(002) - (1)
(1)
気候に恵まれた、穏やかな国がある。
名をヒルド国。
緑豊かな大地には、ゆるやかな春の訪れの気配がある。若い緑の芽が、静かにその眠りから目覚めていく。
ヒルド国の都ヒルディアムは、中央に王城を持ち、周囲に城下町を広げている。その周辺には畑が連なり、舗装された街道が町や村へと繋ぐ。
ヒルディアムの人口はゆうに百万人を超える。
穏やかな国の都の賑わいは、朝早くから、そして夜が深まっても続く。
ヒルディアムの中心、王城に隣接して、魔術機関オルファースがある。建物を四つ抱えた巨大な施設は、王城に次ぐ大きさだ。正門から入って少し進んだところ、建物の前に並んだ小さなお知らせ用の掲示板の前で、少女はがっくりと膝をついた。
「……あううぅぅぅ……」
夕日が紅く染みてくるようだった。春が来たといっても、陽が暮れるとまだまだ肌寒い。
目線だけは掲示板の一枚の紙に留めたまま、呟く。
「……八度目も……不合格……」
紙には、受験生全員──百種類の名前と、その横に○、あるいは×が記されていた。その紙の始まりには『魔術師第九級資格取得試験合否発表』と書かれている。つまり、魔術師見習いとして認められるか否かを決定する試験の結果である。
地位年齢性別を問わず、魔術師志願者は一番初めに、年に一度のこの試験を受ける。魔術師になる為の第一歩は、この試験の合格にある。
少女の視線は『ユリシス ×』と書かれた箇所から動かない。こんな時程、自分の名を呪ってやりたくなる。意味などない、腹いせのやり場が無いだけだ。
仕事の休憩時間に訪れていた少女の名は、ユリシス。
十七歳になったばかりの魔術師志願者だった。
結局、陽がすっかり暮れてしまって、辺りが闇に包まれ始める頃──第九級、あるいは第八級の資格を持つ魔術師見習い達が街灯に点々と魔術の明かりを灯して回る時間まで──、ユリシスはそこにいた。
魔力を維持するにぎりこぶし程の石が先端についた棒、紺呪石付きの棒、通称紺呪棒。灯りがともると紺呪灯と呼ばれている。
その紺呪棒は、街の道々に三、四十歩おきで設置されていた。
陽が暮れると、その街に住む魔術師見習いの子供達が何人か集まって、明かりの魔術を紺呪棒にかけてまわるのだ。すなわち紺呪灯。これは、魔術師見習いの修行の一つだった。
魔術機関オルファースは、王に次ぐ権力を与えられた魔術総監を頂点とした、魔術師達の総本山。
魔術のあらゆる事を、魔術機関オルファースは仕切っている。オルファースにその資質を認められない、つまり第九級資格を得られない者の魔術の行使は、一切禁止されていた。
王に次ぐ権力は、魔術、宗教、軍事と三つに均等分配され、その三者の頂点は同格であるとされた。
オルファースは、王城に次ぐ広大な敷地に四つの棟を持っている。
本部はドーム状の屋根を持つ建物にあり、暗くなると魔術機関オルファースに所属する魔術師がドームに明かりを灯す。それはさながら、地上の月。
魔術機関オルファースの片隅に居たユリシスにも、そのドームの明かりは届いた。
憧れの、灯。
ゆらりと立ち上がって見上げた。
四階建ての建物のドーム状の明かりは、敷地内の端っこにいたユリシスにも、よく見えた。
じんわりと滲みそうになる涙をグッと拭うと、掲示板に視線を戻した。
「次は絶対、○にしてやるっ」
めげない。めげてやるもんか!
