(046)【3】悲痛という声(1)
(1)
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だからって、過ぎてしまった事を悔やんだりはできない。
一度自覚してしまった事を忘れるなんて、簡単にはできない。
ただ前へ進む事しか、私には選べないと自覚してしまったから、過ぎてしまった事の色々を、悔やめない。
──取り戻せや、しないんだ。
随分と前に言われた気がするけど、つい最近聞いた言葉「わからないままでいる方がいい」──そう言った人がいた。
いまだ、その答えは……。
けれど、前へ進むしかないと決めたんだから、きっとわかってゆく事を、私は強く望んでいるのだと思う。
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初夏を間近に控えた早朝──。
ヒルド国王都ヒルディアムの中央にある王城の左右、西に国教ゼヴィティクス大教会、東に魔術機関オルファースがある。
ゼヴィティクス教はヒルド国建国以前からこの大地にあるもので、ヒルド国の前身『魔道大国メルギゾーク』でも同様の扱いを受けて国教とされていた歴史の長い宗教だ。
その大教会の施設の規模はオルファースとほぼ同程度ながら、趣が異なる。
大教会の威容には古い建築様式を継承し続けて増改築を繰り返した跡がいくつもあった。ヒルド国建国当時のまま利用されている建物や地下施設がいくつも残っている。二千年以上受け継がれている建物だが、質素かと言えば逆で、メルギゾーク時代の豪華で派手な様子を垣間見る事が出来る。
パッと見、あるいは遠景からでは飾り気が少なく簡素に見えるものの、古く、魔術が今よりもずっと盛んだった頃の細かな仕掛けや細工があちこちに施されているのだ。
古代ルーン魔術全盛期からの魔術を利用した工法で組まれた自然大理石の並びは、一枚一枚それぞれ独特の色模様を見せて美しい。そういう自然美の鮮やかさと、全体を落ち着いたデザインでまとめあげた大教会の醸す雰囲気は、静かな時を重ね、厳かで、雄大だ。
その大教会の前の広場を、男二人が横切って歩いていた。
大教会に用があるわけでもなく、およそ五分かけて正面を通り過ぎてゆく。用があったとしてもこんな早朝からでは大教会の扉は開かないのだが。
さて、男二人、てくてくと歩き、道を逸れて路地に入った。朝陽の手もほとんど届かない裏路地は、しっとりと湿ったような冷たさがある。
しばらくすると一人が足を止め、もう一方の男に制止を促す。路地の角へとゆるゆると静かに移動した。
「──あれだ」
先導した長身で色黒の男──アルフィードは顎をクイっと上げて路地の向こうの小ぢんまりとしたごく普通の、石造りの民家を示した。
「……なるほど……」
もう一方の深緑のローブの男──ギルバートはアルフィードの影から目を細めて民家を見、頷いた。昨日、アルフィードの言った『連中と共に入ったという地下のある警備された建物』が、今見えている建物になる。
ごく普通のはずの民家の閉ざされた戸口の両脇に、武装した屈強な大男が二人、“いかにも”な様子で立ち、辺りを警戒していた──この、早朝に。
アルフィードとギルバートはそれだけを確認するとその場を離れた。
大男二人といっても、この師弟にかかれば敵ではない。確かにこの師弟は好戦的だが、わざわざ面倒を好むタイプでもない。
アルフィードが別の入り口を見つけてあると言っている時点で、この民家は彼らにとって用がない。警備の大男二人を相手どる必要はなかった。立ち寄ったのは、監視役のギルバートに見せる為にすぎない。
それから二十分もしないうちに、飛行の魔術を使って二人は『別の入り口』の前に立っていた。そこは、王都ヒルディアムの防壁の外──。
防壁の周辺には、都を囲むようにドーナツ状に農地が続いてゆくのだが、森とごく近く接する西側にはただ草原が広がるのみ。そこを耕しても作物は森の獣に奪われる。それだけではなく、森には恐ろしい鬼獣が生息している。農作業中に襲われてしまう危険があるのだ。
人の近寄らない西側の草原、その只中、ひっそりと大地に穴が開いている。
以前、ユリシスが七歳児を抱えて逃げ出し、飛び出てきた穴。つまり、アルフィードが古代ルーン魔術の使い手を追って発見する事になった『別の出入り口』であった。
その洞を前にして、アルフィードとギルバートはしばし凍りついた。
全身黒装束、顔も頭巾で隠している──体格からして成人の男とわかる──いわゆる『忍びの者』が一人、洞の入り口で倒れ伏していた。
アルフィードは、こんな場所に隠密を旨として人前に姿をさらさない、あらゆる戦闘技術を身につけている忍びが倒れている事に驚いて──。
ギルバートは……同僚のオルファース副総監たるカイ・シアーズと同様、この黒ずくめの正体に察しがついて、動きを止めたのだった。
「雰囲気からしてコイツは……見張りをしていてやられたってカンジか?」
アルフィードはしゃがむと意識を失って岩場のくぼみに倒れこんでいる忍びの様子を覗き込んだ。
「そうだろうな。だが……だとしたら、見張りなんぞだとしたら、連中はここに誰も入れたくなかったという事になるんだろうな。そこを破って──見張りを倒して誰かが中に入った……て事になるな……こんな時間に」
フンフンと頷きながら忍びを観察していたアルフィードは片眉をひそめた。一瞬だけ考え込むように目線を泳がせ、パっと立ち上がる。
「ズボンのすそが少し焦げてるな……魔術の火か。それをかわした時に服だけ焦がしたってとこか。で、かわしてるスキに睡眠の魔術かなんかでコテンっといってグースカピーだ…………結構強力な魔術だぜ。魔力の残りカスが辺りに充満したままだ」
