(056)【1】まだ見ぬ境界(3)
(3)
ネオの祖母にして師、オルファース総監でもあるデリータ・バハス・スティンバーグは束の間、執務室で一人になった。
小さく、本当に小さくため息を吐いた。気を緩めるわけにはいかないからだ。大きく息を吐いて心休められる場所はもう家にしかない。この隠れようもない、何もない執務室のはずなのに、とても微かに、常人では気づきようもない気配が絶え間なくある。
デリータはこっそりと口の中を噛んだ。
ほんの数日前まで一切無かった、王の忍びによる監視が張り付くようになっていた事にデリータは気付いていた。気付かぬフリをしているが。
信頼を得ていると思っていた王の本音が、今、わからない。
そうして頭を過ぎるのは“不吉の象徴”──。
先日ネオの友人として家を訪れてくれた少女の事が頭から離れない。
ユリシスと名乗った少女の瞳の色は、光の加減で赤や青に近い色に見えながら、確かな紫紺だった。
紫紺の瞳の少女の存在は遠からず王の知るところとなるだろう。いや、もう既知の事かもしれない。
ネオは友人だという。ネオの気質を思えば、不吉と呼ばれようが友人の、その少女を側へ立とうとするのではないだろうか。
でもそれはきっと、とても、とても危険な事。
王の意思に背く行為になるだろう。
デリータは単純に思う──巻き込まれて欲しくないと。
それでも、歯車は回り始めている。いずれネオもまた、巨大な運命の渦中へと引きずられるように飛び込んでゆくだろう。
今日、ネオが何を問いたくてここへ来たのか──おおよそ見当がついても、ここでネオの印象を王の中で深めたくない。会話らしい会話をすべきではない。
次から次へと舞い込むオルファース総監としても職務の為、家でネオと会うという事がなかなか出来ない。だから、そっと遠まわしに忠告する。
そうしてデリータは苦々しく歯噛みする。なんという身勝手さか。
デリータは王に先手を打たれた事で、ネオ、そしてユリシスに自分の手の者を付ける事も、何らかの言葉をかける事も出来なくなってしまっていた。
歯車が巡り、きしみ、全てが熟すその時までは自分は王が何をしようとしているのか見極め、牽制しなくてはならない。オルファース総監であるという立場を、しっかりと自覚しておかなければならない。
同時に、どんな運命があろうと──彼らは十代の少年少女にすぎない──それを忘れないでいてあげたい。
ネオに言った言葉は実は、自分を戒める為に口にしたのかもしれないと、自嘲気味ながら、やっと頬の力を抜いてやる事ができた。
ネオは本館の影を回り込み、入り口付近の回廊へ出ると、元居たテラスへ向かって歩いた。
祖母に言われた一言がチクリと刺さった。
──行動を慎みなさい。
会いに行ってはまずかったのだろうか。でも笑顔で迎えてくれた……わからない……。
「やぁ、ネオじゃないか。表から入ったのに裏から出てくるなんて、どういうわけだい?」
からかいを含んだ声が右手からかかって、ネオは足を止めた。
サラサラの黒髪はおかっぱ、同色の瞳は色っぽく潤んでいるように見える。ネオより三つ年上の第二級魔術師の男。
「ベイグ。君には関係ないよ」
ため息混じりにネオは告げ、再びテラスへ向けて歩き出した。今は相手にしたくない。
ベイグは肩をすくめて微笑うとネオの横に駆け寄り、隣を歩き始めた。
「デリータ総監の所へ行っていたのかい?」
「……そうだったら何?」
「君は本当におばあちゃん子だなぁ。でも、おばあちゃんから見るとそんな孫はかわいくて仕方ないんだろうね」
相変わらずからかいを含んだ笑みが混じる声音。ネオは歩くペースをあげた。彼の発言はいつも癇に障る。
今は一緒に居たくない。
「僕の身内が総監なら、僕もその人にとってかわいい僕になるのになぁ。君がうらやましいや」
ネオは足を止め、ベイグを青い目で睨んだ。
「何か用があるの?」
「別に」
ベイグはさらりと言ってのけ、微笑った。ネオはベイグから目線を逸らし苛立ちを逃がした。小さく数回うなずいて、ベイグをもう一度強く睨んだ。
「だったら僕にかまうな」
低めの、普段は出てこないような声音で言い捨て、ネオは魔術を描いて宙空に舞った。
ベイグは追っては来なかった。
いつものテラスへ行くとシャリーに会いそうな気がして、ネオは誰も居ないであろう中庭の芝へ降り立った。
自分の気持ちに鈍感なネオでも自覚できる程、動揺していた。
初夏の早朝、まだ肌寒い風が時折吹き抜ける。すこしだけ冷たい芝にネオは腰を下ろした。
ここには、ユリシスと出会ってからよく来ている気がする。ユリシスは週に一度しかここへは来ないけれど。
鞄は肩にかけたまま、膝を抱えて小さく座った。
──……第一級魔術師というものを背負っていたって、おばあ様が総監であっても、僕は僕だと思うのに。
それが素直な本音だった。
なんでオルファースにはこんな階級があるのだろう。それを言えば、この国には王族、貴族だとか庶民だとか、なんでそんな階級があるのだろう。
理由は少しだけわかる。支配する側と支配される側があるからだ。