ユリシスは踵を返して、つかつかと大地を踏みしめながら魔術機関オルファースを後にした。
自分よりも幼い魔術師見習い達が紺呪棒に明かりを灯している、夜を明るく灯していく。その横を、歯切れ良い足音させて駆け、ユリシスは自分の仕事場に帰るのだった。
空が青さを深め、辺りが闇に包み込まれはじめる頃。魔術師見習い達も日課をこなし、それぞれの師匠の魔術師に報告を済ませ、夕飯をとる──そんな時間。
人気の失せたオルファースの片隅、小さなお知らせ用の掲示板、一枚の紙がぴらぴらと風に揺れていた。
その風の中から、一人の青年が静かに降りて立つ。
オルファース内の四つの棟の一つから、風に乗り、宙を舞う飛行魔術で飛んで来たのだ。
青いローブに、本部のドームの明かりが照る。
風で、掲示板に張られた紙の端がぴらぴらとなびく。上から順に押さえるように、受験者達の名前を繊細な指がなぞる。ふと、ある名前で指は止まった。
「……バツ……ですか」
一際激しい風が吹いた。青年はその風に乗り、そのままふいと消えた。
金色の髪がドームの明かりより煌いて、その蒼い瞳は夜よりも深かった。
ヒルド国の都、ヒルディアムは百万の人口を抱える、大陸屈指の大都市だ。百万人は、王族も貴族も、平民も全て含んでの事であるが、七割は平民だ。都を離れれば九割以上が平民になる。平民は被支配者層を指し、商人、農民も含まれる。
ヒルディアムの中央にそびえる王城を輪の中心として、政府お抱えの施設が立ち並ぶ。
特に、魔術機関オルファースは広大で、その建設にも膨大な金が動いたといわれている。
ヒルディアムの中心は王城で、周囲には点々と紺呪棒が並び、明るい町並みが続く。路面もレンガ敷きで、上品な趣がある。
裾野に広がる、城下町。
輪が外へ行く程、治安も住民の品位とかいうものも低くなっている事は、誰もがよく知っている。また、紺呪棒の数も減ってゆき、レンガも次第に土に変わっていく。輪の外側へ行くに従い、舗装されている道は、大通りぐらいになる。大通りは、都を十字に割って、城郭に繋がる巨大な四方の門から街道へ抜ける。
ユリシスは魔術機関オルファースを出てから、三十分余り歩いた。ユリシスの仕事は、下町の『定食屋の看板娘』というもので、かれこれ八年続けている。幼い頃から定食屋で働いていた。
じゃりじゃりと土の地面を歩きながら、もう足元も見えない程、辺りは暗くなってきていた。にも拘らず、ユリシスはひょいと裏路地に入り込む。知り尽くした下町の近道を使って、仕事場の定食屋に帰ろうというのである。
裏路地に入ってしまうと、かろうじて届いていた家々の窓の明かりも無くなり、足元どころか自分の手さえ、目の前にかざしてもよくわからない。
ユリシスはチラチラと辺りを見て、人の気配の有無を探った。
誰もいないのを確認すると、上着のポケットから青味を帯びた握りこぶし程の石を取り出した。石の輪郭はぼやけている。内側から、青白い光りがささやかに滲み出ているのだ。
両の手の平に乗せて、そっと目線の高さまで持ち上げる。暗い裏路地で、紫の瞳にその石を映した。
ユリシスは唇を、ギュと一文字に引き締める。
石はすぐに反応した。石の中心から、ゆらゆらと湯気のように滲み出てきていた光は、二度瞬きする間に、ピンと張った糸のように伸びた。その糸は次第に石を繭のように包んで、石全体が青白く発光しているように見えた。
ふぅと暗闇に浮かび上がるユリシスの姿。石の発する明かりが、ユリシスの姿を照らすのだ。
ユリシスは舌なめずりすると、ごく小さな声でその名を呼ぶ。
「──ウィン──」
魔術師見習い達が灯して回った明かりとは、比べ物にならない程小さい。ユリシスの周りだけを照らす明かりが、彼女の両手に乗る石に宿った。
何にでも名前があるように、魔術にも名前がある。明かりの魔術は『ウィン』といった。
