(031)【3】古代ルーン(4)
(4)
巨大だった魔力波動は次第に小さくなり、今にも消えてしまいそうだ。
ヤツは、『青白い手の平のような、魔術の火を食う術』と『火を消す雪のような白い光の球体の術』、そしてこの『癒しの力をたゆたわせる薄桃色の霧の術』という三段構えの魔術で、魔力を使い果たしつつあるようだ。
始め、太い光の筋が空を貫いた。それが三分化して展開した凄まじい古代ルーン魔術。現代ならば秘術と呼んでも的外れとは言えないだろう。
アルフィードの周囲で、表面を焦がしたながらもまだかろうじて生きていた木々が少しずつ、確かに蘇りつつある。木々も生き物だ。生物である限り、魔術師で言うところの魔力にあたる力を、内側に宿している。木の生命力は薄桃色の癒しの魔術に導かれ、力を充足させて本体を回復していく。
癒しの術は、魔術の中でも酷く魔力を食う、燃費の悪い術だ。それをこの森全体にかけているヤツの魔力の膨大さ……アルフィードは感心しながらも、冷や汗を感じた。
術のツケはきちんと術者にかえる。
森の中心で魔力をほとばしらせていたヤツは、限界以上の力を使っている。既に、その魔力波動は途切れがちになっている。今や、魔力波動のみならず、自身の生命維持域さえ、生きるのに最低限必要な生命力をも魔力に変換して、術に投じている。
──人としての命を保つのには十分なエネルギーを、ヤツはちゃんと残しているのか?
アルフィードはゴクリと息を飲み込んだ。
「……死ぬ気かよ……」
焦った。死なれてはかなわない。負けた借りを返さねばならないというのに。
眉をひそめ、目を細めると、眦の炎を型どった刺青も歪んだ。アルフィードは下唇を噛む。
「森……都ごときの為に、死ぬんじゃねーよ……!」
多少なりとも愛着のあった都を守りたいと、せっせと魔術を空で放ち続けていたアルフィードだが、今、言葉にする思いは異なった。都との共倒れさえ考えていたというのに、それも消え去った。
──……森など、都などどうでもいい。是が否でも、ヤツに会ってみたい。
もう一度やりあって勝てる自信は、負けない自信は、この消火の魔術を見せつけられる前程には、無い。だが、初めて心底、本気でやり合えるかもしれない、力の限りをぶつけても確かな手ごたえをくれそうなヤツ──、そんなヤツを見つけたんだ。
「死ぬなよ……!」
濃い霧の中、アルフィードは駆けた。
都の人々が喜び、公園周辺、その上空、さらにオルファースで懸命に働き続けていた魔術師達も安堵して、しばし休息とばかりにお互い言葉を交わしいていた頃。
ギルバートやネオ、シャリーなど、他の上級魔術師達が再び指示を仰ぐ為、オルファース上空に居るオルファース総監デリータの元に飛び、向かっていた頃。
薄桃色の治癒の霧が瀕死状態だった木々の死を先延ばしにし、少しでも残す為にその力を振るっていた頃。
その時間は丁度、人々にとって空白の時間だった。
──……火は消えたぞ、消えたんだ! さぁ、何をする? そうだ、片付けなきゃな。
人々は笑みを湛える。
それぞれがそれぞれの感情に忙しく、余裕が無かった。時間の経過を感じない頃合い。
──森の中央にあった魔力波動は、その放出を停止した。
術を終了させたのだ。
あとは、術に込められた魔力を使い果たすまで、薄桃色の霧は森を癒すだろう。人々の心の隙間を縫うように、術への魔力供給は唐突に止んだ。
もちろんただ一人、隙は無い。
森の中央へ急いでいたアルフィードは、更に足を速めた。視界が悪い中、左右を見回す。精霊の目も使うが、薄桃色の霧の魔術に集められた大量の精霊達が遮って、簡単には見通せない。
術を止め、魔力波動の放出をやめたという事から、追跡は難しくなった。
生き物は生きる為に微量ながら生命エネルギーを、魔力波動を発している。それは術を描く時とは比べ物にならない程に小さい。それを目印に追う事はまず不可能だ。術を使うなり、魔力に動きがなければ、小さな部屋でどこに隠れているかを探す程度の目印にしかならない。
周囲の薄桃色の霧に惑わされそうになりながらも、アルフィードは走り、そして、例の魔力波動の中心となっていた場所に、辿り着いた……。
アルフィードはただ立ち尽くす。
気分は、とても微妙だ。
