(062)【3】素敵な嘘(1)
(1)
ユリシスはため息をついた。
早朝の出来事を思うと、何をどう解釈しても、ため息しか出てこないのだ。
──カイ・シアーズという人だった。
きのこ亭に一人で帰り、仕事中のふとした合間に思い出していた。
いつものように、早朝、泉へ行った。想定内の事だったが、先日の三人組に襲撃された。事情を聞きださなくてはならないユリシスにとって、待ち焦がれたものだった。怖くはあったのだけれども。
先日、ギルバートやアルフィードと共に洞窟で遭遇した黒装束達と、今日出くわした連中とを比べた。洞窟で会った方のリーダー格の声が壮年のものに聞こえたのに対し、今日聞いたリーダー格の声は、やけに若かった。ギルバート達と一緒に遭遇した連中と、ユリシスが単独で遭遇している連中は、別なのかもしれない。複数に狙われているなどと、考えたくもない事だけれども。
何故、自分が狙われなければならないのかを投げかけた。
幾度も彼らから刃が飛んできても、恐ろしくて震えそうになっても──決めたのだから、事実を知ろうと決めたのだから。
ユリシスは歯を食いしばり、何としても聞き出そうとした。
その時に左腕を負傷した。人差し指の長さ分、左の二の腕を斬られた。深さはそれほど無かったと思う。その瞬間は何も感じなかったのだが、再び走って逃げる内に、熱く疼いた。指までしたたる血を見て、初めて怪我の酷さを思った。
以前と同様、黒装束の連中に囲まれた時、ユリシスはここぞとばかりに叫んだ。なぜなのだと。
戦いになっても構わない。紺呪石はポケットにたくさん準備してきていた。頭にグングン血が上ってゆく。この戦いは必ず勝たなければならないんだと、自分に強く言い聞かせた。
そうして身構えたユリシスの前に、彼が降り立った。
辺りの精霊を瞬時に鎮める、巨大な魔力波動──。
周囲を打ち払って、蒼い風が舞い降りたのだ。
蒼い風というのは、表現がちょっと違うかもしれない、人なのだから。真っ青の衣服に身を包み、体内からあふれる青白い魔力を帯びたその人が、風を集め、舞い降りた。
風を自在に操るその人を、ユリシスは以前にもここで見た。
ユリシスは既に戦闘態勢に入っていたから、荒々しい息をしていたかもしれない。鋭い目をしていたのではないだろうか。それでは、あの連中と渡り合おうとしていたのがバレバレだ。ごく普通の一般市民ではありえない事じゃないか。……どう思われたのだろうか。そう考えると、ユリシスはため息しか出てこないのだ。
怪我を見られて咄嗟に隠したのも、彼らと争っていた事を悟られたくなかったからだが、そんなものは空から見えていただろうし、血の臭いにも気付いていただろう。自分の浅はかさに、また、ため息がでる。
彼はカイジュアッシュ・ウォルフ・ディアミス・シアーズと呼ばれていた。長すぎる名前に、貴族なのだという事はわかったが、以前、彼が名乗ったカイ・シアーズという名前と一致しなかった事もあって、すぐにはぴんと来なかった。
彼は、襲撃された事を忘れた方がいいと言った人だ。
こちらの事情を問いもせずにそんな言葉を言うのは、あらかじめ何かを知っていたからだ。
こうも言った。
『幸も不幸も、大小違いはあるかもしれないが、人は必ず背負う。貴女だけの事じゃないから』
あの人の目に、自分は不幸に映っているという証拠だ。
ユリシスは、自分の事を不幸だと思った事はない。そりゃあ不運かもしれないと思った事はあるが、現実を現実と、自分は自分と捉えた時、不幸だという発想は沸かなかった。今、目の前の様々な事を一つ一つこなして、夢を叶える事しか頭になかったユリシスにとって、不幸という単語はしっくりこないのだ。
あの人に、自分の何が不幸に映るのだろうか。
そうやってたくさんの事を考えてゆく中で、はたと思い出した事があった。
「カイ・シアーズ」
ユリシスは仕事も終え、一人、自室の窓辺に立った。今夜も月が出ている。
「第一級魔術師で、副総監……」
魔術機関オルファースに出入りしているのだから、知っていてしかるべき人名だ。初めて会った時、また、今日再会した時も思い出せなかったが、今、冷静になって初めて気付いた。
その第一級魔術師で副総監のカイ・シアーズに、ユリシスは怒気をはらませた言葉をいくつか叩き付けて来た。そうして、ため息が出るのだ。
ただでさえ追い込まれている自分が、自らまた追い込まれる要素を増やしたんじゃないだろうかと。
魔術を無資格で使った事、使おうとした事が、バレてやいないか。一般市民のくせに都を出て、あんな所で何をしていたのかと疑われているだろう……。
ユリシスは月から目を逸らし、窓枠に額を押し当てた。
冷たくて心地いい。そのまま目を閉じた。
「私ってばもう……」
笑ってしまいそうだ。いや、涙がこぼれそうだ。
もうそろそろ、精神的にまいってしまいそうな気がする。
耐え抜きたい、耐え抜いて必ずいつか笑いたい。
そんな日は、来るのだろうか……。
──翌日。
ユリシスは暗い気持ちで目を覚ました。
朝陽はとうに昇っていた。
