(049)【3】悲痛という声(4)
(4)
深く苦い、鉄の味が空気を伝わってこちらの体内に染み込んでくる。ひどく気持ちの悪いものだ。
──その光景が恐ろしくてたまらなかった。
瞼を閉じるとよみがえる、ほんの昨日、腕を落とされた少年の鮮やかなソレと、たった今、数名の黒装束達の絶命と共に飛び散ったソレらが……渋い味を広げる。
ソレはユリシスの頭の中に、視覚的にも聴覚的にも臭覚的にも強い記憶として刻まれていた。
指先がじんわりと小刻みに揺れているのを自覚する。自分で止められない。恐ろしくて「大丈夫」だなんて思えなかった。
……早朝、陽もあがりきらない内に『きのこ亭』を出た。
エナ姫がさらわれた場所、城下町を出て西へ行ったところにある埋もれた洞窟──ここへ足を運んだ。
黒ずくめの少年達に襲われた手がかりを求めて──。些細な事でもかまわない。疑わしい全てにひとつひとつあたり、自ら行動してその正体を明かそうと思った。正体がわかれば、自分が襲われている理由にも近づける。理由がわかれば、不安や恐怖もおのずと取り払われると思ったのだ。
しかし、そこで見たものは……。
入り口には見張りがいた。黒ずくめ──黒装束の忍びだった。
鬼獣にもいつも気付かれない静かな足取りで近づいて、眠りを誘う魔術を使った。忍びはあっさりとぶっ倒れ、簡単に通る事が出来た。
洞窟内に入ると数人見張りがいたが、同じ方法でやり過ごした。全て、黒装束だった。
昨日、自分を襲ってきた少年達と同じ黒ずくめ……彼らの内の誰かもいるんじゃないかと思えて怖かった。
しばらく足を進めると、焦げた匂いが鼻をついた。
息をのんだ。
そこに漂う空気さえ恐ろしくなって、息も止めたくなった。
歯がガチガチと鳴った。
目の前で人が焼けていたのだ。ゆらゆらとじりじりと縮むように揺れながら。それが──姉魔術師の方。
ユリシスが発見した時はもう、最期だった。
爛れた手をユリシスに差し伸べ、地の底から聞こえてくるような、しかし炎の爆ぜる音に混じる小さな声で「い……やぁ……」と──。
腰が抜けそうだった。足先から頭の天辺までガクガクと震えた。
──目の前で人が亡くなってしまった。
その事実だけで気が遠くなりそうだった。
ただ、否定しがたいことに、その自分を冷たく眺める己が居たのも事実だった。
ユリシスは心のどこかで冷静にそれらを受け入れ、見ていたのだ。だから、背後から足音が聞こえた時、気配を殺して岩陰に入る事もできた。
足音の主はわずかな安堵を胸にもたらした。現れたのは一昨日『きのこ亭』で見かけた魔術師が二人。
自分がどうしてここにいるのかと疑われると思ったが、恐怖の前では些細なことのように思われた。
言い訳は必死で考えたが、上級魔術師らしい二人を騙し通せる気もしない。
もたもたしている内に同行するよう言われ、この部屋までついて来た。
──そして、聞いてはならない一言を聞いた。
『……あいつらは、あの黒装束は、王家の忍びの者が着る。その内でも直下と呼ばれる連中は、国王直属の忍び、という意味だ』
──ああ、私ったら、なんて連中に目をつけられたんだろう。
そもそもエナ姫を助けて、何故その父たる国王の手先に狙われなければいけないのだろう。
──それともお礼をしてくれる為に探しに来てくれたのかな。それなら正面から家を訪ねてくれればよかったのに……ああそうか、エナ姫がさらわれそうになった事が世間に広まったら大騒動よね、だからこっそり…………──。
ユリシスは、下唇をぎゅぅっと噛んだ。
わかっている。
昨日の連中は何故か、はっきりとユリシスを狙った。殺気すらあった。
今日の連中のリーダー格もまたはっきりとユリシスを射抜くように見た。
『──“それ”はどこで見つけた?』
考えるまでもなくわかった。彼らは確かに自分を探り当てたのだ。
『──ものがものだ。やむを得ない。“それ”は、すんなりと渡してはもらえない……のだろう?』
──渡すとか渡さないとか……“もの”じゃないよ……。
唇を噛んだまま、ユリシスはさらにきゅうっと眉を寄せた。
ほんの数十秒……数分前の出来事だ。
魔術師二人の向こうには生々しく散らばる腕や足……。ぺろんと頭の一部がめくれるように千切れ、端っこは文字通り皮一枚でくっついている。中身がでろりと見えている。その停止した顔は、瞳はこちらを向いているのだ。
黒装束のリーダー格が去ると、ギルバートはこちらを振り返り、言うのだ。
『大丈夫。大丈夫だぞ』
──強調なんかしないで。余計に無理だ。大丈夫だなんて思えない。
自分は一体なぜ、国王に追われているのだろうか。
こんな命の取り合いが、なぜ起こっているのだろうか。
──一体なんだというの……? 殺されなきゃいけないのか、私は?
