(063)【3】素敵な嘘(2)
(2)
同じ日、ギルバートはオルファース総監、デリータ・バハス・スティンバーグに呼び出されていた。アルフィードが敗北を喫した魔術師探しに校門で見張りにつき、ユリシスや他の予備校生達が授業を受け始めた頃、ギルバートは丸いドーム天井を持つオルファース総本部に向かったのだ。総監の執務室を訪ねる為に。
総監はやはり部屋の中央で迎えてくれ、微笑んでいた。
「よく来てくれました」
「総監のお召しとあらばいつなんどきでも」
ギルバートは笑みを交えて言い、部屋の奥へと進み出た。
背後で重い樫の扉が閉まる。
「……こんな朝早くから申し訳ないわね。なんだか急に、ずっと忙しくなってしまって……」
総監は床に裾を引きずる程の真っ白のローブを身に纏っていた。正装だ。
「今日も陛下のお供をしなくてはいけなくて……以前はこんなに毎日ではなかったのにね。このままでは総監としての仕事をまともに……あら……!」
言いかけ、総監は驚いたように口元に手を当て、穏やかに笑った。
「ごめんなさいね。こんな愚痴が出てしまうなんて、私もびっくり」
ギルバートは笑って応える。
デリータが総監になる前をギルバートは知っている。元々、茶目っ気のあった婦人だが、総監の仮面がそれを覆っていた。たまにしか言葉を交わす事はないが、総監との距離は少しは縮んでいるようだ。が、一方で、総監が隠している、その疲れも見えた気がした。
魔術機関オルファースという巨大な組織の長で、国王を支える重要人物だ。誰も知りえぬ事を胸の内に置き、各所で板挟みにあう事もあるだろう。庶民出身で貴族連中とは距離を置くギルバートには、計り知れない苦悩があるのだろう。
総監を支える副総監というものがいるが、総監の意思を無視し、次期総監になる事ばかりを妄想する輩も多い。苦労も増えようもの。
総監であるということを除けば、とてもチャーミングなこの老婦人の手助けを、何とか出来ないものかと思うのだが。
総監はちょいちょいと手招きをして、ギルバートをほんの数歩まで引き寄せた。ギルバートにしか聞こえないような声で囁く。
「例の件、どうなりました?」
「例の……先日頂いた書類の件ですか?」
「ええ」
「……現状は、難しいですね。本人にはどうやら、その気がないようで……」
「そう……」
総監は少し間を置いて、残念ね、とつぶやいた。
総監の部屋を訪ねる前に、ギルバートはアルフィードから、ユリシスと会った事を伝えられた。
ユリシスが予備校生である事を知ったとも言っていた。ギルバートは知っていた事だが。
そう、ギルバートは知っていたが、総監はどうだったのだろうか。ユリシスを弟子と許可する書類をギルバートに託した意図は一体……。
「総監」
そう切り出したギルバートに対して、総監は発言を許さぬように首を小さく左右に振った。
そして、少しだけ厳しい顔をした。
「──私は、オルファースをあるべき姿に導きたいのです。魔術機関オルファース。キリー・フィア・オルファースが打ち立てた教えを、しっかりと受け継いでゆきたい」
総監は声を大きくしていた。
ギルバートから顔をそらし、軽く歩きながら話す。さながら講義でもするかのように。
「魔術とは……。国とは別になければならないのです。つまり、身分の区分けを受けてはならないのです。魔術は使う者を選ぶ。だからこそ、魔術を基準に思考しなければならないのです。魔術を使う者を、政治が、他者が選んではならないのです。導く教えを、魔術の本質を知らぬ者が選択してはならないのです。──先代オルファース総監であった夫が目指した、魔術師による魔術師の組織、オルファースを確かにしたいのです。国とは共存しても、一体にはならない、それがオルファースのあるべき姿。古代ルーン魔術の終焉であった、メルギゾーク滅亡時。その最後の女王の右腕であった魔術宰相キリー・フィア・オルファースが、新しい国の為に打ち立てた、魔術師のあるべき姿」
つまりは、ユリシスを弟子にせよという総監の意図する理由が、この言葉の中に隠れているようだ。
総監にはギルバートの疑問くらい、わかっていただろうから。
「本来、魔術は、統制されても、制限されてはならない。その上で、規制されても支配されるものではない。それは、過去や未来にすらも」
「……」
ギルバートは総監の意図を読み解こうと、動きや声の抑揚一つ一つに注意を払った。
「……なんでこんな話をするのか、あなたは不思議に思うかもしれないわね」
ギルバートを振り返り、その目をじっと見、総監は真面目な表情のまま続けた。
「先代の総監がキリー・フィア・オルファースの教えを守る事を受け継いだように、私もそれを受け継いで、そして、さらにその先でも、受け継がれていって欲しいと強く願うから……」
