(044)【2】目覚ましショック(4)
(4)
ユリシスがその異質な感覚に気付いたのは、いつもの泉の側に腰をおろした時だった。
顔を上げ、瞬いた。
──鬼獣ではない。
皮膚がちくちくする。
鬼獣ならまず、獣独特の湿ったような臭いがぷんと鼻をつく。
これはちがう。
魔術師なら空気が澄む。魔術師は辺りの精霊に干渉して助力を願い、魔力を代償に大きな力を発現させる。周囲の精霊と良い関係である事を維持する為、日頃から精霊の好む、彼らの好物である穏やかできめ細かな魔力を微量放出して大気を変えている。清めている。魔術師か、よっぽど鋭い感覚の持ち主でなければ気付かないが。
これはそれでもない。
「……なに……?」
ユリシスは小さく呟き、座ったばかりであったのにすっくと立ち上がると辺りを見回す。
……いつも通りだ。
早朝の森。
夏が近づいているので、木々は益々その緑を鮮やかにしている。木の葉の隙間から何本もの光の筋が地面に落ちていて、暗いという事はない。
泉は直径が歩いて二十歩程で、深さはユリシスなら胸まで沈む。
その泉の脇に、ユリシスの体格の十倍、高さは身長の二倍近い岩がどっしり佇む。そこにユリシスは乗っていて、周囲を注意深く見ていた。
遠くから、鳥のさえずりも聞こえている。
いつも通りだ──なのに、皮膚がちくちくする。
「……何?」
わけもなく鼓動が早くなり、緊張が高まる。勘だけが働いて、何なのかを判断する経験が不足している。不確かな胸騒ぎから、地面に飛び降りた。
岩を背にして辺りに注意を払う。
普段、どちらかといえば赤みがかっているその紫の瞳は、青さを増して益々紫紺の深みを得る。
きょろきょろと上下左右に視線を走らせる。
風がわたり、木々の葉のこすれる音が聞こえる。涼やかな泉の香りを運んでくる。いつも通りのお気に入りの風景なのに、どこかおかしい。
ゴクリと唾を飲み込み、自然、上着のポケットに手を伸ばした。
ポケットには、魔力を込めてある紺呪石が二つ入っている。紺呪石は、あらかじめ魔術を封じ込め、任意の時、少量の魔力で魔術を発現出来る道具。
今日は、魔術を使わないと決めていた。
都から出る時に壁超えの術を使ったが、肩で息をする事を強いられた。普段ならそのまま駆け去るのに。
これ以上、術を使って回復を先延ばしにしたくない。
紺呪石の力を借りるしかない。だが、この二つの石に込められている魔術はどちらも単なる明りの魔術だ。
ユリシスの体は既に、臨戦態勢に入っていた。
天気もいいのに。
風も気持ちいいのに。
ユリシスはポケットにつっこんだ右手で二つの石をコロコロと弄ぶ。
息を深く吸い、留め、吐く。
高まっていた緊張が、落ち着いてゆく。目を軽く閉じ、開く。
瞳の色は、完全に紫紺色をしていた。
──そして、影が三つ、ユリシスの頭上に躍り出た。
振り仰ぐ事もせず、ユリシスは紺呪石の一つを上空へ放り投げる。その手で青白い魔力の軌跡を走らせ、古代ルーン魔術を発動させた。
アレンジを加えてやる為の記述は、瞬き程に速かった。記述の最後のラインは、宙にある紺呪石が周囲の空気を一気に吸い込むようにエネルギーを集め、カッと輝いた。
辺り一面が真っ白に輝く。
敵の姿を、記述を終えておろされる間さえない右手の向こうに三つ、ユリシスは確認した。大人が一人と、十代半ばか──少年が二人。全員黒ずくめで目深な頭巾を被っており、顔の判別がつかない。体格から男であろうとわかる程度だ。
敵の姿は瞬間しか見れなかった。ユリシスはすぐに顔の向きを変えたのだ。紺呪石が輝き、彼らは目を細めたはずだ。確かめている暇はない。さっさときびすを返し、森の奥へと駆け、逃げ出す。
二人の内の一方の少年が体勢を変えて速度を上げ、紺呪石に追いつく。短剣を鞘ごと引き抜きながら、もう一方の手で光を放つ紺呪石を掴み、柄で強く打った。瞬間──石は一層眩い光を放ち、破裂した。
