(060)【2】蒼の風(2)
(2)
昼食を終え、カイ・シアーズは執務室に戻ると椅子に深く腰を下ろした。彼にしては珍しい深めのため息を吐くと、共に戻ったナルディが振り返った。
「どうかされたんですか?」
きょとんとした表情で問うナルディに、カイ・シアーズは少しだけ微笑んで「なんでもありませんよ」と答えた。
それ以上の追求は遠慮して欲しい──ナルディは師のそういう空気を瞬きしつつも察する。結局、窓辺へ移ると床に腰を下ろして静かに本に目を落とした。
カイ・シアーズはナルディの様子をしばらく見ていたが、静かに視線を逸らし、机の一番上の引き出しを引いた。そこには、ギルバートから中間報告として預かった資料が収められていた。
ギルバートに依頼したのは、彼が資料部門の魔術顧問だから、より多くの情報を見つけ出すことが出来るだろうと思った為だ。
そのギルバートに指摘された事が胸に刺さっている。彼はこう言った。
「その災厄をお前は探したいのか……使いたいのか」
初めはただの興味本位で──。
ナルディが弟子に来た年の受験生に、彼女を見つけた。
春、合否発表の日、温かな日差しの下、彼女は喜びに沸く合格者達を離れた所から切ない目で見つめていた。
弟子に来たばかりのナルディに、彼女の名を聞いた。ユリシスという名はその時知った。
紫紺の瞳をした少女を初めて見た。
世間では沈着冷静と言われていたし、自分でも冷静な方だと自負もしていた。なのに、激しく心がざわついた。
もはや御伽噺の夢物語として──限られた歴史書、隠された伝説の中でのみ存在する真実紛うことなき『紫紺の瞳』──その持ち主が目の前に現れたのだ。
声をかける前に彼女は立ち去ってしまったが、その動揺は数日おさまらなかった。
しばらく“紫紺の瞳の少女”について調べたが、やはり資料部の閲覧権限が足りず、限界があった。丁度、親交を深めていたギルバートが資料部の魔術顧問に就任すると知り、すぐにメルギゾーク滅亡と“紫紺の瞳の少女”についての調査を依頼をした。
日々を、年を重ね、とても嫌なものも目にするようになった。
貴族や王族、聖職者と呼ばれる人々による差別が、確かな形となって政治、制度に現れている事を。それが魔術機関オルファースでも例外でなく、魔術を純粋に志す者達にも影響を与えていた事も。
それらは、庶民出身のギルバートと親交を重ねる日々で、見えてきただけなのかもしれない。逆に言えば、気付くまでは本当に愚かで、己が貴族至上主義者達と同類だったのだと思うと唾棄に値する気がした。
政治や宗教の中へ立ち入る事はないから、本当の所は見極め切れない。
だが、オルファースでは違う。
当然の事として差別があり、その延長で決定していく。貴族偏重の世。富や名誉が人から様々な感性を奪うという事を知った。思いやり、共感する能力が残っていれば、飢える民に手を差し伸べられるだろうが、しない。人を人と思わぬ発言の数々には顔が歪むも、自分もその貴族の一人だと思うと体が強張る。
差別をする事に何の意味があるのだろうか、いや、そうしなければならない精神に問題があるのかもしれない。人間の性と割り切れと、世は示すのだろうか。ギルバートやナルディも商家出身で、彼らと接しているとよくわかる。人は人ではないか、と。
オルファースの貴族達への苛立ちも、会議で何も変える事の出来ない自分の不甲斐なさも、全て含めて、ギルバートに指摘された言葉で大きく揺れた。
最初の通り、ただただ興味だけで『紫紺の瞳の少女』の事を知りたいのか、それとも“使いたい”のか……?
