(040)【1】まどろみの心地よさ (5)
(5)
青年はゼクスと名乗った。
出会った日から三日間、ゼクスは都に留まっていた。
ユリシスが、自分は予備校生で魔術師になるべく頑張っていると告げると、ゼクスは魔術の話はもちろん、都の外の話や諸外国の話、旅先での話を色々と聞かせてくれた。
魔術機関オルファースに用があったようで、それを済ませるとゼクスはさっさと都を出て行ってしまった。フルネームを聞いたはずだが、今はもう覚えていない。
たったの三日間の事。その程度の印象なのかもしれない。幼い頃の記憶は、薄れてしまうものなのかもしれない。
命の恩人とはいえ、ユリシスにとっては目の前を通り過ぎていく旅人の一人にすぎない。『きのこ亭』で働くユリシスは、毎日、新しい顔に出会い、別れる。それが当たり前だった。
だが、他の旅人と異なり、確かに記憶している事はある。
彼の持つ雰囲気は、普通の旅人達とは異なって感じられ、不思議で忘れられない。最初に流れてきた気配──魔術師が周囲の精霊に干渉した時に浄化される大気の肌触り、香り……。
魔術師に対する憧れは、強くなった。
同時に、魔術というものが命さえ簡単に奪うことができる力なのだと、ユリシスは実感を伴って知る事になった。
ゼクスが都にいた間、可能な限り彼の周りをチョロチョロ付いて回った。実践される魔術を見たかったのだ。
ゼクスは日に数時間、森へ出かけて鬼獣を狩っていた。皮なり角なり、指定された冒険者らの組合に持って行けば報酬を貰える。次の旅路の資金だったのだろう。そこにも、ユリシスは付いて行った。ゼクスは特段とがめる事もなく、森の中に居れば森での心得、鬼獣に出会うとその時の対処法を、短い時間の内に沢山教えてくれた。
ゼクスが都を出た翌日、ユリシスは懲りずに森を訪れた。目を、耳をそばだて、土に残された足跡や糞、木の幹や草に擦れた跡などないかを確認しながら、足を進める。安全な場所を選んで歩く。教えられた事の多くが役に立った。
一人で森に入って、真っ先に自分を襲った鬼獣がどうなったのかを見に行く事にした。大体の場所なら、覚えている。
──骨だけが転がっていた。
周りには様々な大きさ、形の足跡があった。
ゾッとして、そうしながらも、ユリシスはゼクスの使った魔術を思い起こしながら、魔術の正しい放ち方を知り得、喜んでいたのだ。
百聞は一見に如かず。
おびえていて何も考えられないでいたが、肌に感じた魔力波動はわかる。あの柔らかな気配の流れ、周囲の空気が変わる感覚。
書物で読んで覚えたものだが、自分の魔力の放出の仕方がいかに荒いものだったかを思い知った。あれでは、しょっちゅう失敗して当然だ。
ゼクスが鬼獣を狩る時、主に剣を使っていたが、時には魔術も交えていた。傍からから見て、ゼクスの戦い方はまだるっこしい。
魔術を使えば一撃なのに、わざわざ剣を使う──自己流だと言っていたから、彼も訓練中なのかもしれない。お手本にしたい魔術の使い方を、沢山は見れなかった。それでも、見る前と後では、はっきりと自覚できた。魔術の使い方が変わった。正しいものを知った。
これ以降、ユリシスの魔術の不安定さはほとんどなくなった。失敗する事も、暴走する事も、日を追う毎に減っていった。
師を持たずに魔術を得たユリシスにも、その道を示す者が現れていた。それがゼクス。
ゼクスにも、こっそりと魔術を使える事は言えていない。にも関わらず、ゼクスは時折、魔術を使うコツを丁寧に教えてくれたりもした。ユリシスも何も言わないまま、その教えを頭に叩き込んだのだった。
以降、ゼクスには会えていない。
まだ会えない方がいいと、密かに思っている。
彼が去った日も、さよならは言えなかった。前日の「またね」が、ゼクスとの最後の会話だ。
