(022)【2】愚かなる(1)
(1)
ネオは独りで歩いていた。
「ネオ!」
声に振り返れば、腰まである銀色の髪を左右に揺らしながらシャリーが駆け寄ってくるところだった。
「帰りますの?」
「……うん。もう用事、済んだからね」
夕暮れが少しづつ空を朱色に染めていく時分、シャリーは今朝アルフィードが居座っていたオルファースの正門を出た辺りでネオを見つけ、声をかけたのだ。と、同時に、自分の周り居た六名ほど、いわゆる取り巻き魔術師に手を振って先に帰る旨を伝える。彼らはちらちらとお互い顔を見合わせた後、シャリーに笑顔を作って見せ、去って行った。
「私も一緒によろしい?」
「……いいの? 彼らは?」
「あんまり用ありませんもの。私は話に頷いているばかりで」
「ふ~ん……」
「そうそう、ネオ。国民公園に今朝からサーカス団が来ているそうよ」
「サーカス?」
二人はオルファースの藤棚の下を進み、夕日に染まるレンガ敷の並木道を歩いた。舗装された路面のレンガは砂利と一緒に踏むとくすぐったい音がする。
「彼らに聞いたの?」
「ええ。いろいろ教えてくれますの。私はこういう事には疎いから、助かりますけど。ネオ、行きませんこと?」
この日は国民的休日である。
七日に一度の休みの日、この日は『看板娘』という仕事も休みのユリシスは、第九級資格取得試験を受ける為、オルファースの予備校に通っている日であり、魔術を使って商売をしてもかまわないという第五級以上の資格を持っているネオやシャリーら正魔術師は、普段は仕事で忙しい事から、休日を利用して研究会へ参加している日でもある。
世間的には休日で、サーカス団の興行が来ていたのである。
「彼らに誘われたんじゃないの? なのに僕と?」
「……ネオはこういうの、キライ?」
「別にそういうワケじゃあないんだけど……」
「ネオと行きたいの。行きましょう?」
──そんな笑顔を向けられて、断れるわけないじゃないか。
ネオは苦笑する。
「わかった、行こう」
ヒルド国の王都ヒルディアムの中心には巨大な王城がある。その左右にはゼヴィテクス大教会とオルファース魔術機関が端然と居て、正面には都の人々が憩う国民公園があった。
国民公園の名物は、都で最も高い王城を囲む十二尖塔に次ぐ高さを誇る大時計塔。その下の広場に、巨大なテントが組まれていた。
色鮮やかな布張り、そこにコミカルな絵が、雑ではない程度に大胆に描かれ『ようこそ』の文字も見える。見ているだけでウキウキしてくる。
いつもは閑静な公園が、今日ばかりはお子さんからご老人までにこにことやって来ていた。沢山の白い鳩がククルと鳴いて、また子供らに追い回されては羽音を立て、公園内の木々に避難する。
そのサーカスの開幕はまだらしく、テントの前ではアコーディオンと太鼓の軽快な音楽にのせ、赤色の丸っ鼻を着けた縞々服のピエロが、人寄せにアクロバットや手品を披露し、今晩のサーカスではもっとスゴイ事をしますよ、と宣伝に余念がない。口上のはじまりはこう、『さぁさぁお立会い……』──。
そうして、その文句に人がワラワラと集まってくるのだ。
人寄せの余興で出来た沢山の人だかりの後ろの方で、ぴょんぴょん飛び跳ね、着地するとシャリーは唇を噛んだ。
「全然見えませんわ!」
シャリーらもその余興を見ようとしたが、人の頭がずっと続いて隙間も無い。音ばかりが聞こえ、微塵も見えやしない。人の後頭部を見に来たのではないというのに。
やんややんやと前方では拍手や感嘆の声が上がっている。誰かには見えているというのに、自分には見えない。より見たいという欲求は、独占欲にも似て、焦りを呼んだ。
「ね、ネオ、空から見ちゃいましょうか?」
シャリーが冗談半分、本気半分で“可愛らしく”人差し指を空に向けて言った言葉に、ネオは苦笑交じりで首を小さく横に振った。駄目、というのである。シャリーはこの応えを予想していたので、軽く肩をすくめて、行き場を無くした手で銀色の髪をくるっと弄った。
ネオは第一級の魔術師の癖に魔術を使いたがらない──とシャリーは常々思っている。自分の為であるとなおさら使おうとしない。放っておくと十日でも二十日でも使わずに過ごしている。まるで、魔術なんてなくてもよかった、そう言わんばかりに。
──ネオったら、なんで魔術師になったのかしら。どうやって魔術の練習するのかしら。
シャリーは小さな子供のように頬をぷぅっと膨らませた。
ネオが『たいした事でもない、まして自分の為に魔術を使う』という事をむしろ嫌っていると、シャリーは知っていたから、しぶしぶ頷く。同時に疑念は尽きないのだが。
