(005)【1】少女のステキな朝(1)
(1)
それは、カイ・シアーズの決意もまだの、ギルバートが処刑されるずっと前まで、さかのぼる……。
二ヶ月前、魔術師第九級資格取得試験合否発表があった日の──。
ユリシスが×をもらった日の、翌朝……。
ユリシスの朝は早い。
夜明けの白い閃光が部屋の丸窓を突き刺す頃、目を覚ます。
小鳥達も目を覚まし、ピチュピチュとさえずる声が爽やかな一日の幕開けを告げる。
狭い屋根裏の片隅、小さな丸窓から差し込む朝陽が部屋の埃にぶつかってはらはらと揺れる様を、うっすら目を開けて眺める。この朝陽が、ユリシスの目覚ましだ。
「んーっ!」
起き上がるとすぐに背伸び。これはベットに転がったままで、頭の先から足の指の先まで延ばす。うかつに起き上がってからでは、低い天井に頭をぶつけてしまう。
昨夜は不覚にも泣き寝入り、途中目覚める事なくそのままグッスリ朝まで熟睡してしまった。ユリシスにしてみれば、あんな事で、貴重な時間をつぶしてしまったのが、悔しい。あんな事だ。落ち込む暇も、もったいない。
ベッドから這い出ると、着替えを持って屋根裏から三階へ降りた。廊下に出ると、仕事で朝昼逆転して飲み屋と化した『きのこ亭』の給仕をしていたコウとすれ違う。
軽く手を上げ、ユリシスは笑顔で「おつかれ! おやすみ」と言う。
コウは口元にほんのりと笑みを浮かべて「おはよう」と言った。疲れているようだ。コウは今から就寝する。営業は深夜三時までだが、片付けや仕込み、調理訓練で彼が休むのはこの時間になる。
『きのこ亭』は日の出と共に閉店し、太陽が空の真ん中に上がる頃、開店する。
いつも通り、うつらうつらと半ば眠りながら自室へと歩いて行くコウの背中を、夕方にはまた爽やかな笑顔を見せてくれると分かっているので、何も言わず見送った。
三階から一階までの階段を軽い足取りで駆け下りた。
片付けが済んでいる一階は薄暗く、静まり返っている。
昼の開店準備まで、そこはしばし休息の時間になる。
厨房の奥の壁に鍵束がぶら下がっている。それを駆け寄って取り上げ、裏の勝手口から外に出た。
通りとは反対、敷地内の庭で、石造りの小さな建物が連なっているのが見える。見た目はほとんど同じだが、中身は倉庫に宿泊客用のトイレに風呂、従業員用のトイレと風呂。
先程の鍵束から1本の鍵をひっぱり出しつつ、建物の一つの扉を開く。晩の当番だった人が使ったのだろう、まだホコホコと温かい。昨晩はくたびれきって入れなかった風呂に入ろうというのだ。
手前に手押しポンプがあり、上から押してやると吐出弁から水の出て稼動する。少し離れて釜がある。釜の上の大きなたらいへ、手押しポンプから水を注いだ桶を運び、大量の湯を沸かす。
その間に素っ裸になって石鹸の泡で満たした浴槽に飛び込む。
「っかーー! やっぱお風呂はいいねぇ」
いつも通りの言葉を泡だらけの浴槽内で呟いて、ユリシスは乱暴に体と頭を洗ってしまい、さっさと上がる。
すぐにさっきまで着ていた服を泡にぶちこみ、ごっしごっしと洗濯も済ませる。
先に浴槽の泡を全て流し、手押しポンプの吐出弁を向け、飛び散る水飛沫も何のその、がんがんに洗濯した服の上に水を注ぐ。すすぎ終ると服を取り上げて絞る。さらに水を注いで浴槽も洗う。最後に、沸かした湯を水で割って、湯を頭からかぶってから飛び込んだ。ものの数分、ユリシスは、うんと一つ頷いて浴槽から出ると、栓を抜いた。
体を拭くとさっさと服を着てしまう。その後、火に水をかけて消し、湿った炭を火かき棒とスコップでひっぱりだして部屋の角にまとめてある分と混ぜた。一杯になったらその時風呂に入った人がこれは片付けるのだが、今日の量ならまだ必要が無いだろう。ここまで片付けをして、風呂は終わり。
ユリシスは朝起きるのも早いが、風呂も早い。
室内側の扉には鏡がある。ユリシスは手できゅきゅっと軽くこすった。
曇った鏡でもわかる。
目の両端が少し腫れている。白目もまだ充血気味だ。覚悟はしていたが、こんな顔のままなのはちょっと嫌だ。
そもそも瞳が赤みかかった紫で、白目まで赤っぽくなってはシンボル化されたうさぎのようだ。
「むむーー。……うさぎって、寂しいと死んじゃうってホントなのかな」
うさぎの赤い目に思考が及ぶと、どうでもいい疑問まで浮かんだ。
ほんの数瞬、赤に近かった紫が、はっきりした紫紺色になる──が、ユリシスは目を泳がせていて、鏡の中の瞳の色に気付かない。
眉をキュっとひそめて、再び赤みのある紫の瞳の自分に語りかける。くいっと口角を持ち上げて。
「……誰が死ぬかっての」
鏡に映る自分に声をかけて、ユリシスはニヤニヤと笑う。
