(017)【1】その何気ない日常を(2)
(2)
オルファースに出入りする十歳前後の関係者は、大半が魔術師見習いだ。それよりも幼いと、予備校生で魔術は一切使えない。
魔術師見習いの時点では魔術使用は限定的に許される。飛べなくとも、身を軽くする程度の便利な風の術を覚える。十六、七歳ともなれば、その位は使えるはずだ。魔力も出せないような見込みの無いヤツならばもう、魔術師の道を諦めているような年でもあるのだ。
十六、七で第五級以上の正魔術師もいるが、それならばなおさら魔術は使える。
「──何故だ?」
探しているヤツとは関係ないはずだと思いながら、アルフィードは思考を巡らす。
そもそもアルフィードが探しているのは強力な古代ルーンの魔術を使う、第一級魔術師にも等しい能力を持つ、だが昇級をしていないのであろう魔術師だった。
風の魔術は、確かなコントロールが求められはするが、より早く飛ぼうと思わぬ限り、第九級の者でも使おうと思えば使えるのである。
一六、七歳なら魔術師か、魔術師見習いのはずだ。使えたはずだ。なのに何故、使わない? 風の術でなくとも、何がしかの身体強化の術を使えば良いはずではないか。何故、微塵も魔術を、魔力を使わない?
アルフィードは「はっ」と自嘲気味に笑って思考を散らした。
自分を負かした相手を何日も探し、飽きてきたのかもしれない。何故、魔術を使わないヤツに気を留めたのやら。
関係のない疑問を浮かべて、馬鹿馬鹿しい。これは、考えてみても、答えを見つけても無駄な疑問なのだ。そのような事に何故ひっかかったのか……。
だがそれは、彼の直感が素晴らしかった事を証明する。
しかし、それはまだ、疑問のまま、謎のままで。
バンと、引き戸が開いた。最初はぜぇぜぇと荒い息。
「おはっ……ゲフっ……おはよう、ございま……す……」
足を大きく開いて、上げた肩は大きく上下していた。
息をするのも絶え絶えに、汗に塗れた黒髪の少女が講義室に入ってきたのは、鐘が鳴り止んで少し経ってからだった。
「お、おはよう、ユリシス君。出欠はまだ取っていないから、席に着くといいよ……」
ユリシスの鬼気迫る迫力に圧され、まだ年若い、二十歳を少し出た位の青年講師は顔を引きつらせ、呟くように言った。
ユリシスは息を整えようとしている所なので、こくっとだけ頷いて、講義室内へと入っていった。
空いていたのは一番前、廊下側のイワンの隣。
「ユリシス、今日は遅かったんだね」
その奥にはイワンの兄、ヒルカが居た。
「そうそう、ユリシスったらいつも一番に来て、あっちの窓際の席に居るじゃない?」
ユリシスは授業がつまらなくて、いつも窓際を陣取って講義中の暇を潰す。いつものユリシスの席には……座るのは躊躇われたのか、その周囲の者の荷物が置いてあった。ユリシスはここ四、五年ずっと、あの席に座っていたから。だが、全力疾走したばかりで全身痛む今、どうでも良かった。
目の前の椅子をがんっと引き出して、背中から倒れるように音を立てて座った。
喉の奥が痛くて、全身が火のように熱くて、体のあちこちがどくどくと脈打っているようで、とにもかくにも、疲れた。
ユリシスはイワン兄弟に「あとでね」とだけ言って、机に抱きついた。講師の事は、見えていないようだ。
昼休み、ユリシスは誕生日会以来、イワン達と共に食事をしていた。イワンが泣いて訴えた結果だった。試験に受かりたい、けど勉強がむずかしい。『教えて! ユリシス!』と。
悩みの多くが溶けるきっかけはイワンの招待状だった。それを除いたってユリシスは頼られて断れる性格をしていない。『来年のこのパーティを合格祝いにしよう』と言ったのも自分である。断る理由が一つも無い。
今までの昼休みは、一人でご飯を食べて、オルファースの図書館から借りた魔術書を読んで過ごしていた。とはいえ9年も通いつめていると、図書館にある禁帯出でないほとんどの本は、既に読み終えていた。残っているのはぱらぱらっと見て既に読んだ資料の詰め合わせみたいな本や、ほぼ同内容の本なので、ユリシスが強烈に読みたいと思う本は、もう残っていなかった。
だから、ユリシスは『合格祝い』を実現するべく、イワンに応じた。そんな昼休みは、思っていた以上に充実するようになった。
完全に先生役のユリシスだったが、基本的に人と話をするのが好きな──どちらかと言えば聞き手に回る方が多い──『きのこ亭』看板娘は、丁寧に、講師達などより、7歳のイワンにもわかりやすく話してやった。イワンもまた飲み込みが良かった。時折分からないという顔をしても、横の兄ヒルカがイワンにわかるように、兄弟で通じる言葉で説明した。
勉強会というよりも、ユリシスが小さな子供らの面倒をみている、という形だった。が、ユリシスはといえば、実家に残してきた兄弟を思い出して、また、いつか出会った偉そうな女の子を思い出して、楽しい時間を過ごしていた。
試験に受からないでいる自分でありながら、時折笑い声が響く昼休みに、幸せを感じられていた。
今朝のユリシスの遅刻の理由は、珍しい事ではあったが、大した事ではなかった。
『開き直って』しまって以来、ユリシスは早朝一人、森で魔術の訓練を行っていた。魔術を使うのが好きな自分に、素直になってみたのである。
五指広げた利き手の人差し指に、ぽっと灯る青白い魔力の光。
自分の内側から溢れる力。
青みを強める紫紺の瞳で見つめ、古代ルーン魔術を構成、展開していく時の、周囲の精霊の踊るような気配、高い金属音が聞こえてきそうな張り詰めた緊張感、次々と集まってくる様子を横目で見ながら、文字を描いていく興奮。新しい術を興す度に、ドキドキした。
──指差す先を見よ、集え八百万の精霊よ、我に従え!
