(050)【4】王女のお仕事(1)
(1)
広い謁見の間には密度の濃い空気が満ちていた。
窓が無いせいで大気は外へ出ることがかなわず、延々と漂う。長い、長い時を──。
天井は高く、宙空に魔術の灯りが点々と浮いている。微かに薄暗い。その隙間から、色鮮やかな壁画と彫刻が混在した天井が見えた。
広い室内と同じだけ天井装飾が見下ろしてきている。色彩豊かに国の歴史の絵物語が表現されており、見る者は感嘆の溜め息をこぼすより他ない。そのまま見惚れてバランスを失って転げてしまいそうだ。絞られたが光源がもったいない。
ヒルド国は二千年前に滅んだメルギゾークという国家から脱出した人々によって興された。
脱出の際、その数百名の人々を率いた者こそ、ヒルド初代国王である。
初代国王から代々の王達の偉業が天井には美しく描かれている。当代の王もそこに連なる予定で、既に下絵などの準備が始められているらしい話をマナは聞いた事がある。
──一体どれほどの業績があるのか。代々引き継いでいるだけの椅子にただ座り、多くの国民の声を聞かず、因習をそのまま続けているだけ。何百年もの間、何の進歩もない。それどころか、魔道大国と呼ばれたメルギゾークを引き継ぐ形となったヒルド国であるにもかかわらず、魔術師達の質は衰退の一途をたどっている。
原因はわかっている──貴族優遇策。
これを何とかしなければならない。
国は、貴族社会だけで出来ているわけではない。多くが平民、農民で構成され、彼らによって国は支えられているのだ。
貴族らの既得権益を守る因習を続け、庶民を蔑ろにしすぎている。王都はまだ良い。豊かな中央を離れれば、僻地へ行けば目を覆いたくなるような貧しい土地もあるという。何の政策も救済もなく、一部の繁栄の為に捨て置かれている。
ヒルド国が成った時、人の数はわずかで格差などなかったはずだ。
古い歴史書を紐解けば、初代ヒルド国王は魔道大国メルギゾーク最後の王の側近の弟にすぎず、その出自もただの平民である事がわかる。
──……私達は、そうやってふんぞりかえっていていい身分ではない。わかっているいらっしゃるの? お父様。
マナは深い紫の絨毯を踏み、進み出た。眼前には十段程の階段があり、その上に父王が豪奢な玉座に埋もれている。
見上げた父王は、有無を言わさぬ重たい威厳を──背負っていた。
負けまいと思う。表情を変えず、父王の瞳を見る。
ふいに、マナの内側に憎らしさが沸きあがってきた。
いつもの事とはいえ、正体のわからぬ腹立たしさに平常心が乱れそうになる。
小さく息を吐いてこらえたが、保てそうにもない。雑念を払うべくゆったりとした動作で下を向き、マナは礼をした。
結果、作法通りだ。ひざまずいて絨毯の細かな毛足を見やる。これが、現実。
今は、何も出来ない。
──そう、今は。
国王の左右には軍事政治の統括を任された宰相と国内外の魔術に関する全てを統括するオルファース総監が居る。
宰相は深い赤のローブを身に纏っており、腰には細やかな装飾が施された剣を下げている。この謁見の間で帯刀を許されるのは国王本人と宰相だけである。
宰相は五十代後半、静かな眼差しの理知的な顔立ちの男性。透けるようなグレイに近い青い瞳と深く刻まれた皺一つ一つに経験と知恵が潜んでいる。背も高く、背筋もピンと伸びている。武に精通していそうな体躯ではあるが、気品と誇りにあふれたその相貌は知性に満ちている。この宰相が──第一級魔術師カイ・シアーズの父である。
また、オルファース総監は七十歳後半の老婆である。
国家の第一線に立つだけあって、そこらの老婆とは目から異なる。皮膚の老化は止むを得ないとしても、立ち居振る舞いは実年齢より三十歳は若く見せる。深い青のローブを身に纏っている。こちらも真っ直ぐの背筋と、全てを見通すのではないかと思われるような鋭い瞳が印象的だ。が、この鬱積した重い空気の中で唯一、唇の端を柔らかく上へ曲げ、微笑んでいる。こちらは、第一級魔術師ラヴィル・ネオ・スティンバーグの祖母にあたる。
二人の中央、玉座には紫のローブを着たヒルド国王が座している。