答えは出ない。使うという言葉にもぴんと来ない。
確かに、古代メルギゾークの歴史上、最後に登場した『紫紺の瞳の少女』が国土の四分の三を焦土に変え、滅ぼしたされている。残った四分の一の国土にヒルド国が興った事を思えば、どれほど広大な大地が『紫紺の瞳の少女』に壊されたのか。思いを馳せながら、その強大な力に興味をそそられた。
今、現実、目に見える形で現れた『紫紺の瞳の少女』──痩せた体をみすぼらしい衣服で包み、紫紺に滲む眼差しは明るいとは言いがたい。かつての栄華など微塵も感じられない姿に、彼女が何を思い、八回も試験を受け続けるのかを考えた時、とても複雑な気持ちになる。
上層部は、知っているのではないだろうか。
古代魔術大国メルギゾークを滅ぼした存在を。
そして、もし、それが原因で彼女が毎年悲しい思いをしているのだとしたら、許せるものではない。
だから、ギルバートに“使いたい”のかと問われた時、歴代の“紫紺の瞳の少女”と彼女とを同一視しているようで、ギクリとした。
再び、ギルバートの書いたメモに目をやった。
『調べるだけ無駄だと思うが』
無駄という言葉で捨てられる思いがどれほどあるのかと思うと、嫌でたまらなくなる。
カイ・シアーズは引き出しをそっと閉め、物思いをやめる事にした。鼻で小さく息を吐き出すと、椅子から立ち上がった。
「カイ様、どちらに?」
ナルディは先日まで助手の立場であったから、行き先や何をするのかを尋ねてくる。癖が抜けないのだろう。
「仕事ですよ」
もう助手ではないという事には触れず、笑みを混ぜて返した。が、ナルディも気付いたようで、一瞬不安気な顔を見せた。
「夕方には戻ります。ナルディはここを使っていて構いませんからね」
「あ、ありがとうございます!」
ナルディのホッとした表情に、カイ・シアーズは小さく笑った。
ギルバートは『無駄』という言葉をつきつけながらも、微笑みかけて優しさをまいている。本心はよくはわからないが、彼がいつも周りの人間を気遣っている事はよく伝わってくる。
仕事が矢継ぎ早に、動きも、物思いも制してくる。こんな日常でも、気持ちを確かに持って、ひとつひとつ行動に表したいとカイ・シアーズは強く思うのだった。
翌日、カイ・シアーズは早朝から出かけていた。
早朝にだけ咲くファルサという花の花粉の混じった朝露を取りに、王都を出ていた。ファルサは、王都からやや西に行った先の山の中腹に花を開く。空さえ飛べればちょっと行って帰ってこれる場所だ。このファルサの朝露の採取の依頼は、今までに何度も受けていて慣れたものだ。空を飛べる弟子がいれば、いつも任せていたような簡単なものでもある。常連客の為、さらに弟子を取った時の為、ずっと受け続けているのだ。
今日もきっちりとファルサの朝露を採取し、帰途についた……。
晴れた空を背景に、風の音を聞きながら王都へ向かう。
──つい数日前の出来事を、思い出さずにいられない。
あの日も、同じようにファルサの朝露を求めて西の山へと飛んでいた。
まだ太陽が昇り始めたばかりの薄暗い空をカイ・シアーズは飛んだ。それは、ファルサの朝露を採取し、王都へ戻る途中──西の山から続く断崖の上空は、風も強く、飛ぶ事に不慣れな者なら振り落とされかねない、そんな場所をふわりと通過しようとした時だった。
ピシリと頬打つ殺気に満ちた風──。
慌ててその場で急停止した。ばさっと青い外套が風を打つ。
最初は誰か、旅人か冒険者か、鬼獣あたりに襲われているのかと思い、殺気の源、断崖側の森へ進路を変え、飛んだ。
眼下には、三人の黒衣の者に囲まれた一人の少女がいた。
すぐ、三人が戦闘訓練を受けた忍び──独特の黒衣に、王家の忍びだとピンときた。それだけならただ単に犯罪者でも追っているのだろうかと思い、制止には入らなかったかもしれない。