明かりの魔術の成功に、ユリシスは満足気に微笑むとスキップしながら、本来は真っ暗闇の裏路地を鼻歌まじりに帰る。
魔術師になるには、魔術を使う為には、全て、魔術機関オルファースの許可がいる。それは試験という名をかりて、級という資格をかりて人に与えられた。
魔術機関オルファースの許可が無ければ、魔術の名も、使い方も本来は知ることが出来ない。
しかし、例外はある。
オルファース内の図書館を利用する。だがそれでは、書物からのみの知としての魔術でしかなく、習得する事は不可能に等しい。魔術は言葉で教えられるものではなく、技術でもって知と精神と経験によって初めて伝わるもの。
つまり、第九級の魔術師の資格試験に合格し、師に教えを乞う以外、魔術は使えるはずの無い代物。許可無く使えば、『死罪に等しく罰せられる罪』としてオルファースに裁断下され、国によって断罪、追われる身となる。
ユリシスは八回、魔術師第九級資格試験に不合格の判を押され続けた。合格していない。オルファースに許可されていない、魔術のまの字も知りようの無い少女……のはずだった。
スキップは次第に駆け足になっていた。
試験に弾かれて不合格になった不快感を、拭い去りたかった。
走って取れるわけもない事は、知っていたけれど。
試験に落ちる度、自分が、全部否定された気分になる。
自分なんて、この世にいない気になる。
「……ふんっ。不合格でも、教えてもらえなくても……!」
強気に顎を上げるしかない。
「…………罪に、なってもっ……!」
口をへの字にして走るユリシスの目に、小さな定食屋の明かりが見え始めた。
「いつまでも定食屋の看板娘なんて、やってらんないじゃん」
足を緩めて、魔術の灯りを消して──。
再び辺りが闇に包まれる。青みを帯びた特別な石、名を紺呪石という。それをポケットにつっこむと、業務用の笑顔で定食屋の勝手口を開けた。
オルファースにあった荘厳な雰囲気とは正反対の、お客さん達の和気藹々とした賑やかで楽しげな笑い声が、聞こえてくる。肌寒かった外から帰ると、厨房の火とお客さんの熱気で、とても暖かかった。
ホッとする。
でも、ホッとしてちゃいけない。いつかはここを出て、魔術師として暮らすんだ。
勝手口から入ると、そこは狭い廊下兼休憩室。4つ並んだ背もたれの無い椅子の上、壁に打たれた釘に引っ掛けた自分のエプロンに手を伸ばし、夕食時で絶え間なく注文の声が飛び交う厨房に、ユリシスは飛び込んだ。
「休憩ありがとうございました、ユリシス、戻りました!」
ユリシスは、日の出と共に起きる健康優良児。
とはいえ、昼から働いていて、休憩時間も休まずオルファースまで行ったので、晩の『かきいれ時』には疲れきっていた。ユリシスは、もう何度目になるのか、あくびを噛み殺した。
都の真ん中には王城がある。その左右に魔術機関オルフーァス、ゼヴィテクス教会、それらを取り囲む広い国民公園がある。国民公園には、王城を囲む十二の尖塔に次ぐ高さを誇る、大時計塔がある。都の観光名所の一つにもなっている。
その大時計塔が、七時の鐘を都中に美しい音色で響かせた。鐘の音は、都の隅々まで響いていく。
それは、ユリシスの耳にも届いた。
定食屋『きのこ亭』の、一日の中でも一番忙しい時間帯。丸テーブルと角テーブルが所狭しと混在して、合計五十席ある全てが老若男女で埋め尽くされていた。
「あ、あと一時間……」
一時間半前に戻って来たユリシスは、額に汗で張り付く前髪をグイとぬぐって、厨房へと戻った。あと一時間で、ユリシスの一日の仕事は終る。精神的な疲労も手伝って、ユリシスはいつも以上に疲れていた。
テーブルとテーブルの間は酷く狭くなってしまっているので、縫うようにそれらを潜り抜け、ユリシスは頭の中に叩き込んできたオーダーを厨房に叫び、「はいよ!」という返事の直後、目の前にドドンと料理が並んだ。
「ハイ! 揚げ定三、卵定一、麦酒四つ!」