──誰が、負けるか。
風呂上りの一人芝居を済ませると、朝飯を食べるべく、一階厨房へ走った。その時に鍵束も元に戻した。
昨日の『きのこ亭』の残り物が置いてある棚はわかっている。コウがユリシスの為に、避けて置いてくれているのだ。処理を余す事なく手早く済ませ、皿も洗って片付けると再び屋根裏の狭い自分の城へと帰る。
風呂に入った時に、体と一緒に洗っておいた昨日着ていた服を部屋の天井に吊るし、下に空の桶を置いた。ユリシスの握力ではいつも絞り足りなくて、水滴が落ちるのだ。そうやって、毎朝の支度を済ませて、ユリシスは数少ない私物の一つ、分厚い本を持って外へと出かける。
ユリシスは行動が早い。
商人で賑わうこの商業地区でも、商売繁盛大忙しの『きのこ亭』の看板娘は、仕事をよくこなすともっぱらの評判だ。この店でやっていけるという事は、テキパキと動ける娘なのだと太鼓判を押されているようなもの。
常連客は、知っている。元々何でもテキパキとこなせていたというわけではなく、幼い頃から生きる為、夢の為に、ユリシスが自分を拾ってくれた『きのこ亭』で働かなければならなかった事を。やっていかなければ、ならなかった事を。幼い日々に叩き込まれた結果、何でもサッサッと済ませないと気がすまない性格までを、ユリシスは養っていた。
昨日の夕方、オルファースから帰る時に使ったような裏道を、スタタスタタと地を軽く蹴って駆け抜けていく。
朝日を受ける乾いた土の地面は、白色に輝いている。そんな大地を、自分の足で確かに走っている事に、ユリシスはホッとする。
未来は自分で、走って決めていく。
自分の足でしっかり踏みしめて、そこに自分だけの道を創る。それだけは、誰にも侵す事の出来ない、ユリシスにとっての絶対の真理だった。
半刻も走っただろうか、この城下町をグルリと囲む、人の身長の10倍はある高い城壁にぶつかった。
灰色で石造りのそれは、外敵の侵入を防ぐ意味もあるが、むやみに危険な外界に人がそぞろ出てしまわないようにする為でもある。
だが、ユリシスにはそんな城壁、何の意味もない。
ポケットに手を忍ばせ、中にある紺呪石に力を込める。自分の内側から、魔力を集める。
「……ふっ」
小さな気合の息を溜めも無く吐き出す。走っていた足元に風が割り込み、ふわりと浮き上がる。そのまま高飛びの要領で、魔術に後押しされた尋常ならざる脚力で、そびえる城壁の天辺に軽く手をつき、軽々と、実に簡単に越えてしまった。
城壁の向こうにスタっと着地した時、ユリシスの視界に広がるのは、所狭しと並んだ家々ではない。
延々と続く平原、森、街道、そして朝陽。人工物のほとんどないない景色。
春の萌える緑がキラキラと輝く世界。
再びユリシスは走る。人のより近寄らない森へと。
丈のある草原をかき分け、慣れた道無き道を走った。白い朝陽がきらきらと朝露を輝かせる。時々、服に水滴が跳ねた。
しばらく走ると西の森の端にぶつかる。ユリシスは躊躇い無く、森へ飛び込んだ。
森の中、少し入った場所に、清らかに澄んだ泉がある。
ユリシスのお気に入りの場所だ。
泉の面から、木々の隙間から差し込む太陽の光が反射して、涼やかな音楽でも奏でているよう。煌きの欠片が宙空を舞っている。虹色にさえ見える陽光は、森のあちこちに差し込んでいる。
早朝、ヒンヤリとした薫りが、感じられた。
近くの岩の上に本を置き、再び泉の上の鮮やかな自然の景色に目を向けた。土と緑と、水の臭いを視覚と嗅覚を総動員して身の内に取り込む。
──早朝の持つ、この独特で、清浄な世界が好きだ。
ユリシスは泉の淵、濡れた草を踏みしめ、辺りを見回した。
鼻でたくさんの空気を吸い込む。勢い肩も持ち上がる。目を瞑って吸い込んだ空気を、体の中に満たす。両手も自然と持ち上がり、手の平を胸にあて、鼓動を自分で感じる。
頭の中で、吸い込んだ清らかな流れを足の指先、手の指先、頭の天辺まで巡らせるイメージを描く。呼吸を止めて、満ちた力を体の隅々に行き渡らせる。
少し苦しくなってきたところで肩をそっと下げて、手を開きながら前へ。同時にそっと目を開く。
先程までよりもずっと冴えて、鮮明に見える。
深い呼吸はまだ体の中にある。それを細く開いた口からゆっくりと、ゆっくりと吐き出す。
前へ押し出していた両手を左右へそれぞれ開きながら、一気に吐き出したい息を我慢して、少しずつ、口から細い空気を送り出す。目を細めながら、肺の中の空気を全て、吐き出す。
からっぽになった体で、左右の腕を上へ。顔も上へ向ける。
息が苦しい。
もがくように天を仰ぐ。
──だいじょうぶ、まだ余裕がある。