しっかりと深く腰を下ろし、紺呪石を多数あしらった錫杖を左手に握っている。
昨年、五十歳になったばかりだが、年齢よりも若々しい佇まいで娘──マナ姫を見下ろしている。
マナ姫はこの父王に似た。
父王は美しく整った顔立ちをしている。若かりし頃、国内外を問わず貴族庶民を問わず、羨望の的であった。丁寧にまとめられた長いストレートの赤い髪。穏やかな表情でマナ姫を見下ろす。
「マナ」
静まり返った謁見の間に、父王の通る声が響く。
マナ姫は小さく肩を震わせただけで、それ以外は微動だにしなかった。
父王は小さくため息をついて、再び声をかける。
「マナ、面をあげなさい」
声そのものは優しいものだった。
マナはゆっくりと顔を上げる。衣擦れの音も微かに立ち上がると、父王を見上げた。
左右にシアーズ宰相、スティンバーグ総監を従えるヒルド国第百十代国王ギルソウ。父親としてその人を見るべきではないとマナは思っている。
いつも全ての中心、国の要である人。
──マナの目に、ギルソウは常にとても大きく映っていた。
白亜の城の中枢で、マナはこっそりと生唾を飲んだ。
苦手意識とでも言うのか……手の平に汗がにじむ。
王が、ギルソウが……この父親が苦手だ。怖いと感じる事すらある。
見た目も地位も、そして部下にも恵まれた父親が苦手だ。何もかもが優れている。それでも、だから、国民に対する態度が許せなかった。
王都はまだ良い。だが、辺境へ行けば貧しいところは沢山ある。
自治区との軋轢も解消されない。この父王ならどうにか出来ると思うのに、しないのが歯がゆい。貴族への優遇政策も代々の国王が続けてきていたもので、諸外国と変わらないと言ってしまえば確かにそうだ。だが、この父王ならば変えられるはず──と思うのに。
ヒルド国の魔術師は世界でトップだ。
魔術によって作り出される様々な輸出製品がヒルド国を支え、豊かな国として二千年もの長い間変わらない繁栄を続けている。
それでも、今日明日、口にする食べ物を一体誰が作っているのか、今、身に纏っている衣服の糸は誰が紡いだのか。
もっと国全体を助けて欲しい。
辺境の、雨がなく、作物が育たず飢えに苦しんでいる民がいるというのに、豊かな王都と一律に治めるのはおかしい。
異を唱える者があったとき、有無を言わさず処刑してしまうのは確かに諸外国でも行われている。人一人の命を、国民の命をあまりに軽んじてやいないか。
沸き上がってくる様々な思いをグッと堪えて、マナは父王を見た。
「先日、そなたが砕心して建てていた孤児院が完成したと聞いた。おめでとう」
「ありがとうございます」
「その後経過はどうか? いつでもいい。何か困った事があれば相談に乗ろう」
「ありがとうございます」
「──何か、私に尋ねたい事はあるか?」
一瞬だけ、マナは言葉に詰まった。
妹のエナ姫誘拐の裏に、この父王の隠し忍びが暗躍していた。
マナの隠し忍びゲドが負傷して戻ったのも、この父の放った忍びとの戦闘の末だという。妹姫の誘拐事件の黒幕が、この目の前の父王という事になるのか。
──……なぜ父が、娘を誘拐するのだろう……この人は一体何を企んでいるのだろう。
猜疑を胸の奥へと追いやり、マナはギルソウの目を見てはっきりと言う。
「ございません」
「そうか……毎日の事でうんざりだとは思うが、こうやって無理にでも時間を割かねば話が出来ぬ。私もそなたも多忙だ」
父王は一息置いて、右手を小さく揺らした。
「うんざりついでに、そなたに縁談が数件あるのだが……」
「いつものように、お断り申し上げますとお伝え下さいませ」
「ふむ……まぁ……自由にすればいいと私は考えている。それでも、時が来れば良き伴侶を見つけるように。歴史あるヒルド国を、我々一族は守らねばならん」
「承知いたしております」
話に一区切りついた所でシアーズ宰相の側へ近衛騎士の一人が近寄り、何がしかを伝えた。シアーズ宰相は何度か頷くとその者を下がらせ、ヒルド国王へその内容を耳打ちしている。
マナの所までは声が聞こえて来ない。
父王も数度頷いていた。それからすぐ、シアーズ宰相は謁見の間から下がった。
「…………」
マナはただ、その様子を観察する事しか出来ない。