粉々に砕け散る欠片は意思を持つ飛礫のように少年の頭巾とマスクの間、目に襲いかかる。短剣を持ったままの手で目元をかばい、ぐっと小さく呻いて宙で揺らめく。
三つの影の内、唯一の大人である年長者が腕を伸ばしよろめく少年を引き寄せた。間近にせまる地面に着地する前に、年長者はもう一人の少年に目配せを走らせる。受けた少年が小さく頷く。
三人が地面に足音もなく着地した時、対象である少女はいなかった。石が砕け散った事で辺りは普段の森の景色に戻る。光で視覚の大半を奪われていたが聴覚は生きている。少女が逃げた方向──西南の方向へ足音が消えていったのを確認している。
指示を受けた少年は着地と同時に地面を蹴り、少女の逃げた方向へとしなやかに走っていく。
ユリシスは後方から追ってくる気配に気付いた。
追ってくるのは一人。魔術は使いたくないが、そう贅沢を言っていられない。周囲の風に干渉して味方につけ、半ば飛ぶように森を駆け抜ける。が、あちらも魔術とは違う何かで身体能力を上げているのか、距離が広がらない……むしろ縮んでいる。
──振り切れない……!?
相手が普通の人間なら、何の特殊能力もない人間ならたやすくまけたはずだ。相変わらず、ちくちくとした、重たい感覚が周囲に広がっている。追っ手の魔術とは異なる見知らぬ力──威圧感から、そのように感じられたのだ。魔術師の力は澄んで大気を鎮めるものだが、これは酷く気分が悪い。
そして、ユリシスは確信する。
三つの影は敵だ。それは、自分を狙ってきている。
通りすがりで襲うにしてはあまりにもしつこい。これだけ目一杯逃げているのに、諦める気配が全くない。
「……『私』を狙っているっていうわけ……?」
声にはせず、口の中で呟く。
この辺り、泉の周辺は知り尽くしている。このまま走って逃げれば……。
左右に揺さぶっては逃げれない。敵との距離が逆に近くなってしまう。あちらは一直線にこちらへと来ているのだから。
まっすぐに逃げないといけない。まっすぐ逃げて行き着く先は……。
カっと、急に視界が開けてユリシスは足を止めた。
勢いがついていたので止まるのに苦労した。右足がギリギリで止まった。つま先は少し、はみ出ていた。
周囲は明るい。森から抜けたが、緑は続いている。中途半端な抜け方だ。
右足の下、地面までは目が眩むほどの高さがある。王都の防壁二倍の高さだ。ユリシスはまさに、言葉通り、崖っぷちに立っていた。
泉からまっすぐ西南へ森を抜ければ、断崖に辿りつく。南北見通せない距離で断崖は続いている。
崖下にはまた森があり、緑生い茂るの木々の頭が見えている。早朝の朝日を浴びるそれらは命に満ちて美しい。風がそよいで心地よい音を奏でている。が、そんなものに気をとられている余裕はない。そもそもユリシスの周囲に吹く風は今、容赦なく髪を叩き乱してゆく、煩い音だ。もっと煩いのはこれだ──自分の吐き出す荒い息、痛いほど早く打つ鼓動。
肩で息をする。魔術を連発できる程回復していない。大火事を消し止めた魔術のダメージは、あまりにも大きかった。回復が遠い。
逃げ道は、まっすぐ。下しかない。
ユリシスは大きく息を吸い込み、気持ちを整えるとルーンの記述を開始する。
もう、背後に足音が聞こえる。
足音は三つだ、遅れていた二者もあっという間に追いつき加わったという事か。あの年長者がひっぱったのだろうか、だとしたら……なんという速さだ。
「逃げ切れるかな……」
今度ははっきり言うと地面を蹴る。遥か眼下、緑の森へと飛び込んだ。描いた古代ルーン文字がユリシスの周囲に踊る。
地面へ辿りつくまでの数瞬──何で追われてるのかなぁ、何で逃げてるのかなぁと、全身で風を受け止めながらユリシスは口元に苦い笑みを浮かべた。余裕というよりも、わけがわからなくて笑うしかないといった具合だ。