「でも、全然見えませんわ……!」
「どうせ、後で中に入って見るんだろう? だったら今見える必要はないんじゃないの?」
「駄目ですわ! 中でするものとは違う事をしているかもしれないじゃありませんの! 今も、見たいの!」
シャリーがだだをこねた時、一際歓声が上がった。
これはシャリーにも見えた。
空に先に火の付いた棒がいくつもぽんぽんとまわっている。宙に浮いているだけで三本ありそうだ。何をしているか想像はついた。火のついた棒をお手玉のようにまわす、ジャグリングだ。しかし、手元も見たい、どんな顔で演じているのだろう、そのパフォーマンスは全部見たい。
シャリーが我慢ならず、そっと魔術を書こうとする。ネオが押しとどめようとした時、シャリーの腕をつかんだのは別の手だった。
「すぐそこの木に登ったら見えるよ。私達もそこから見てるから、一緒に見る?」
「──見る!」
その誘いに、シャリーは一も二も無く飛びついて、指差されたすぐそばの大きな木へ走った。
シャリーが去った後で、ネオは改めてシャリーを止めた人を見た。
「こんにちは、よく会うね」
「こんちは。“迷子ちゃん”はちゃんとお家に送ってもらえたかな?」
ニコリと笑って、黒い髪が揺れる。特徴的な瞳の色をした少女。
ネオはその名をきちんと覚えている。ユリシスというのだ。
「サーカス、見るの?」
「シャリーとね、見ようかって。ユリシスも誰かと来ているの?」
「うん。小さい子、二人連れてる。近所の子だよ」
あっち、と言ってユリシスはネオを案内して、シャリーも上った樹の根元へ歩いた。
人だかりから十歩も離れていない、広場の淵に沿って立ち並ぶ大きめの樹の一本。
ネオがその樹を見上げると、二階より少し高い辺りに太い枝が二本あった。一本に男の子が二人、もう一本には既にシャリーが腰を下ろし、足を下に垂らしていた。
シャリーは膝よりかなり高い長さの──つまり短い──スカートをはいているが、その下には厚手のクリーム地にブルーラインの入ったブーツスパッツを履いている。貴族の娘はそのような、一般的に旅のアイテムとされる服を着用しないが、シャリーは魔術師だ。いつ空を舞うとも知れないから、中が見えても大丈夫なものを着用している。
ブーツスパッツはブーツとズボンが一体になったようなもの。夏場はかなり蒸れて暑い。魔術師はブーツに術をかけて熱を逃がす事が出来るので、欠点のある旅装用品であったにも関わらず、スカートをはきたい女魔術師必須のアイテムとして流行っている。
ユリシスは、特価で買った男物のズボンの尻を大きく縫い直し、裾を詰めたものを着ている。定食屋の看板娘ならスカートを履きたいところだが、仕事中も普段も走りまわっている事が多いユリシスは、裾がばさばさ跳ねたり、気を遣わないといけないのが鬱陶しくて、結局スカートをはかなくなった。
ユリシスが一緒に来たという子供二人はよく似ていのるで、兄弟か親類だろうとネオは見当をつけた。一人はエナ姫と同じ位の年だろう。その兄弟は食い入るように興行の輪の中心を見ている。と思うと、輪から歓声が上がると同時に、危なげな様子もなく、樹の上ながら器用に跳び上がって手を叩いて喜んだ。
ネオが飽きれながらも笑ってしまうのは、隣の枝に腰掛けているシャリーも似たような反応をしているからだ。
「あ~ら、あのようなものをご覧になって、一体何が楽しいのでしょうかしらね」
ふと、背後から声がして振り返る。
嫌味に満ちた声は、明らかにネオとユリシスにかけられていた。
余興を見入っている樹上の三人には聞こえなかったようだ。
「あのような児戯に手を叩いて喜ぶ第二級の魔術師がいるなど、恥さらしも良いところですわ」
この場合の第二級の魔術師とは、シャリーの事を指している。
振り返って見ると、先頭に少女、その後ろに少年が二人居た。いかにも貴族出身のゴージャスな少女と、冴えない魔術師見習い風の少年二人だ。
ネオやシャリーは一見、軽装。
ごく普通の革のズボンに厚手のブーツ、鮮やかで丈の長い藍色の貫頭衣──要所要所に渋い縁取りがあり、そこには細かな文様が刺繍されている──を着たネオ。
薄手の桃色をした丈の短いのワンピースを着たシャリー。どちらの生地も縫製も一級品だが、飾り気の少ない格好なだ。
一方、嫌味たっぷりに現れたゴージャスな少女は、目が痛くなる程の金髪で、それは緩やかにウェーブがかかっていて、光をあちこちに反射している。長い睫毛の下に大きな目がしっかりと開かれ、青い瞳は澄んだ海のようで美しい。夕日に染まってもなお青は青く他者を受け入れない。瞬きの回数が多く、睫毛がばちんばちんと揺れるのが、多少目障りに映る。唇はぷるんと厚い。