そこまで言うと、ふっと悲しそうに微笑んだ。
「でも、私にはそれほど大きな才も力もなかったようで、次代に受け継いでもらえるかどうか、わからないのよ」
次代とは、次期総監候補を指しているのだろう。現在の次期オルファース総監最有力候補は、貴族筆頭でもあるドリアム副総監。貴族至上者だ。
「だから、ギルバート。あなたの中に、遺してゆきたいと私は強く思っただけなのよ」
まるで最期に残してゆく言葉のように、ささやかな笑みと重みを声に託して──。
それは、ギルバートの胸に深く刺さった。また、総監自身も、自らの言葉の意味を噛み締めているように見えた。
ギルバートは執務室には戻らず、ある施設へ足を向けていた。
国の公的機関の一つで、第一級魔術師であり副総監の特権でごり押して、中へ入らせてもらう事にした。
国民の情報を一括管理しているヒルド国税務部はヒルディアム城内にある。徴税制度の内の古い戸籍情報は、資料部が出向して管理している。資料部の魔術顧問は、ギルバートだ。強引に閲覧させてもらう事にしたのだ。
壁も天井も、床さえ真っ白の磨かれた石。深い色の絨毯の上を音もなく先導する小柄な女性の背中を、ギルバートは見ていた。しばらく歩いて、他に扉のない廊下を進んでゆく。
女性は左手に持っていた多くの鍵をじゃらりと揺らし、あっさりと一本を抜き出すと、白い扉を開いた。面倒くさそうに「こちらですよ」と右腕を差し向けた。
ギルバートは形だけ微笑むと、ありがとうと告げる。その事務の女性が廊下から姿を消すまで見送って、ギルバートはしんと静まり返ったその部屋へと入った。少しだけかび臭い。そろそろ乾燥させるのに魔術師を送らなければならないなと、ぼんやり考えた。
どこだったかに紺呪石の灯りがあったはずだが、思い出せない。左手を掲げ、灯りの魔術を作る。書類を誤ってやいてしまわないよう、ここは火気厳禁なのだ。
高い天井にぴったりと張り付く程、背の高い書棚が並ぶ。足を進めて書棚に書かれた年数を確認して回る。
足元には綿埃が舞っている。先ほどの事務の女性に案内される前、ここの扉は年に一度しか開いていないと聞かされた。最新の一年分は別室で各領主から提出され、整理する。
埃がひどい。長時間居たら喉をやられてしまいそうだ。鼻で息をするが、埃が絡んで痒くなる。
ギルバートは目的の棚を探す。とある情報をあらかじめ確認してからここへ案内してもらった。
フリューティム村の情報の更新頻度だ。あまりに遠方の地域の場合、数年毎にまとめて情報を送ってくる事があるという。
調べたい彼女の名はユリシス・ニア・フリューティムといった。フリューティム村というのは他でもない、ユリシスの生まれ故郷にあたる村、のはずだった。
ファミリーネームを持たない身分の者は、生まれ故郷の名を使う。だから、ギルバートもフリューティム村の事を聞いたのだが──。
この管理室は思ったよりも広いようだ。足音がよく響く。
照らす灯りもすぐ闇にのまれてしまう。手をさらに上げ、棚の年号を見ながら最新の棚へ足を進める。
フリューティム村の情報も数年に一度で送られて来ているだろう。何年毎に送られてきているかで、現在の最新のものが何年前のものかわかる、そう思って尋ねた。
しかし、答えは冷たいものだった。
「フリューティム村なんて、存在しません」
その時もあの冷めた事務の女性が対応してくれた。ギルバートは引き下がるつもりはなく、重ねて尋ねる。
「ならば、なんという村ならある?」
よくある事だ、名を偽ったり、村の名を隠す事など。
過去にあまり風聞よろしくない事故があった村は、名を隠し、村人は勝手に新しい名をつけ、名乗る。ユリシスが幼い日に村を出ていたのなら、知らなかったのかもしれない。ユリシスが身を寄せている定食屋で、試験を八回受けていたと常連客が言っていた。予備校へ通った事を考えあわせれば、九年以上前には都に来ていた事になる。知らなくても無理はない。
事務の女性は苦いものでも口にしたような顔をした。
「……キリー村の事でしょうね、きっと」
戸籍書類管理室はこの国の歴史を密やかに語っている。
闇の中に灯す明かり。
ユリシスは、きのこ亭の常連客によると一七歳。事務の女性はキリー村の記録は十年毎送られてくると言った。一番新しいもので九年前のもの。さらにその十年前となると、ユリシスは産まれていないだろう。埃をかぶった一冊を手に取り、記録に目を通した。
最新の記録は彼女が村を離れた後に作成されて記載がない。そしてその十年前の記録は、まだ生まれていない頃のもの──。
口で息をしないよう心がけていた事も忘れ、ため息を吐き出した。
ギルバートは、いつしか孤立してしまった少女を、ユリシスを救ってやりたいと思った。
警鐘は、もう聞こえない。