(138)【2】回避不能(1)
身体も無く、実際に涙を流したわけでもないのに喉がカラカラに乾いているような錯覚──。
正直なところ、ユリシスは『もういい、もういらない──』という思いが強い。
見せつけられる記憶はどれをとっても重く苦い。
俯く思いでいるのに、次の記憶がユリシスを飲み込まんと世界に幕をかけてしまう。余韻や咀嚼の時間を僅かも与えようとせず、幕はすぐにスルスルと開いてゆく。
もう静かな暗闇に潜んでいたいと、疲れた心を休めたいと心底望むユリシスの意識を、記憶の世界があっという間に包み込んだ。
──荒涼とした大地に立つ…………。
眺めるしかない。
そうして、ユリシスは似ていると思った。
赤茶けて歴史に埋もれた今のメルギゾーク王都メイデン跡に──。
ギルバートを失い、彷徨うように辿り着いたメイデン跡、ゼクスと再会した場所──。
最後の女王の……青い玉を壊せていなかったこと、書き残された魂の意味……。
今あの場所を訪れたなら、重苦しいその歴史に──まざまざと思い起こせる血腥い記憶に──潰されてしまうのではないかと思えた。
しかし、だからこそわかる。
もし、ここを覚えていなかったら…………今まで見ていたディアナの記憶もある──メイデン跡と誤解したかもしれない。
それほどにこの枯れ果てた大地の精霊の枯渇ぶりは──実質、変異体に滅ぼされた──メイデン跡と類似している。
ユリシスは『──嗚呼』と思う。
──身体の芯が冷える季節なのも……。
「これ、何をしとる」
後ろから声をかけられ、この記憶の主の視線が動いた。枯れた木のような老人が重ね着したボロをゆるい風に揺らして立っているのが見える。
「さっさと行くぞぃ──ユリシス」
「はーい」
そう、返事をした。
凍てつく寒さの中、薄茶の素手を差し出され、駆け寄って腰の折れ曲がった老人をユリシスは見上げた。思いのほかしっかりした力で手を握られる。
「──名残り惜しいか?」
「ううん。そうじゃない。そうじゃないんだ」
「ほう……」
歩みを進め、今にも朽ちそうな村の看板を横切る。看板には『フリューティム村』と掠れた文字がわずかに読めた。
──村を飛び出した頃──飛び出す前日の……七歳足らずの自分の記憶だった。
この辺では大規模と呼べる、二十人あまりの大商隊が隣村まで来ているという話があった。これは村から出かけていく時の記憶だろう。
客寄せに握りこぶしほどの石のように硬いパンがふるまわれ、軽業に手品、魔術が見世物にされて移動遊園地のようだという。大人たちには土地土地の変わった品物を持ち寄れば買い取るという触れ込みだった。
団体の旅商人と護衛を兼ねた軽業師達が道すがら仕入れては大都市へ持ち帰って売るのだという。
ユリシス達の村からは歩いて2時間ほどの隣村のほど近いところでテントは張られていた。
好奇心の強かったユリシスは村長と数人の村人についていったのだ。
テントとは言うが丸太を組んで布の屋根を被せただけの露天がいくつか並んでいるに過ぎない。しかし、そこへ顔を紅潮させて群がる隣村の子供達は骨と皮に近いユリシス達とは明らかに違う。毎日きっと食事にありつけている。力強い足踏みで踊って、大声で何やら喚いては喜びを露わに楽しんでいる。軽業師達の装いだけで、その物珍しさに興奮を抑えきれずにいる。さらにそれらをかきたて盛り上げるように、旅商人に雇われたドンチャカお囃子隊が太鼓や弦楽器を打ち鳴らしていた。
そもそもたった二時間歩いただけでもう景色が、村の姿がフリューティム村と違う。村の周りには小川が流れ、木々も生い茂っているのだ。
赤茶けて雑草も生えないフリューティムとは異なり、道と呼べるところ以外は長い草花がふわふわと風に揺れている。
ぽつりと言ってしまう。
「長じい」
「なんじゃ」
「うちの村はやっぱり貧乏なのかな。いつもお腹空いてるし。ここのみんなは、キラキラしてる」
「……そうじゃの。うちは精霊の加護を得られんから」
「精霊のカゴ?」
「…………羨ましいか?」
「うーん。羨ましいっていうか、村のみんなにもあんなニコニコ笑ってほしいな。楽しそう」
「……お前だけを連れてきたのはな──」
「村長! こっちだ、こっちで買ってくれるそうだ」
一緒に荷物運びできた同村の男が駆け戻って村長に声をかけた。
「……わかった」
一瞬だけ渋面になるも、村長は顔を上げて返事をし、ユリシスの頭をポンポンと撫でた。
「近くにいなさい、迷子にならんように」
「はーい」
先導する男について離れゆく村長の背中を見送り、ユリシスはすぐに目を輝かせてあちこち見て回る。村長の言いかけたことも注意も頭からすぐにすっぽ抜けていた。
が、これを眺めるように見ている十七歳の意識は違う。
──あれ? こんなんだったっけ……? 思ってたより……。
この見世物と行商に行った帰りにユリシスは村を出ることを決意した。それならば覚えている。しかし、村長の──大人の顔色まで全く記憶していなかった。
貧しく、子供も食料集めに駆り出される村で自分だけがこの楽しい場所に連れ出してもらえた理由は一体何だったのだろう。
既に人生の半分以上、家族や故郷から離れて暮らしている。七歳以前の記憶など、魔術を覚えたい、都で暮らしていくという高揚に吹っ飛び続け、大半を忘れてしまっているようだ。