上に居るシャリーと同じように、ブーツスパッツがスカートのすそから覗いている。そのブーツスパッツはダークブルーに金のラインが入っている。膝丈のスカートにはおおぶりの白いレースが沢山使われており、全身が花のよう。襟元には当然のように金のアクセサリが目をひいて、それらにはほんのり青色の光を放つ小さな石が埋め込まれている。いかにも、上級貴族の、ゴージャスな女魔術師だった。
ユリシスは、本人の外見も衣服も豪華絢爛な少女に目を奪われてしまった。エナ姫のパジャマにも感心したユリシスなので、見慣れない貴族の外出用の衣服を目にして、当然の反応と言えたのだが、紫紺色の瞳をまん丸にした。
──……派手だ……。
「サーカスの余興を見て、喜ぶのが恥?」
隣のネオが、金ぴか少女に無表情で言葉を返していた。
ユリシスはその声音にはっと我に返る。
穏やかな物腰のネオにしては、棘がある。
ユリシスは普段通りの、紫紺の瞳を隠すようにやや伏せた目つきに戻すと、ネオをこっそりと見た。
出会った時、その直前に魔術を使っていてもばれなかったような、どこか抜けた印象も見受けられるネオだが、ゴージャス少女のあからさまな嫌味な態度には腹をたてたのだろうか。
よく知っているわけではないながら、彼のような性格ならば軽く受け流してしまいそうな気はしていたのだが。ネオの蒼い瞳が、険のある色に見えたのは、ユリシスの思い違いであったか。
ネオは、自覚をしていない。
自分が普段よりも虫の居所が悪いという意識が、無かった。特に何かきっかけがあったわけでもなく、蓄積された何かが彼の中で、不透明感を作り出して無意識下で不機嫌にさせている。イライラしているという自覚も、イライラしている理由も、当人は気付いていない。いつも通り振舞っているつもりなのだ。
少女は「あらやだ」と口元に手を添えてふふっと微笑むと青い目でネオを見上げる。
「そこまでは申してあげておりませんわ、ラヴィル・ネオ・スティンバーグさま」
仕草、立ち居振る舞いから、ユリシスはこの貴族の娘は自分より二つ三つ年上だろうかと思っていた。実際は、ユリシスやシャリーより一つ下の十六歳である。彼女はニッコリと微笑んで、ネオをフルネームで呼んだ。
合図である──『私達は“貴族”なのよ?』という。
貴族達は最低でもファーストネーム、ミドルネーム、ファミリーネームを持つ。
ネオはラヴィル・ネオ・スティンバーグ、シャリーはシャリー・ディア・ボーガルジュ。
カイ・シアーズは、本当の名前がカイジュアッシュ・ウォルフ・ディアミス・シアーズと長く、これを嫌ってカイ・シアーズと名乗っている。名を縮めるなど言語道断とも言える振る舞いだが、代々国の要職をあずかる最上級の家柄の男子である事から、誰も“気付かないふり”をして口を閉ざしているのだ。
また他方、ファーストネーム、ファミリーネームの二つの名を持つのは商人や職人など家業をや技術を継ぐなど商いをする者達。コウ・カムベルト、シュウ・カムベルト、イワン・シグニル……。 ユリシスのような地方出身で村を出てしまった者達は、名と出身地、出身村の名を並べて個人を分けた。ユリシス・ニア・フリューティム、アルフィード・ニア・バンカーブ……フリューティム村のユリシス、バンカーブ村のアルフィードという意味である。彼らは普段から名のみを名乗る。故郷まで明かす必要をいつもいつも持ってはいないからだ。『私は家柄もよくわからない、地方出身者です』と暴露しているにも等しく感じて、名乗るのに抵抗を抱く者もいる。歳を重ねてから土地を出た者ほど、名しか名乗らない。生まれた村で名乗るのに全員が知っている村の名まで言う必要が無かった、その習慣故だ。
「──だったら何を言いたんだい? 君は」
ほんの少しだけ、剣呑とした色を含んだ声だ。金髪の少女の方もそういった気配に全く気付いていない。
「まぁ! 『君』だなんて……ネオさまったら、お忘れになって?
私の名前は──」
「あーっ! リーナ!! あなた、何してるんですの!?」
大声が飛んできて、樹の枝からシャリーがふわりと降りてきた。着地の際に、地面に対して魔力を放出してショックを軽減したようだ。ユリシスは口をほんの少し開いて、またすぐに閉じた。
シャリーの、あまりに自然体で利用される魔術に感心した。
──とても慣れている……。もし、戦ったりすると、どんな風にシャリーは、魔術を使うんだろう。
紫紺の瞳にシャリーの綺麗な銀色の髪を映しながら、ユリシスはそんな事を考えていた。