アルフィードの簡単な推理にギルバートは小さく頷いた。
「まぁ、ともかく、中に入ろう。考えたって埒もない。連中が誰も入れたくないという場所に誰かが踏み入って間もない……それが今だ。それだけわかってれば十分だろう。追ってみよう」
ザザッとブーツを鳴らして地を滑り降り、ギルバートは先に暗く口を開けている洞へ進んだ。アルフィードも後を追い、ギルバートにボソリと言う。
「連中……ね。この忍びが何なのか、後でちゃんと説明しろよ」
驚きに足を止めたものの、目を見開いて見ることしか出来なかった。
──その暗がりで、それはゆらゆらと赤い光と異臭を放ってもがいている。
地面がゴツゴツとした岩で構成されるそこでは珍しく、それのいる場所は砂利まじりで平坦になっていた。
それは右手を掲げており、指先からうっすらと青白い光──魔力をプスプスと漏らしている。橙の光──炎に絡みつかれ、ガクガクと痙攣しながら、指は何かの術を描こうとしている。
それの肌は爛れ、髪も燃え上がり、どんな術ももうその女──と思しき肉塊を助ける事はできないように思われた。
豊かであっただろう髪があちらこちらへ縮れながら燃えていき、スリットのきつかった服の先にのぞいていた白く艶かしかった足も、黒く焦げてくずれていく。やがて、その女は右手を掲げたまま、ただの黒い塊になった。
死した後も、焼けながら全身の収縮が始まり、じりじりと動いた。腕が下がっていく。
「油と……薬臭いな……忍びの技か」
左手側──入り口の方から、反響する声が聞こえてきた。
それの炎が失われ、灯りが消えつつあるここへ足音が二つ、近づいて来ている。ちらちらと新しい灯りが岩壁を照らし、臭気の元を探るように揺れている。
呆然と女の死にゆく様を見届けたユリシスは、慌ててゴツゴツした壁際の岩と岩の間に体を押し込み、隠れた。
現れた二人の男はそれぞれ手元に魔術の灯りを持っているようだ。焼け死んだ女の遺体を探りつつ、地面に光を当てて近寄ってきた。
「魔術師の天敵“忍び”が何やら動いてるんか……──って、この女……」
「何だ? 知り合いか? アルフィード」
「オレにエナ姫をさらうよう依頼してきた姉弟魔術師のかたわれ、姉の方だな」
燃え残った服や、ジャラジャラと身に着けていたアクセサリー類から判断したのだろうか。
「何だって? ……入り口でのされてた忍びはコイツにやられたんか……」
「だろうな……──あーあ……誰にこんなやられちゃったんだかなぁ。別の忍びにかね。なぁ、ギル、これオルファースに持ってくの、オレ、嫌だぜ~? 何とかなんない?」
「女が死んだ証拠には、女の遺体が一番だ。我慢して持ってけよ」
ギルバートの言葉に、アルフィードは「はぁぁぁ」と長い溜め息を吐き出し、プスプスと白煙を上げつつ四肢を曲げて炭になっているそれの間近にしゃがみ込んだ。手元の灯りの魔術を近づける。焦げた黒い顔が顕になった。
「──ヒッ」
青白い灯りに照らし出されるその焼死体に、ユリシスは思わず引きつった声を上げてしまった。
アルフィードとギルバートが気付かないはずはなかった。
声がしたからには当然、声の主がいる。
慌てて背後を振り向いたアルフィードとギルバートは、声の主の顔を凝視する事になった。
──闇の中に、ポツリとある気配。
黒い髪は闇に溶け、瞬く目の煌きは、アルフィードの差し向ける灯りを映している。
ギルバートもその存在に灯りを向け、記憶に留まる少女であると理解した。
ただ、それぞれの思考が再び動き始めるまで数瞬を必要とし、またその思考はそれぞれ深かった。
──ひとつの、運命的な出会いの瞬間でもあった。
アルフィードは、こういう場面では、特に深く追求しようとするタイプではない。優先順位を本能的に瞬時でつけ、処理する。
そこに居た、その事実が重要で、何故だとか、つい最近どっかで見た覚えがあり、それがお気に入りの飯屋で見たような気がすると思っても、今現在は姉弟魔術師を探す事が先決で、この少女にかまう気はおきない。──姉魔術師はもはや炭と化しているが……弟魔術師を探さねばならない。そちらの方がこの少女より重要だ。……そう思いながらも、何やらひっかかるこの少女には、あとでじっくりと、このもやもやする何かを聞き出してやろうと思うのだった。
ユリシスは、無自覚で目をキョロキョロと泳がせていた。どういう言い訳が適切かと懸命に考えていたのだ。ユリシスがここへ来た目的は、何故自分がわけのわからない連中に襲われねばならないのかを知る為の第一歩──原因と考えられる要素として、最初の手がかりを求めたからである。が、そんな事を正直に言えるはずもない。
単なる下町の娘が、普段着のまま都を出ている事は甚だ奇異な状況。旅装ならまだしも、特に何か荷物を持ってる風でもない、ただの普段着。ちょっとそこまで買い物に行ってきます、程度の格好でしかない。
ここは都の外、危険な森にごく近い場所。こんな洞窟では、いつ鬼獣が出てもおかしくない。一般人が都を出るときは冒険者などを用心棒に雇って旅をするのが常識である。
ユリシスは、あきらかに非常識であった。適切な言い訳など……。
今にもさっさと先に進もうと言いたげなアルフィード、何と言ったものかと慌てるユリシスに対して、ギルバートの面持ちはひどく静かだった。
内心ポソリと呟いてから、赤い髪をカリカリかいて、ニマと笑う。促すように右手をユリシスに差し出した。
「お嬢ちゃん、ここらは危険だ。とりあえず、ついといで」
──いいさ、腹はくくった。