次に客席に持っていく分が出来上がってきた。
いつ嗅いでもそそられる、美味そうな匂いが立ち上る。温かい料理で熱された皿に手をかけ、ユリシスは気合を入れ直して、また客席の間をすり抜けて行った。
息つく間のない忙しい時間は、余所事を考える間も無いまま、過ぎていく。
次の鐘が聞こえた時、休憩室で椅子にドっとへたれ込んだユリシスに、「おつかれっ」とすれ違いざまに声をかけていくのは『きのこ亭』の経営者兼料理長の次男坊。
八時からは完全に酒場と化す『きのこ亭』の給仕は、ユリシスから彼にバトンタッチする。
「今日はキツいよ~、コウ」
ユリシスは同じ年の次男坊──名をコウという──の後ろ姿をニヤニヤ笑いながら脅す。
振り返ってコウが返してくれたのは、さわやかな笑顔だった。
「いつもじゃん。良い事だって」
長袖のシャツをまくってエプロンを整え、コウは二時間半前のユリシスのように、厨房を通って客の中にまぎれて行った。それを見送ってから、ユリシスは重い腰を上げた。
この定食屋『きのこ亭』は石造りの三階建てで、一階が定食屋、二階に宿が八室あり、三階は料理長一家の家になっている。
そしてさらに、三.五階、つまり屋根裏部屋には……。
階段を三階分上り、廊下つきあたりの壁に梯子を立て掛け、天井をぱっかり開けると、物置の屋根裏部屋に上がれる。ただでさえ狭いそこの半分を、どうやってか押し込まれたか謎だらけの、正体不明の木箱や荷物、古くなったテーブルや椅子などに占拠された、ユリシスの部屋がある。
ユリシスは年齢相応の標準身長だが、天井が低いので直立すると頭をぶつけてしまう。屈んだ姿勢のまま、ユリシスは狭い部屋の奥、隅っこのベッドに倒れこんだ。
「つかれた~~……」
ベッドの横には三着の服が天井から吊るされている。着まわしてもバリエーションはたかが知れる数しか持っていない。倒れ込んだユリシスの背中に、薄暗い部屋の中へ、丸窓から月明かりが差し込む。
寝転がっていたユリシスの横顔、頬を照らす。しばらくそのまま、ユリシスはぼんやりと動かなかった。
無表情でごろりと仰向けになって、近い天井をまっすぐ見た。とっくに見慣れた染みが、薄暗いせいでより濃く見えた。
丸九年、この部屋で暮らしている。
「ひー、ふー、みー、よー……」
指折り数えて、ユリシスはため息をついた。
魔術師になりたくて、両親の制止も振り払った。魔術師などだめだと、なれるわけがないと部屋に閉じ込められたが、抜け出してひっそり、黙って貧しい村を飛び出した。もう、九年も経っている。
何日も、ほとんど飲まず食わず、雨水や草木を口に入れて、ドロドロになって辿り着いた都で、料理長夫妻がユリシスを拾ってくれた。家にもおいてくれた。
魔術師になりたくて、そう告白すると、八歳だったユリシスにもお給料をくれた。ユリシスも嬉しくて、求められる以上に、がむしゃらになって働いた。
一家には沢山、沢山、お世話になっている。
なのに、九年、何も変わらない。
「…………なんで受からないんだろう」
言葉と同時に、涙が溢れてしまった。
涙は一度許してしまうと我慢する気もおきなくなって、ユリシスは壁側を向いて、声を殺して泣く事にした。
魔術を、オルファースの図書館の本を読み漁って覚えた。
書物からだけでは、魔術は使えるようになどなれないと、言われている。そんな中、ユリシスは必死で魔術を覚えた。誰にも知られず、ただ一人で。
魔術師見習い達が、師匠に習った魔術を力の限り投じて、街の紺呪石に明かりを灯していく。本人によるまともな制御もなく、明かりを灯していく。
ユリシスは街の裏路地で、こっそりと、誰にも見られないように、抑えられるだけ抑えて、必要な分だけの明かりを手にして走る。
魔術師になりたい。自分はここに居る。
──小さな丸い窓から注ぐ明かりは、大空のものか、オルファース本部のドームのものか。
背を向けるユリシスには届かない。