追って来る三つの影も、ユリシスの知らない何らかの力を纏い、崖へと飛び出て来る。
魔力と風を足元に集めて急ブレーキをかけ、すたんっと軽く着地したユリシス。考える暇はもうない。
今度は風に加え、大地に関わる精霊に干渉する術を組んで駆け出した。背を押される感覚だけでなく、地面からの蹴り返しが大きくなって一歩でより長く前へ飛び出る。今度は先ほどよりも速い。
これなら逃げ切れるに違いない。
視界をよぎる木々の影のエッジはぼやけて後ろへ流れてゆく。ここまで速く走るのは初めてかもしれない。そんな事を考えて走ってゆくと、少し開けた場所へ出てしまう。
戸惑った一瞬……周囲三方を黒ずくめに囲まれていた。
先回りを、されたらしい。まっすぐ走ってきていたつもりだったのに──。
足は止めざるを得ない。ざりっと土が鳴った。ユリシスは周囲の三者を睨む。逃げ道はどうにも見当たらない。
「……何……一体、何なのよ……」
疑問ではない。答えなど期待していない。言葉とは異なり、思考はこの状況を打開する手を必死で考えていた。
そろりとユリシスがポケットに右手を突っ込んだ時、左手側の少年が動いた。次の瞬間には少年はユリシスの背後にいて、ユリシスの手首を固く握り込んでいた。
ポケットから無理やり引っ張り出された右手から、ポトリと紺呪石が落ちた。ギュウっと掴まれた手首、指はカクカクとしか動かせない。
痛みに眉をしかめ、解こうと左手を伸ばそうとしたが、そちらもすぐに押さえ込まれた。
動きがずっと速く、力が強い……。
背後の黒ずくめの少年は、頭一つ分高い所から冷たい目でユリシスを見下ろしている。
ユリシスはぐっと奥歯を噛んだ。
気持ち悪い。生温かい人の感触がユリシスの自由を奪う。
残りの二人がユリシスの前に立つ。そのどちらの瞳も冷たい。
「……何、これ……」
初めて、恐怖が押し寄せてくる。抵抗する手段はもう、ない。
何に抵抗するのか。何から逃げるのか。
何故、こんな目にあうのか。何でこんなに物事が静かに流れてゆくのか。静かすぎて頭がいたい。
──何……何? 一体、何なの??
疑問符だけが浮かんでは消える。
状況は何も答えをユリシスに示そうとしない。誰も口を開かない。
そうして、黒ずくめの中の年長者がクイっと指を動かし、少年達に撤収を指示する。ユリシスは掴まれている両手が触れる、少年の手の感触が気持ち悪くて気持ち悪くて、顔をしかめていた。
こんな、理由もなく追っかけてきて冷たい目をするヤツの手がこんなに温かいなんて、気持ち悪すぎる。
逃げようにも、両手が開放されなければまともな術なんて打てない。手を使わずに発動させられる術──術というよりも魔力頼みの力技はいくつかあるが、そんなのはこの目の前の三人の前ではムダに消耗するだけのような気がする。そういう術はほとんど、変化に乏しく読まれやすい上、たいした威力や効力を持たない。
今は、ジタバタすべきではない。無駄な力を使うべきじゃない。冷静さを失うわけにはいかない。
……あとでチャンスを見つけて、その時に……。
その──瞬間、大気のよどみが吹き飛んだ。
先ほどの断崖に居た時よりも激しい風が吹き抜けた。いや、吹き荒れる。
ゴウッと、地面さえ巻き上げてゆく巨大な竜巻が唐突に発生したのだ。
黒ずくめ三人を軽く飲み込む竜巻が、地面を、周囲の木々を巻き込んで大空へ放り投げて行く。ごうごうと凄まじいその風の塊は唸りを上げる。
あっという間に土煙、砂煙に阻まれて視界はきかなくなった。ユリシスは、うっと息を詰め、体を屈めただけだった。
不思議な事に、その竜巻の中にあってユリシスは無風地帯に居た。術の中心であった事もあるが、ユリシスの周囲にのみ結界がある。青白い膜が、時折澄んだ音をたてている。反射した太陽の光が膜の表面をするりと滑っていた。
──この竜巻は……この結果も、魔術によるものだ。でも、誰が?