次に“ああなる”のは、自分なのか──でも、なぜ?
酷く憤ろしい気持ちが込み上げてきて、吐く息が小さく揺れる。
確かに魔術をこっそり使いはするが、誓って悪事に用いた事はない。
何年もずっと、オルファースでちゃんと正規に資格をとろうともしている。
──なのに、なんで?? どうしたら、一体どうしたらいいの…………誰にも言えないこんな事を抱えて、私は一体……。
ついと、自然に込み上げてきたのは、涙。
──悔しくてたまらない。
恐怖と不安と、何から生まれ、どこへ向けたいのか自分でもわからない怒りと苛立ち。
そんなユリシスを、ギルバートはそっと抱き込んでくれて、暖かく柔らかな、大きな手で頭をなでてくれる。大丈夫、大丈夫と──。
沢山の隠し事がある。
言えない代わりに、ユリシスはそこで喉を詰まらせ泣いた。
押し込められた悲痛ともいえる声は音になって外へ漏れることはない。ユリシスが許したのは、ただただあふれてこぼれ落ちる涙だけだった。
夜空に月が昇り、地上の月──オルファースのドームにも明かりが灯る頃……。
ヒルド国、王都ヒルディアムの中心に位置する巨大な建造物、白亜の王城もまた、青白く輝いている。この城には十二の尖塔がある。その内の一塔の最上階にマナ姫の私室は存在する。
石造りの塔の螺旋階段には、余すことなく魔術の灯火が配置されている。
かつーんかつーんと足音を響かせる塔の主を魔術の灯りは照らす。
塔の主は一段ずつ、ゆるりゆるりと階段を降りていた。その度、ドレスの裾は絨毯の敷かれた床に触れそうで触れず、柔らかに波打つ。その背後を、音も影も気配もなく、彼女の忍びたるゲドが付き従っている。
塔の主マナ姫の真っ白なドレスは、青白い魔術の灯りを受けて輝きを返している。そこをたゆたう真紅の豊かな髪。甘い香水の香りが大気に溶けるようにふりまかれる。清楚にして高貴、知性漂う面差し。
──ただ、瞳は憂いに曇り、柔らかなラインを描く頬だが、どこか疲れが見えた。
塔の内装は白の大理石でさらに装飾が施されている。窓はないものの、壁には様々な演出を施された絵が豪奢な額におさめられて何枚も飾られている。一枚一枚、それぞれの美を放っている。
そんな絵だろうと目もくれず、足元だけを見て歩いていたマナ姫は、階段の終わり、一階の広間で周囲を見回した。
魔術の青白い灯りで昼と変わらぬ明るさがある。
広間は階段以上に装飾が施され、天井には立体的な構造とその狭間に多くの色鮮やかな絵が直接描かれていた。
両開きの扉へ目をやると、タイミングを計ったかのようにゆっくりと開いて、三人の侍女が姿を見せた。
前へ歩み出てきた侍女の一人がマナ姫の五歩先で待ち構え、深く頭を下げる。残りの二人は両開きの扉の左右に立ち、扉を支えつつ、こちらも同じ角度で頭を下げていた。目があうことは無い。
一番近い者は淡く、地味なドレスを纏っている。扉そばの二人は深めの色彩のワンピースに淡いクリーム色の大ぶりのエプロンを下げていた。ほどほどに装飾された、動き易い服装をしている。
誰も、口を開く事はない。
三人は順に顔を上げてゆく。
マナ姫はそれぞれの見慣れた顔を確認して、ひとつ、小さく頷いた。
毎日のこと、静かな目配せだけで全て通じる。
この巨大な城の中の、最も深いところの閉鎖された世界が垣間見える瞬間。