半眼の目は、木々の間の陽光を求める。
揺れる睫が視界に入り込み、それさえキラキラとした反射を生んでいるのが見えた。
間近なその光は、伸ばした手で掴めそうな距離があるように思えて、でもそれは自分の体にくっついてあるのだ──それを、忘れてはいけない。
大きく見開いた紫紺の瞳に、光が降り注いだ。
「ふはっ!」
次の瞬間、ユリシスはくぱっと口を大きく開いて、鼻と口両方で空気を一気に吸い込んだ。
「ふあー……」
くらりとした頭をゆるく左右に振って、ユリシスは一人にへっと笑った。膝に片手を置いてしゃがみ込んだ。
早朝のキンと冷たく澄むその泉の水を、ユリシスは両手ですくいあげ、口を当てた。
ひたすら走り通してきて、無理矢理呼吸を整えたその身を癒す。喉を通るその水は、驚く程においしい。
走って火照った体に、泉の上を通る風が優しく吹くと、それは爽快で、ひんやりとして気持ちいい。
一息ついて、泉の傍の手ごろな岩に腰掛ける。そこに置いていた分厚い本を取り上げ、膝の上に置くて、しおりが挟まれた所を開いた。
「んーー」
唇をほんの少し尖らせた。本から顔を上げ、周囲を見渡す。
森の中、書物の文字を読むには少し、明かりが足りない気がした。あちこちに降り注ぐ陽光は明るいのだが、いかんせん樹木の隙間を縫っているので差がある。しかもそれは風で揺らぐ。今、ユリシスの手元はかげっている。
しばらく考えてから、ユリシスは昨日『きのこ亭』に戻る際使った“紺呪石”に光を込める“神術系”の魔術ではなく、さらにワンランク上といわれる“精霊系”の術を使う事にした。したい事は同じ、明かりが欲しい。
神術系が術者の魔力を光に変えたり、魔力そのものを放出して明かりを得るものであるのに対して、精霊系は光を司る“霊”の力を具現化するものだ。
ユリシスは右手の人差し指に魔力を込める。指先がポっと熱くなる。すぐに指先に青白い光が集まった。それで宙空に魔力の青い光を帯びた文字をサラサラと書いていく。
神術系が術者自身の力であるのに対して、精霊系はそこら辺に居る“霊”の力であるから、前者が術者一人で勝手に使えるものであるのに対し、後者は別の“霊”という他者が存在する。それに伝わるように交渉しなてはならない。それが今、ユリシスが宙空に書いている文字、一般には二十四字からなるルーン文字と呼ばれるものだった。
最後の一字に力を込めて。
「ヨロシクっ!」
パチンっと指を鳴らした。これに特に意味は無い、ただの景気付けのようなものだ。
文字が、ぐらりと揺れて変化する。
ユリシスの魔力を帯びた文字が、端から欠けるように大気に溶ける。
術者の魔力を喰らい、媒介にして“霊”が現れる。今回呼び寄せられたものは、光を司る“霊”。
文字の組み合わせで八百万の“霊”を呼び出す“精霊術”──はっきりした姿を持たないそれは、ユラユラと光り、ユリシスの顔の前、その少し上に止まった。
ユリシスが描いた文字は『明かり、ささやかな、少しの時間』という意味の3種類の文だった。
文字が宿す術者の魔力をエサに呼び出され“霊”は、魔力の主、ユリシスの要望に応じてそこでそっと漂う。
握りこぶし程の明かりがユリシスを上から照らし始める。
ユリシスは満足気に一度頷くと、顎を下げて本の文字を追う。手元は申し分ない灯りで、とても読みやすい。
本は、魔術機関オルファースの第三別館にある図書館から借りた本の写しをまとめたもの。
師にもつかない者が読み解くには不可能な文字や用語が、そこにはズラズラと並んでいる。
ユリシスはそれをニコニコと笑顔で読む。書き写した時には内容まで考えてなかったので、読むのはこれが始めてとなる。
知らない事を知るのは、ユリシスの好む所だった。
昼前から始まる『きのこ亭』の準備の時間まで、ユリシスはこうして本を読んだり、写したり……術を試したり、それが日課だった。
時々、これが見つかったら……と、気持ちが落ち着かなくなる。
資格が無ければ、魔術は使ってはならない。
それがこのヒルド国の、オルファース魔術機関の支配する“魔術”の掟だ。資格無く魔術を行使した時には、罰則がある。
それでも、抑えようがない。
知りたい。魔術を使えるようになりたい。
明日も明後日も、きっと心の中で強く願い、誓う夢はただ一つ。
魔術師になりたい。
──ところで、ユリシスは知らない。
彼女が、例えば“瞳の色が紫の少女”でなかったら……。
その力、知識は、既に第一級の魔術師と並ぶ。
“瞳の色が紫の少女”でなかったら、天才の名を戴いたのはラヴィル・ネオ・スティンバーグ一人では無かったに違いない。
その事をユリシスは知らない。
──それはまだ、誰も知らない。