とはいえ、調子に乗ってしまう事は誰にだってある。
今朝の遅刻は、泉の水流を操る術を失敗した為に水浸しになったり、髪を乾かす手間と服を着替える手間が加わってしまったからだった。
アルフィードは寝坊でもしたのかと勝手に思い込んでいただが、正解は春の快晴の日に朝から水浴びした、だ。不正解でも仕方がない。ごく普通に考えて、朝一番から人に害なす獣もいる森を女の子が出歩き、まして魔術の特訓をして水浸しになったなど、どんなヒントがあれば辿り着くのか。
ユリシスは、“アルフィード”と名乗った者と魔術戦を展開して以来、一人多様な術を試していた。様々なシチュエーションを想定して、魔術を興す。楽しかったから。
都に住む魔術師は灯りを自在に操れたので、夜更かしをする者が多い。魔術の灯りを使えない人々は獣油を惜しみつつ灯りを得るが、魔術師らは好きなだけ夜間も煌々と魔術の明かりをつけて書物を読んだ。昼間は依頼をこなしていたり、人の声のが煩いと考えるから、書物を読むのは夜間になる。夜更かししては昼に起き出す魔術師の方が圧倒的に多いのだ。
早朝に起きている魔術師は少ない。そんな魔術師にも、今の所、森に迷い込んだ魔術師か何かと思われているのだろう。
ユリシスは魔術を使う楽しさを思い出して浮かれ、まだその覚悟が出来ていない。ばれてしまう覚悟がまだ……しかし、続けていればいずれ気付かれる──。
早朝の、都の外の森に広がる巨大な魔力波動に。
以前までユリシスがしょっちゅう出入りしていたオルファースの図書館に、本日二度目、第一級魔術師のネオと第二級魔術師のシャリーが来ていた。朝と、昼休みにもやって来たのだ。
図書館があるのは、中庭を見下ろせる第三別館、別名資料館とも呼ばれている建物だ。
両開きの扉を開き、奥へ進みながら先を歩くシャリーが身振り手振りしゃべっている。
「だいたい、ドリアム様はいちいちうるさいんですわ。『この程度の資料も集めて来ないで研究会に来るとは、実に、じぃつぅに、けしからんっ! これだから最近の若手は!』なんて、あれは唾を飛ばしすぎですわ。覚えてる事を、いちいち本探して写しとってレポート作って……なんて、しなくてもいいんではありませんの~? 面倒臭いし、何より私だけではなく、皆さん忙しいんですのよ」
シェリーはぷりぷりした様子で「レポートをまとめてなかったのは私達だけじゃなかったじゃあ、ありませんの!」とぶつぶつと文句を言いながら目的の書物を探していた。
隣の列の書棚を探していたネオは、シャリーのぷりぷりした声に口元だけで笑みを浮かべていた。棚を挟んでもよく聞こえる。
ネオは笑みを消して書棚の隙間から覗き込み、くるくる回って書物を探すシャリーの銀色の髪を見ながら言う。
「でも、資料を持って参加っていうのは当然の事だし。例え、記憶にきちんと内容があったとしても、資料という形で持って行かなかった僕らも悪いよ」
こちらに背を向けたまま足を止めるシャリーの様子が見えた。
「む~~……だから今、こうして本探してるじゃありませんの……」
広い図書館は、淡々として静かな時間が流れているが、昼休みという事もあって、人が多く居た。一階の閲覧室は四十席、二階には七十席あるが、九割埋まっていた。
魔術師か、あるいは魔術師見習いがカリカリとレポートを作成しているようだ。今朝方のネオとシャリーもそのようにレポートを作っていた。
「大体、ドリアム様の研究発表って、毎回同じでうんざりですわ。ワレッシュ様のお話はとても面白いのだけれど……しょっちゅう延期なさるし……」
再び始まった独り言。どこに居るのかすぐにわかって良い。ネオは書棚をいくつか通り過ぎてシャリーの隣へ歩み寄った。
「あったよ」