でもそれでも、人の気持ちまで左右していいのだろうか。
ふと、ユリシスを思い出す。笑顔が思い浮かんだ。
庶民で、第九級魔術師の試験を受け続ける彼女。
十歳前後で受からなければ皆、様々な事情で諦めてしまうものを、彼女はずっと受け続けている。
悩む事はないのだろうか、階級を苦しく思う事はないのだろうか。
肌寒さで腕が粟肌だっているのがわかる。ゆっくり腕をさすった。
──……生まれながら貴族である僕と、努力して掴んだ第一級魔術師である僕と、こうして膝をかかえる情けない今の僕は一体、どう違うというんだろうか。境界がわからない。混乱する。
僕が僕であるという事は一体、どういう事だったのだろうか。
こんな悩み事は、誰もが抱えているのだろうか。
危険と知りつつも、朝、ユリシスは以前と変わらず西の森の泉に居た。
先日襲われた時より魔力は遥かに回復しているし、様々な、戦闘向きであろう術を込めた紺呪石をポケットに詰めてきた。
泉の横の岩の上で膝を抱えて座り込んでいた。朝陽が昇ってからずっと。予備校がある日なら、始業チャイムが鳴る時間。
ユリシスの肩が、小さくビクリと揺れる。
森は何ら変わらない。
近く、遠く、木々の葉のざわめきと、鳥達のさえずり、小動物達の声。その中で、ユリシスの広げられた感覚の端っこに、微かに触れたものがある。
ユリシスは静かに立ち上がって辺りを見回した。
上空から落ちてくる朝陽が泉の水面に反射して、眩しい光がユリシスの瞳をゆらぎながら刺す。ユリシスは辺りをもう一度見回して、気を抜かないよう再び座った──“相手”に動く気配が全く無かったから……。
誰かが居る。
それも普通の感覚のままだったら気づかないような、本当に小さな気配で。魔力の網を周囲に投げていなかったら、ユリシスも気づかなかっただろう。
数は三人。いや……四人に増えた。
三人と一人が別々に木陰に身を隠し、こちらを見ている。
気をピンと張り詰めて、ユリシスはそれらの気配に注意を向けた。
同時に来られてはまずいだろう。それらは単純な行動パターンの鬼獣達ではないのだ。
多対一になる危険があるとわかっていて、ユリシスはここへ来ていた。
都を出、ここへ来ようと決めた理由を、ユリシスは明確には持っていない。
ただ、きのこ亭の開くまでの時間をどう過ごすか考えた時に、いつも通りここへ来る事が思い浮かんだだけだった。
こういう状況になる事は予想出来ていた。
きっとどこに居ても、何をしていてもユリシスを狙ってくる存在があるならば、出来る限り誰も傷つかずに済む場所がいいと思っただけ。
案の定、それらはユリシスの周囲に現れた。
接触を図っては来ないけれど、もし来られたらと考えるけれど、具体的にどうしたらいいのか、やはり何も思い浮かばなかった。
──誰にも助けを求める事は出来ない。狙われている事さえ誰にも知られてはならない。何が原因で狙われているかわからない。
資格が無いまま魔術を使っている事を隠し続けなければならないユリシスには、何をどうしても、ただの町娘として人の目に映っていなくてはならない。今までのように。
──もう、ぐちゃぐちゃだ……。
行き当たりばったりで、自分の行方が掴みきれない。
ゴクリとユリシスは息を飲み込んだ。
それら……黒装束の男達の、王族直属の忍び達の目的は何なのだろうか。
命ならたやすく渡せない。
危険が及ぶなら魔術を使ってでも抗おうとユリシスは決めていた。
生身の人間、ただの町娘としてただ殺されてしまうだけというのは受け入れきれなかった。
殺される位なら抵抗しようと思うのだ。それで忍び達の主である王族に、ユリシスが資格無く魔術を使っている事を知られたとしても、仕方のない事だと諦めるしかない。切ない思いで決めた。
ただ殺されるのか、魔術を資格無く使って処刑されるかの違いにすぎない。
抵抗する時には、正規の、堂々と胸をはって魔術師になるという道は絶えてしまうだろう。
膝をぎゅっと抱きしめ、ユリシスは泉のユラユラと揺れる水面を見つめた。時折静かな風が吹いて小さな波紋が浮かぶ。チラチラと陽の光を返す自然が生む芸術を見つめた。
一年前を、半年前を、ほんの数日前を思い出す。
何に心を痛め、悩んでいただろうか。
もう思い出せない程、追い込まれてしまっている自分に気付く。
そうして淡々と時間が過ぎ、お昼前になった。
忍び達は、いつしか気配もろとも消え失せ、ユリシスは全くの一人になっていた事に気付いた。
結局、連中は襲っては来なかった。
立ち上がり、念の為周囲をよくよく注意して探ったが、連中はいなくなっていた。
ふぅと小さく息を吐いて、ユリシスは都へ、きのこ亭へ帰った。
一日分の体力を丸ごと使ってしまったような気分だった。これからが始まりだというのに。
ユリシスは二度目のため息を付くときのこ亭のエプロンを腰に巻き、箒で店先の掃除を始めた。
これからの毎日が思いやられて気が重くなるばかり。
だが、それでもきのこ亭でお客さんと接し、大声でオーダー叫んだりしながら大忙しの一日を送ると、ちょっとだけ忘れられて気が楽になるのだった。