その少女が、上空から見ただけでははっきりとはしないながらも、例の少女のような気がした。髪の色、少しくたびれた服、そして、周囲に纏う雰囲気という名の風。
降下していくうちに、予想が確信に変わる。その瞬間に術を編み始めた。
結果としてその『紫紺の瞳の少女』を救う事が出来た。
王家の忍びを操る事が出来るのは、国王ギルソウ、マナ姫の二名だ。忍びは王妃には仕えず、国王とその子にのみに仕える。また、エナ姫はまだ幼い。
紫紺の瞳を持つ少女は、王、あるいは王女に狙われているのだと知る。
──やはり、王家の者はその存在を知っていた。
襲われた事は忘れた方がいいと告げたのは、恐れても仕方がない為だ。恐れたとしても防衛策はほぼないから、捕まる時は捕まってしまう。捕まらない為には、常に人ごみの中、誰の目にも明らかな場所に、つまり王都に居る事なのだ。
なぜ森に出ていたのかも気になったが、それよりも出ないようにと忠告する事の方が大事だろうと思ったから──。
カイ・シアーズは回想を中断した。あの時の、問題の断崖の上空に来た。風が激しく巻いて、上へ下へと吹き荒れている。
そして──その風の中、またしても殺意に満ちた風が、しかも今回は鈍い鉄の味に似た酸味が、混じっていた。
意思を持ってばさりと強く外套を弾き、宙に浮いたまま停止する。
カイ・シアーズは目を閉じて心を澄まし、カッと開くと視界をぐるりとめぐらせ、その殺気の源を探した。
眼下に広がる緑の森の、少し開けた場所──。
カイ・シアーズはササッとルーン文字を記述し、両手を殺意のある方向へ差し出した。両手の親指と親指、人差し指と人差し指をぴったりとあわせ、窓を作る。そこへ、先ほど記述した文字がくぐり、パンとはじけて膜となって張り付く。膜の厚みを調整してやると、レンズになって殺意の源を近くに見せた。遠めがねの魔術から見えたそこには、先日と同じように、三人の黒衣の者に囲まれた『紫紺の瞳の少女』ユリシスがいた。
怪我をしているのは誰なのかまでは見えなかったが、彼女がいるのは間違いない。
手をぱちんと叩き合わせて術を終了させると加速の追加魔術を描いて全速力で飛んだ。
魔力の青い煌きが風に溶け、また青い外套を纏ったカイ自身も風に紛れた。さながら蒼き風──。
ジリジリと昇る朝陽を受け、空に描かれる蒼い流れが、“その空気”を打ち払って大地へ降り立った時、辺りの木々の枝は大きく揺れ、何枚もの葉が大地に落ちた。
降りる前、カイ・シアーズは声を聞いた。
「どうしてしゃべらないの?」
それは悲嘆に暮れているようにも聞こえた。
「教えてくれてもいいじゃない!」
どこか涙声まじりの少女の声。間違いなくユリシスのものであろう。
カイ・シアーズは風の術が巻き上げた粉塵が収まるのを待たず、それすら息を吐き出すとともに魔力を放出し、一気に払った。気合と共に押し出された魔力波動が周辺一帯に染み込むと、瞬時に空気が澄み渡る。風も消え、辺りは静かに凪いだ。
カイ・シアーズはついと伊達眼鏡を押し上げ、対峙する四名──三人の忍びとユリシス──を見渡す。
小さく息を吐いて、カイ・シアーズは紫紺の瞳を見た。
「あなたという人は……私の言葉を聞いてくれなかったんですか?」
カイ・シアーズは四名の中央に降り立っている。数歩離れた正面に立っていた紫紺の瞳の少女、ユリシスはサッと左肩を後ろに引き、その腕を──錆びた鉄のような匂いの元を──見せないように移動した。
「隠しても無駄です」
近付こうとして、背後に動く者がある事を悟ると、カイ・シアーズはそちらに視線をくれた。
以前、見えた三人で間違いなさそうだ。