「…………」
ヤツはいない。
既に、どこかへ立ち去ったようだ。
魔力を使い果たし、体力さえ僅かも残っていなかったはずだ。賞賛されるべき事をしたヤツは、重い体を懸命に引きずった事だろう、ここから既に立ち去っていたのだ。
アルフィードの気分はとても微妙だ。
辺りをさっと見渡す。
術をかけたヤツがいた辺り、直径で十歩程度の場所。焦げた森の中で唯一、芝を残していた。ヤツ自身が己にかけた防炎魔術の影響で、ヤツの立っていた地面とその緑は守られていた。ヤツが、確かにそこにいた証だ。
火が消えた事で辺りは真っ暗かと言えば、そうでもない。薄桃色の霧が未だ、うっすらと光を発して漂っている。霧は火のように激しくはないが、柔らかく辺りを明るく照らす。
時刻はそろそろ九時半……。
ほんの数時間に過ぎなかった出来事。数時間で終わるよう火を収めたヤツ……。
芝へと歩みを寄せたアルフィードはふと、発見する。
丈のある芝の上には当然、はっきりした足跡というべきものは無い。
しかし──。
時にぬかるんだ場所を走ってきたアルフィードの後ろには、はっきりと彼自身の足跡が大地を沈めるように残っている。それと同じように、芝からある方向へ、ヤツがここを立ち去る際に落としたであろう足跡が、焦げ、水浸しになった大地にしっかりと刻印されていたのである。
さらに間近で確かめる為、芝にあがり、近寄る。ほんの数分前まで、ヤツはここで術を書き続けていたはずだ。ヤツの見た風景。
全周囲が、焦げている。
だが、木々は原型と止めており、その薄桃色の霧が少しずつ少しずつ癒している。さすがに全体黒焦げになった木は霧も素通りしていくが、ちらほらと本来の樹皮の残った、瀕死の木には薄桃色の霧が集まって濃くなっている。この魔術が生かしている間にオルファースの魔術師達が治していくだろう。間に合えば、その木は死にはしないだろう。
「…………」
アルフィードはしばらくそれを眺めたが、少し歩を進め、膝を折ってしゃがみ、泥濘の中、足跡の上に手をかざした。ものさしのつもりだが、そんな事をせずともわかる。
「……小さい。──子供か、あるいは…………女」
何と言えばいい、実に微妙なのだ。
ヤツに会えなかった事が残念だった。
会えたとして消耗しきったヤツを見つけるのは嫌な気分になりそうで、少しホッとしていたりもする。自分を負かすヤツは強くなくてはならない、堂々と立っていなくてはならない──それはアルフィードの意地である。
足跡を見つけて、ヤツへの手がかりを得られてうれしい。
だが、ヤツ、自分を負かした古代ルーン魔術の使い手は、子供か女かもしれないという小さな足をしている。自分は、女子供に負けたのかという腹立ち。
すこぶる曖昧な、微妙な気分を抱えたまま、アルフィードはすっくと立ち上がった。
さらさらと風の術を記述し、すぐ辺りに放った。
アルフィードを中心に巻き起こった風は、円を描きながら地面の上を吹き離れる。芝の周囲の泥の地面はならされ、アルフィードのものも含め、全ての足跡が消された。
「ヤツへの手がかりは、俺だけが持っていればいい」
アルフィードの中で、歯がゆい微妙な気分が呼び寄せたのは、奇妙な独占欲だった。
火を消した凄まじい魔術の使い手に興味を示したのはアルフィードだけではなかったが、彼らがそこを訪れた時、手がかりはなかった。
オルファース総監デリータもそうして肩を落とした一人だった。だがすぐに気持ちを切り替えると、その古代ルーン魔術の力によって生き延びた木々を、一本一本癒すよう指示を出した。
薄桃色の霧は全て消え去り、第三級の魔術師がその場で紺呪石を作り出し、それを持たされた第九級、及び第八級の見習い魔術師達が走りまわった。それらの石に明かりを灯し、森の至るところへと即席紺呪灯を配置し、明かりを確保したのだ。
夜が深まり、緊張で高ぶっていた都の人々の心もゆっくりと落ち着きを取り戻していっても、彼らが寝静まった夜中でも、明けて朝陽が森に差込み始めても、公園周辺の魔術師達は寝ずに、後処理に駆け回っていた。
そうして、その一日は終わる。
並々ならぬ魔術によって国民公園の森が、都が救われた日……。
──それら一部始終を眺め見ていた黒い存在には、誰も気付かずに……。