。少しだけ楽観的になれた。なんだかその場しのぎのような気もするけれど、手の打ちようがないなら、深くは考えない方がいいのだろうと。正解ではないかもしれないが、とりあえずの答えが出て、ユリシスは少しだけ気持ちが軽くなった。
だからこそ、頭を抱えなくてはならない事に気付いたのだ。
──ネオの話に出てきた“神”って、なんだ?
ヒルド国にも宗教はあるし、そこに神はいる。ちゃんと聖書に書いてある、らしい。ユリシスの興味はもっぱら魔術なので、深くは知らない。ただ、古代魔道大国メルギゾークが滅んだとか、なんだか話が大きくなって、わけがわからなくなった。
それで、ユリシスは少し調べた。ネオの言葉通りなら、身分差別とかが滅んだ理由の一つかもしれないけれど、それで本当に国が滅んでしまうものなのだろうか。オルファースの図書館で閲覧出来る範囲だと、それ以上は見つけられなかった。栄華を極め、絶頂にあった国が、なぜ突然滅んだのか──。
神の遣いという言葉が出てきていた。なんだかひっかかる。
──神の遣い……天使?
どこかで、見たような気がする……。