ギルソウは錫杖を微かに浮かし、こつんと一つ、床をついた。マナを見下ろす。
「マナ、今日はここまでとしよう。下がってよい」
──何かあったのだろうか。
シアーズ宰相は隠していたが、慌てた素振りが気になった。目の前の父王は落ち着いたもので、その表情からは何も探り出すことはできない。
マナは静かに退室した。
侍女達に囲まれ、マナは再び来た道を自室へと帰った。
十二尖塔の一塔の最上階、マナは私室には誰も入れない。
謁見の間と違い、マナの部屋は夜であっても煌々と明るい。多数の魔術道具によって常に明るく照らしているのだ。
一人になって窓辺へ寄り、夜の城下町を見下ろして一息ついた。
──父との謁見は、息が詰まって仕方ない。
それにしても、一体何があったのだろうか。
例の『紫の瞳の少女』の件であろうか。
だとしたら、マナの知り得ない何かでも起こったのだろうか。一刻も早く何があったのかを掴まなくてはならない。
マナは窓辺の手すりに置いた手に力を込めた。
情報が何よりも重要だ。
「ゲド……ゲド、いますか?」
マナは小声で己の忍びを呼んだ。
静かに、マナの背後、一見何も無かった影からフゥと全身黒尽くめの青年が姿を現す。彼だけは、この私室へ入る事を許されている。ゲドの表情は覆面をしているのでわからない。
彼はその場で片膝をつき、主人の言葉を待った。
「ゲド、父の方で何か動きがあったようです。すぐに調べて報告を」
ゲドは目を伏せ頭を下げた。
「その件でございますれば、我々の行動があちらに漏れたのやもしれません」
「こちらの行動……といえば、紫紺の瞳の少女を追っている事ですね」
「ご報告が遅れた事、先にお詫び申し上げます」
「何?」
「昨日、紫紺の瞳の少女に接触いたしました」
「……それで?」
「カイ・シアーズ副総監に阻まれ、逃しました」
「……そう」
「目覚めの兆候、有り──ではないかと……」
マナの白い手に、さらにキュッと力が篭った。
「そう」
ゲドは主人の言葉を待つ。主人はしばらく沈黙していた。
数分、二人とも微動だにしなかった。そうしてマナが意を決し、口を開く。
「あちらに漏れているとすればどのような事が漏れたのか、正確に調べるように」
彼の承知したという合図──再び影に溶け込むように気配を消そうとした。マナは慌てて振り返り、影を見る。
「ゲドッ」
主人の制止の声に、ゲドは再び気配をあらわにした。
いつものようにゲドが言葉を待っているのを見て、マナは彼から目線を逸らした。
「このような事になってしまい、申し訳なく思います。ケガをせぬように」
最後だけ、ゲドの姿を見た。
ゲドは深く頭を垂れ、それから姿を消した。
父王と自分の争いが、彼と彼の父親とを争わせている。謝っても止める事ができない歯がゆさを、マナは耐えた。
迷いを振り切るように、マナは窓辺の机へと歩み寄った。
机と簡単に言っても、ユリシスらが使っているようなただ板を組み立て、釘で打っただけのものとは比べにならないほど豪勢なものだ。
木製だが、あちこち細やかに花など植物をモチーフにした彫刻が施されている。
マナは机の一番下の引き出し、二羽の白鳥をかたどった取っ手を静かに引いた。
深さのある引き出しの中から真っ黒の箱を引っ張りだし、両腕で抱えるようにして机の上に置いた。
こちらに装飾はほとんど見られない。素っ気ない直方体。その箱は銀板で覆われていたが、黒く見えた。
銀が真っ黒に見える程、古代ルーン文字がびっしりと刻まれていた為だ。失われた技術によって作られた、貴重な古い道具の一つ。
マナは銀の箱の上に右手をかざす。
ふわりと指先に青白い光が浮かび上がった。魔力の煌き──。
マナは魔術師ではない。
かと言って魔術を使えば罪になるのかといえば、そういうわけでもない。
ヒルド国の祖──魔道大国メルギゾークの民はほぼ全員が魔術を行使する事ができたと言われている。
マナは、より濃いメルギゾークの民の末裔だ。
メルギゾークの民にとって魔術を使う事は呼吸をするに等しく、生まれついてすでに覚えているものとさえ言われた。