マナ姫はゆるゆると歩み寄る。侍女達は王女の歩みにあわせて動き、一人が先導し、二人は静かに後ろについた。
両開きの扉から出ると、親衛騎士六名が控えており、マナ姫を王城本殿へと誘った。
庭園に植えられた木々が見える。
見上げれば夜空が見える、星が見える、月が見える。
しかし、見なければならないのは侍女達の背中であり、その先の推し量りきない恐るべき相手。
吐き出してしまいたい溜め息をマナ姫はそっと飲み込んだ。
塔を出る頃に姿を消した己が半身──忍びゲドの傷が気になった。
つい先日、彼は袈裟懸けに切られたといって姿を見せた。傷は深くないと言っていたが、範囲は広かった。
忍び達は他人に傷を見せない。主である自分にも──。魔術の治癒もすんなりと受け入れることの方が稀だ。
そうして、マナ姫の憂いは一層重く心にのしかかってくるのである。
──傷を負わせたのはゲドの父である。
ゲドは首長筋の優秀な忍び。つまるところ、その父がまさに首長であり、これが従うのはその時の王──マナ姫の父。
忍びの刃はその主の刃と同等と言われる。
ゲドに傷を負わせた彼の父親の刃は、マナ姫の父王の刃も同じ。
──言い様のない苦味が口の中に満ちてくるのがわかる。
ゲド親子に血で血を洗う争いをさせているのは、自分と父王の諍いが原因なのだ。
胸が締め付けられる。どうしてこうも多くの人々が傷つかなければならないのだろうか。自分と父王だけの問題なのに、どうして争いは二人の手の平におさまらないのだろうか。
体の前、へそのやや下辺りで組んだ白い手には朱が指す。力を強くこめすぎていた。
毎夕、こうして王家の決まりを守って父王に顔を見せなければならないのが、本当に嫌で仕方ない。
早く決着をつけたいと思う。そうできるよう頑張っていた矢先に確認された、かの存在──『紫の瞳の少女』
かの存在がこの時代に居ることがわかってしまった。
無表情であろうとするのに、つい下唇を噛んでしまいそうだ。それを、必死でこらえた。
──なぜ、なぜ、なぜそうなる……。
試練だというのか。ならばこれは一体、誰を試している?
予感におののく自分がいる。
このまま事が進んでゆくのなら、巻き込んでしまうのはゲド親子だけではすまない気がする。恐ろしい何かが未来にあるような気がしてならない。
なのに、父王との争いを止められない。父王が隠し続ける限り……。
──私がここで戦うことをやめてしまったら、誰が真相に近付けるのか。危ういならば、その時、誰が動いてくれるというのだ。誰が王を止められるのか。
マナ姫はついと、顎を持ち上げる。
──お母様……エナ…………私に、力を……!
本殿の門をくぐり、幾重に扉を抜け、深い回廊を巡り、奥へ奥へと進んだ先、父王と会うことの出来る謁見の間がある。
背丈の五倍を超える巨大で威圧的な扉が、か細いマナ姫を圧倒する。頑丈な樹で作られた扉は分厚く、濃いニスで色は黒に近い。細かい装飾のある箇所ほど、飲み込まれるような闇色をしている。
こっそりと、マナ姫は多めの空気を肺へ取り込み、吐き出した。
目に力を込めて奥歯を食いしばりながら、口元にはささやかな笑みを浮かべる。手の力を意識して抜き、体の前にふわりと配す。背筋はピンと伸ばした。
──戦いの……ただ面会するだけの準備を整える。