1冊の分厚い本をゆるく肩辺りまで掲げて見せた。シャリーは『まぁ』とネオの手元を見てから顔を上げ、ほのかな笑みを浮かべる。
「同じの、見てもよろしい?」
「うん」
書棚が壁際に、また部屋の縦横に連なり、窓際は明るい外の日差しの入る読書スペースになっている。五人掛けの長椅子が一、二階合せて十ある。こちらは二割程しか埋まっていない。机のある閲覧室は二人並んで座れる席が無かったので、ネオはそちらへ移動した。小さな足音でシャリーが付いてくる。
読書スペースに移って、二人の間に先程ピックした本を置いて該当ページを開く。それぞれがそれぞれに、膝の上でレポートを書き上げていく。そこはそれ、同年代の他の魔術師達と違い、トップの二人なので、さっさと書き上げてしまう。内容自体は理解している事なので、本にはサッと目を通し、引用する部分だけを書き写すと、後は早かった。
シャリーがちらりとネオのレポートを見る。
「う~ん……やっぱりネオですわね」
「──何が?」
ぽつりと呟いた声に反応があって、シャリーは慌てて手を小さく左右に振った。弾みで鉛筆が床に落ちた。
「え? ああ、何でもありませんわ。──ありがとう」
ネオが鉛筆を拾って渡してくれたので、曖昧ながら笑みを浮かべてシャリーは礼を言った。
シャリーは、その出来が悔しかったのだ。やっぱり、完璧なレポート。自分の膝の上のレポートと見比べてしまう。しっかりと書き上げたはずなのに、途端に粗が見えてくる。
ともあれ、シャリーは顔を上げ、微笑を浮かべる。
「お昼ご飯、食べに行きましょう? お腹、空きましたわ」
「そうだね」
二人は分厚い書物を元あった位置に戻すと、中庭に面したオルファース内の食堂へ移動した。食堂と言っても、利用するのは貴族出身者が多いせいか下町食堂というよりも、お洒落なカフェテラスの趣がある。すぐ隣には花壇があり、テラスにはレンガが丸い模様を描くように敷き詰められ、猫足の白いテーブルと椅子が並んでいる。中に入ればまた異なった、シックな木製のテーブルと椅子が置かれ、こちらの床は白い石が敷き詰められている。
この日の空は雲ひとつ無く、天気が良い。春の陽気故か、ウキウキととさせる風をもたらしていた。
いつものように──晴れた日はテラスで──食事をしていた二人だが、ぞろぞろとやって来る客の中に第一級魔術師を四人、見つけた。
四人はそれぞれ、二人づつで別々に現れ、テラスの離れた席に着いた。
シャリー達とも離れた席で声はほとんど聞こえない。
こちらの声も聞かれるわけないのだが、シャリーは声をひそめる。
「カイ様とワレッシュ様よ。それにギルバート様とアルフィード様ね」
「そうだね」
現れた四人の第一級魔術師を、恍惚の目で眺めてシャリーは呟く。
「何だか、憧れますわ。第一級魔術師。私も早くなりたい……かっこい~」
「……」
──僕も第一級魔術師なんだけどなぁ。
ネオは心の中だけで呟いて、口には出さなかった。
ヒルド国内十九人の第一級魔術師のうち、十一人がオルファース魔術機関の幹部である。
その中の一人、オルファース魔術機関トップが、国王に次いで権力があると言われているオルファース総監。総監直下の十人の魔術師が副総監である。これら十一人がヒルド国八千人の魔術師を束ねた。
残りの八人にしても、第一級魔術師であるというだけで国家要人扱いをされる。
ヒルド国は周辺諸国の中でも優れた魔術師に恵まれた国として有名だ。国家を超えたロギンス魔術連盟において、ヒルド国オルファース魔術機関はその中心的存在である。結果、オルファース魔術機関の第一級の魔術師は、国を超えて、魔術師達の憧れの対象となった。
ヒルド国内に十九人しかいない第一級の魔術師のうち五人がその日、テラスに集まった。