ゼクスの泊まっていた宿に行くと、そこの主人が手紙を預かってくれていた。
少し陽にやけて薄茶けた紙。二つ折りにされていた。
『ユリシスへ
元気で。
めげずにがんばれ。
ゼクス』
その手紙はユリシスの数少ない私物の中に加えられ、今も机の引き出しに眠る。第九級に受かったら、見習いを終えた第五級の魔術師になれたら、そうしたら、会える気がする。
──会いたい気がする。
それから二月に一度は鬼獣とかちあうようになったが、おびえる事はなかった。
どう対処したら良いのかわかったし、敵いそうにないなら、さっさと上空に逃げてしまえばいい。この辺りに空を飛ぶ種類の鬼獣はいない。その手の連中は海や渓谷、険しい山々に生息する。
幸い、魔術も安定して望めば望むだけ、思う通りに使えるようになってきていた。
ユリシスが出くわす鬼獣達はさして頭の良くない、冷静になってみれば間抜けな連中が多かった。食い気があって、あとは突進してくるばかり。慣れれば怖くなかった。
抵抗する手段と方法がわかっていれば、どうという事はない。ユリシスはそう感じた。
鬼獣の群れとかちあった時もあったが──当人は知らぬことだが、既に第五級魔術師に相当する力を身に付けていたのだ──、鬼獣の大半を屠り、残りが逃げ出していくのを見送った。
古代ルーン魔術の存在はこの頃知った。
十四になる年だった。
森では敵なし。鬼獣もあまり襲ってこなくなった。鬼獣達は、その無い頭で思い知り、本能に刻み込んだ、自分達よりも恐ろしい更に強力な『鬼獣』がこの森に住み着いたのだと。
十五になる頃には古代ルーン魔術の基本をマスターし、十六には応用を知り、次々と古代ルーン魔術を復活させ、興していった。
──十七歳。
最近はあまり術を使わず、読み残していた書物をかたっぱしから当たっている。淡々と、第九級魔術師資格の合格証がもらえる日を待っていた。数年前から資格取得試験で、一問も間違える事はなくなっていたが、合格証を与えられる事はなかった。
そんな中、鬼獣達の習性『食い気』とは全く異なる『殺気』というものに出会ってしまった。
長年お世話になっている『きのこ亭』女将メルに、あまりに試験に受からないのを見かねられ、身の振り方を考えるよう言われた。
魔術師になることしか考えて来なかったのに、一体何を見直せばいいのか。ふてるように都の外へ出て──森へは行かず、森周辺の洞へと降りた。
そこの奥は、聖堂のような部屋に通じていた。
七歳のエナ姫と出会い、その誘拐犯に追われる事になった。誘拐犯達の中には魔術師がいて、そいつの放った魔術の恐ろしかった事……。
相手は鬼獣と違って人だった。しかも魔術を撃ってくる魔術師。初めて魔術の的にされ、しかも殺意のうねる魔力の塊……驚愕し、震えた。どう対処していいのか、わからない……。
間抜けだったとはいえ、鬼獣達とやりあった経験が少しはある。その慣れが功を奏したのか、その魔術も何とか払いのけた。
逃れた先の森で、今度は『殺意のない魔術』に出会う。
恐怖などの余計な感情がなければ落ち着いて術も撃てる。
その殺意のない魔術師と自分の力は、近いと感じた。均衡している。逃れる事なら、きっと出来る。
負けるという恐怖も、勝てないという不安もなかった。怖かったのは、資格の無い自分が魔術を使っている事。バレてしまう事。
時に鬼獣相手に術を振るう。頭のよろしくない連中を相手どっていると、動きもパターンで把握できるし、正直、命のやり取りであるというのにも関わらず、飽いて、いたのだ。
自分の魔術は一体どの位のレベルに達しているのか。鬼獣相手に使ってみた所でよくわからない。
魔術師の力は、魔術師同士でなければわからない。
──ユリシスは貪欲に魔術を求めた。