今日は週に一度の予備校へ通う日。
普段のユリシスなら、都の外での散策を終えて帰り、予備校へ行く支度をしているような時間だ。
部屋の壁から壁に渡している少したわんだ紐に、綻んだ手ぬぐいがかけてある。それに手を伸ばして、ユリシスは階下へと降り、顔を洗いに行った。
朝ならいつも清々しい思いで目覚めるのに。何だか、だるい。
いつもより、早く家を出た。
ゆっくりと魔術機関オルファースへ足を進めてゆく。
周囲を通り過ぎる人々は何も変わらないのに、なぜ自分はここまで変わってしまったのだろうか。否、変わってなんかいないはずなのだ。自分自身は何も変わっていないはずで、周りこそが何か変わったのだとユリシスは思った。
暗い目のまま周囲を見渡しても、昨日や一昨日、一ヶ月前、一年前、それと大差なく人々は穏やかな一日を始めようとしている。
どこが変わったのか。
やはり自分が変わったのか。そもそももう、見えている世界が現実のような気がしない。何も、見えなくなってしまったような気さえする。
オルファースへ近づく程、舗装は土からレンガ敷きに変わっていく。靴音は軽くなるが、気分まではそうならなかった。
正門に目をやると、真っ黒の長髪を一つに束ねた男が体を屈めて座り込み、辺りを注意深く睨んでいた。いや、見回していたのだろう。彼は単に目つきが悪──鋭い。
ユリシスは彼の前で足を止めた。
「…………」
そうしたものの、それほど面識があるわけではなかった事を思い出した。
運命的な戦いをしたと、心踊る魔術戦をしたと思っていたが、それをわかっているのは自分だけなのだ。彼は何も知らず、先日の洞窟でほんの数時間、顔をあわせただけの存在にすぎないのだ。
思い改めて歩み始めたところ、低く掠れた声がかかる。
「おい」
半歩行き過ぎて、ユリシスは顔だけを声の方へ向けた。
彼は立ち上がっていた。背が高いので見上げなければならない。
「お前、こないだ会ったよな?」
ユリシスは首をかしげるように小さく振った。本当に小さく。
「そうか? ならいい」
彼は再び縁石に座り込んだ。
ユリシスはほっとして、オルファースの正門をくぐった。
正門はユリシスだけを迎えるものではなく、その数秒のやり取りの間にも、たくさんの魔術師を通していた。だから、ユリシスが何か特別な存在であるなんて事は、欠片もない。単にちょっと立ち止まっただけ。なのに、その肩を掴む手がある。振り返れば、彼が見下ろしてきていた。
鋭い目を縁取る真っ赤の刺青が、対峙する者に並々ならぬ威圧感を与える。それでも、だからこそ、ユリシスは体ごと彼へ向きを変え、見上げた。
「お前、ばかか?」
彼はすぐに肩から手を離した。
「俺の名前を言ってみろよ」
ユリシスは首を横に小さく振った。
関わりたくない。
カイ・シアーズと接した昨日の事を思えば、少しでも他者との関わりを断ち、ボロが出ないようにしなくてはならない。考えなくても、正直なところ、努めて断つというより、本心から、もう誰とも関わりたくないと思い始めていた。暗い気持ちの正体だ。
本当も、偽りも、自分自身さえ、見えなくなってきている。
誰にも関わらず、それでも答えを見つけて笑える日まで……。
そうやって迷走して逃げようとするユリシスを、彼は鼻で笑う。
「お前、ばかだろう。それとも俺をばかにしているのか?」
ユリシスは首をかしげ、再びオルファースへと向きを変えようとした。それを彼の声が引き止める。
「一つだけ答えろ」
ユリシスは彼を見上げた。
「ユリシス、お前、ここで何すんだ?」
自分の片眉が無意識に動いたのを、ユリシスは感じた。
「話はすこーしだけな、ギルに聞いた。あいつがお前を弟子にしようとしてるって話な。俺の兄弟弟子に、なるかもしれないってな」
ユリシスは、そうか、と思う。
それならば、忘れかけていたけれど、ギルバートから受けていた「弟子にならないか」という誘いはますます受けられない。心の中が急激に冷えて、寂しくなった。
目の前に起こる一つ一つに振り回されて、過ぎていくものが脳裏から消えていく。精神的にまいっている証拠かもしれないと、ユリシスは己の脆さに歯噛みした。
「別にさ、俺もこだわるタイプじゃねーけど、挨拶くらいしてもいいんじゃねーの? 足止めるぐらいならよ」
「私……」
その日初めて声を発した事に、ぼんやりと気付いた。声が少し掠れていたから。
「弟子になるつもり、ありませんから」
「ふーん……まあ、どうでもいいけど。で、お前、今、何級なの?」
軽い問いかけにすぎなかった。
「……予備校生です」
ユリシスは小さく言い、逃げるようにその場を駆け出した。
自分でも驚いた。彼は後を追っては来なかった。
──嗚呼……こんなにも弱かったのか。
追い込まれてなんかいないと思っていたかった。もっと堂々と全てに立ち向かえる自分であると信じていた。くじけそうでも立ち上がれると思っていた。
対等に戦えたと思ったアルフィードに、まともに口をきけない。
何もかもが恐ろしくなる。
出口がもう、ない。