掴まれていた腕の力が緩んだ気がしてちらりと背後を振り返ったユリシスは、出しかけた悲鳴を飲んだ。
ユリシスの両腕を掴んだままの、主のない肘から先の腕がぶら下がっていた。ユリシスのものではない、そのちぎれた肘からは、ポタポタと血が落ちていた。
黒ずくめの三人は竜巻の次の瞬間には吹き飛ばされている。ユリシスの居た空間だけが結界──これもユリシスが作ったものではない──で覆われた。ユリシスを押さえていた少年の両腕は張られた結界に両断されてしまい、少年自身は竜巻に巻き込まれた。
特定魔術を遮断する結界は、使用者自身が身を守る為に張る事が多い。対象となる魔術を把握している必要もある。
誰かが、ユリシスを守る為に竜巻を起こした事になる。
結界の外では、吹き上がる風の音がうなっている。静かな内側で、ユリシスは薄く開いていた口をぎゅっと閉じた。
密着していた生温かい少年の両腕の重みが、ずっしりと肩にすり寄ってきたように感じたのだ。
──漂う血の臭いが濃い。
触れる恐怖を打ち払い、慌てて少年の両腕を引き剥がした。
風がやみ、舞い上がっていた木々の枝や土砂、三人の黒づくめが落ちてきた。二人は受け身を取ったが、一人はそのまま地面に激突した。
三人のうち、両腕をなくして血まみれになった少年は失神していた。少年の周囲に血溜まりが生まれつつある。
ユリシスは視界がかすんだような気がして、二、三度瞬き、小さく首を振った。
いろんな事が何の説明もなく起こって、どんどん進んでゆく。頭がついてゆかない。
わかるのは……いま発生した竜巻が魔術によるもので、かつ、ユリシスが発動させたものではないこと。また、ユリシスが気付いた瞬間には発動していた……つまり、この魔術を放った者の魔力波動と術の発動がほぼ同時であった事。
ユリシス自身、こんな“風”を瞬間でなんて呼べない。例え古代ルーン魔術を使おうとも。
この竜巻という強力な魔術をほとんど瞬間で放てるほどの、とんでもなく強力な魔術師がこの近くに──居る。
周囲を、ユリシスは見渡した。
木々に囲まれてはいるが、そこはポカンと開けた場所。その中心にユリシス、取り巻くように黒ずくめ三人はバラバラに十歩間隔で離れたところにうずくまっている。
──他に誰も……。
サァァと風が、穏やかで自然の、森の静かな風が吹いて、ユリシスの黒髪を揺らす。呼ばれるようにユリシスは顔を上げた。
風を割って青空からゆっくりと、降りてくる影がある。
周囲の空気が……変わる。澄んでゆく。吸い込む空気が柔らかい。
音もなくその影はユリシスの真横に降り立った。
揺れるローブの波打つ様子さえ、計算されつくしたように美しい。
地を鳴らす音に見やれば、黒ずくめの内の一人、リーダーらしき年長者が立ち上がり、構えていた。ユリシスに対した時とは全く異なり、油断なくキリキリと集中を高めている。
残りの少年が失神して動かない少年の傍らに駆け寄っていた。
ユリシスは視線を隣に降り立った人物に向け、見上げる。
薄いクリーム色に近い、金色の髪。整っている顔立ちが、眼鏡で隠されてしまっている。その奥に深いブルーの瞳があり、黒ずくめのリーダーをひたりと見ている。
敵が黒ずくめなら、この人は青だ。
青いローブを身に纏う青年。青年はゆっくりと口を開く。表情は穏やかで優しげなまま──。
「私は貴方達の正体に見当がついている。貴方達も私の事は知っているだろう。さっさと消える事を勧める。私が、消して差し上げても、かまわないが……」
脅しというにはあまりに遠い、静かな相貌で、青年は黒ずくめを睨んだ。穏やかで柔らかい物腰のままで。
青年の周囲の空気が波打ちローブが揺れた。静かな魔力波動は、風と共鳴して澄んだ空気を誘う。