その為、オルファース魔術機関の法──『魔術師でない者の魔術の行使は死罪』は適用されない。そもそもオルファース魔術機関の上に王家は存在する。王家の者が「可」といえば可能で、「許す」といえばほとんどが許されてしまうのである。オルファースの法など、ヒルド国の王族にはただの紙切れにもならない。
王家の者の大半は生まれてすぐに魔力を発現させる事が出来るとはいえ、それは魔術を発動させる能力を先天的に有しているというだけ。ルーン文字を介して精霊に働きかけるような高度な魔術を使用するには、それ相応の知識が必要になる。もちろん文字も書けなければならない。だから、エナ妹姫などは魔術に興味を持っていない事もあって、魔力を感知出来ても、術を編む事はできない。
マナは古代ルーン魔術で封印されたこの銀の箱に青白い、力ある光の文字を書いていく。解除の魔術だ。
カチリと小さな音をさせ、箱は開いた。
マナは魔術を学んでおり、行使する。そのレベルは古代ルーン魔術を多少なりとも操れる程度──。
オルファース魔術機関の資格に照らしてみると、古代ルーン魔術を操れるのは第一級試験を勉強し始めた第二級魔術師と、その試験をクリアした第一級魔術師……マナはこれらの魔術師らと同等以上の力を有していると言える。
箱は古代ルーン魔術で施錠されている以外、構造は単純なただの箱。
解呪してしまえばあとは箱のふたを外すだけ。開いた後のふたは机の空いた場所へ置いた。
中には数十枚に及ぶ文書が束ねて入れてある。マナは文書をそっと丁寧に取り出した。
文書はそれほど古くない。マナがある文献を発見した際、写したものにすぎないからだ。
マナが発見した文献は古代ルーン文字で書かれていた。故にその文書も古代ルーン文字で書かれている。マナは翻訳したものを書こうとも考えたのだが、後々異なる解釈に気付く事があってはいけないとそのまま写し取ったのだ。また、安易に自分以外の誰かに読まれてはと気にしての事だった。
一ページ目は詩の形式で綴られている。
『夢を見よう
風の吹く日に
暖かな火の下に
水のせせらぎを聞きながら
大地に寝そべり
空を見上げ
空想の羽を広げ
我らロギンス人の夢を見よう』
ロギンス人とは、古代世界の覇者、魔道大国メルギゾークが興った際、最初の都があった辺りに住んでいた人々の事を指している。
詩はまだ続いている。
『白き肌
長く艶やかな黒髪
我らが聖なる乙女の
穏やかな眼差し
遠く深く慈しみに満ちた
その紫紺の瞳
遥か古の時より
我らロギンス人の聖なる乙女
日の出と共に目覚め
落日と共に眠り
日々語られゆく
ロギンス人の大いなる歴史
森羅万象を意のままに操る
誇り高きロギンス人
全ての人はひざまずき
全て我らロギンス人の意のままに
ロギンス人によって日は昇り
ロギンス人によって日は落ちる
大いなるロギンス人の力
底知らぬ
深遠なる智慧の力
全て生在る者
生無き者も皆
全てロギンス人にひざまづく
ロギンス人のひざまづく
我らロギンス人の聖なる乙女
掲げられた白き指の
指し示すままに
我らの生命はそのままに
乙女の眼差し見る夢の
我らの力はそのままに
全て紫紺の瞳の乙女の意のままに
されど散りぬ
風は嵐
境無く消し炭と成す業火
大海は津波となりて
割けた大地に沈む
灼熱の空が
我らの羽をもいでゆく
我らの屍 野に散りぬ』
マナが写し取った詩はここまで。原本では次のページが破れており、先を読む事は出来なかった。
「……我らの力はそのままに……全て紫紺の瞳の乙女の意のままに……」
マナは声に出して部分的に読んだ。
「……されど、散りぬ……」
メルギゾークは古代世界を制した巨大な国、繁栄の頂点を極めた国。それが、散ったのだ。
どんなに豊かに栄える国でも、滅ぶのだ。
「……お父様……」
この詩を読む限り……──『紫紺の瞳の乙女』がロギンス人を率いていた王という事になる。
これを、一体どれだけの人が知っているであろうか。
様々な古文書に『全ての災厄の源』と記された『紫紺の瞳の乙女』が、実はヒルド国の前身、古代世界の頂点を極めた魔道大国メルギゾークの……王であったのかもしれない、などという事を。