オルファースが第九級魔術師の資格を与えなければ与えない程、一層ユリシスは魔術を求めたのだ。手に入らないもの程、欲しくなる。欲望に似た夢。既に、すねてひねくれて、ひどく荒んだ、しかし純粋な祈りに近い、願い。
自分は確かに術を撃てているのだろうかと疑う日もあった。資格をもらえてないから、実は使えていなくて、自分は夢の中にでもいるか、妄想か幻でも見ているのかもしれない。しかし、鬼獣を倒している、空も飛べる。現実は、どっちだ……。
──わからない。
比較があって初めて、自分の立っている位置もわかるというもの。魔術師の力は、魔術師同士でなければわからない。
たった一人で魔術を放ってみても、己の力の程など、はかりようがない。
それがあの日、自分の中に確かな手ごたえを得る事が出来た。
殺意なく魔術を放つ魔術師と、戯れのように戦った時、自分は魔術を使えるのだと確信出来た。
──正直、お礼を言いたい。
正体が、資格を持っていないことがバレるので、そんな事は出来ない。でも、その魔術師がどんな人なのか知りたいと思った。
その魔術師は手がかりを残してくれた。
魔術師は名乗った。
──アルフィード、と。
階段を降りるしたがって、食器のかちあう音や、人の話し声や笑い声、同僚達の注文を復唱する声がはっきりと聞こえ始める。
階段には明かりがないから少し暗い。廊下に出ると壁にランプが吊るしてあり明るい。それを目指して降りる。
廊下に出てしまう直前、頭だけを出して覗き込み、女将がいない事を確認した。
アルフィードという魔術師はどの位のレベルの人なのだろうか?
第九級? 第八級? 一人で魔術を使うのだから第五級魔術師……?
──ユリシスは、あまりにも、愚かで悲しい程、自分の力を知らない。
アルフィードと力の差をあまり感じなかった。それはわかっている。
自分は、今、第何級の魔術師と同じくらいの力を、手に入れられているのだろう……?
「姫様」
声は唐突だった。
ヒルド国、王都ヒルディアムの中心にそびえる白亜の王城、本殿を囲むように十二本の尖塔は四本ずつ三重の円を描いて配置されている。その一番内側、本殿により近い尖塔の一つに王女達の私室がある。最上階の部屋がマナディア姉姫のものだ。
ユリシスが以前助けたエナ姫の姉、二十四歳のマナ姫。彼女は自室のバルコニーからポツポツと明かりの灯る城下町を、表情無く眺めていた。
振り返った室内に、怪しい黒い影が凝るように佇んでいる。これの正体は知ってる。忠実な手足。影は片膝をつき、頭を垂れている。
マナ姫は微かに頷く。
「ゲドか」
「はい」
「なに?」
「あちらが動き始めているようです。今朝方から城内に気配がありません。散開し、活動を始めているものと思われます」
「……気付かれたか、それとも……」
「──」
息を潜ませ、全身黒装束のゲドは、主の言葉を待った。
「何としても先に、彼女を連れてきなさい。さもなくば、あちらの手に渡る前に消しなさい──良いですね」
「御意」
ゲドは声と共に、現れた時と同様、音もなく消えた。
白亜の城は魔術の仕掛けが数多く施されている。王族周辺には警備に関する魔術が敷かれている。
マナ姫の部屋もそうだ、夜なのに部屋そのものが光を発しているかのように明るい。
昼間は結い上げている髪を、夕食の後におろした。
かすかに波打つ紅い豊かな髪は踝に届く程。
バルコニーから室内に入り、天蓋付きの寝台に腰を降ろした。
室内だけでなく寝台にも染みる甘い香が眠気を誘うが、そんなもの、とうに効かない。
真っ白いシーツに紅い髪がサラサラと広がった。
一人、呟く。
「私とて──……何も好き好んでこのような事……」
表情の無かった美しい横顔に、憂いが落ちた。
落とすべき涙は、ずいぶんと昔に枯れ果てた。
──ただ、紅い、紅い髪が、まるで血のように広がっていた。