いくつものテントはあるが、旅芸人や魔術師が居たのは薄汚れて刺繍もない、色だけ派手な布を垂れさげてよれよれの吊り旗を巡らせているだけの小さな小さな舞台。
──思ってたよりより、地味……。こんなんだったっけ……。
王都の巨大テントの中の派手な催し、飾りを見知ってしまった十七歳、あまりの落差に思い出補正を感じずにいられないユリシス。
──あの国民公園はみんながいて、火事になって……。
大火の件、最近の記憶だというのに、どこか遠い出来事を思い出しているかのようだと気付く。
華やかな都で長く暮らしたせいか、辺境の催事はひどく安っぽく見えた。実際、規模からしても安いのだ。
だが、記憶の中の七歳のユリシスは飛び上がって喜び、終始声をあげて笑っている。
そしてついに見るのだ、魔術師の術を。
魔術師が手の平に青白い光を集めるところだけで身を乗り出し、ボンと小さな炎が頭上にいくつも現れれば腰を抜かしてひっくり返った。
十七歳なら、あまりにも簡単な魔術に『ふーん』と通り過ぎてしまうかもしれない。
だが、七歳のユリシスは驚天動地の思いで喉が痛むほどゴクリと唾を飲んだ。
「こ、これだ──これっきゃないよ……!」
魔術奇術お披露目が終わると尻もちでついた土も拭わないまま「ひゃっほー!」とテンション上がりまくりであちこちを走り回った。お腹が空くのも構わない。その姿は、この村の子供達とそう変わらなかった。
期待や興奮ではちきれそうな心を抑えきれないまま走って発散するばかり。
帰宅の途についてもスキップをしながら誰に聞かせるともなく見聞きしたものを一人語っている。
とはいえ、大人たちの中で一人歩幅の小さなユリシスは行程の半分ほどでヘトヘトになった。最後尾で村長に手をひかれる。
「楽しかったか?」
「うん! 聞いて! 長じい! すこいの! 手からね、火が出たんだよ! ものがふわふわと浮き上がるの! すごいんだ、すごいんだよ!!」
村長はホッホと笑い、そうかと言った。
「それがな、ユリシス、精霊の加護の一つじゃよ」
「精霊のカゴ……かご……」
「うむ。助けてくれるんじゃ。人には無い力をかしてくれる。魔法とか魔術と呼ばれるものじゃ」
「なんでうちの村には無いの?」
「──……無いわけではないんじゃ。ただ……」
「ただ?」
「別のことに使われていてな……わしらの分が足りんのじゃ。年々枯れてしもうた。わしがユリシスくらいの頃はまだ草木も生えていたし獣もあちこちおった。腹いっぱい食える日もたくさんあったんじゃ」
「へぇ〜、いいねぇ、よかったねぇ」
繋いだ手をぶんぶんと振り回すユリシスを穏やかに見下ろす村長。それが、すっと翳る。
「ユリシスよ」
「ん〜?」
「魔術には惹かれるか? ……あ〜……好きか?」
「うん! すごかった! 私もあれやる!!」
やりたいを通り越して「やる」と宣言する辺り、七歳児らしい万能感が露出する。
「ああ……やれる。出来るぞ……ただ、村におっては出来ん。人に習わねばならん。そうじゃな……都にでも行けば……あの商人や魔術師達は今夜は隣村で泊まって明日の昼過ぎに都に帰るらしい」
「……都……隣村、明日……」
明後日を向いて話す村長の言葉をユリシスは噛みしめるようにオウム返しする。
──これって……。
十七歳のユリシスならばわかる。
──誘導されている。長じいは……私を……。
「この村の呪いを解けるのは、ただ一人じゃ」
「……魔法……魔術」
七歳のユリシスは既に明日、行商人達に合流して都へいき、魔術を会得することしか考えていない。
村長の言葉は右から左に流れていく。
「この村の始祖が施した魔術によって精霊はずっと横流しされとる……それを開放し得るのは、紫紺の瞳の乙女だけじゃ…………って聞いておらんのか」
村長のため息を感じながら、ユリシスは旅支度に思いを馳せる。あれを持っていき、これは妹達にあげて……と頭の中が忙しい。
「これ──本当に聞いておらんのか?」
七歳のユリシスは顎に手を当てて思考に沈んでいたが、十七歳のユリシスはそれどころではない。
──なんで長じいが言うの……紫紺の瞳の……。
村長はため息をひとつこぼして呟く。
「始祖の願いが叶うかどうかは知らんが、我らの村に精霊が戻ることを祈るばかりじゃ。──が……それもこれもユリシスにかかっていると思うと……」
「長じい! 明日の狩猟、私、行けない! だめ?」
「……なんじゃ、そんなこと……」
「いい?」
「好きにすればいい。いまだ目覚めんお前にどこまでできるのやら」
「は? 私、起きてるよ? 長じい、ボケた?」
ボケていたのは幼かった自分の方だった。
目覚めの示す意味ならば、もうわかる。
紫紺の瞳の女王たちの記憶を持つ存在として目覚めているのかどうかだろう。
これだけ見せつけられては、己が紫紺の瞳の女王から連なる存在であることくらい、さすがに自覚する。
自殺行為をさえしなければ魂は消失しないという知識も、たくさんの魔術書を読み込んだユリシスならば持っている。
消失しなければ魂はどうなるのか──次の生命に産まれ落ちる。
何度も何度も殺され、産まれ、その度に“紫紺の瞳の女王”として即位する記憶……自覚しない方が、目覚めを意識しない方がおかしい。
──私が、そうだよ……遅くなったみたいだね、長じい……。
ユリシスはただ静かな気持ちで──受け入れるとか受け入れないではなく──認識した。
おびただしい殺戮を、破壊を、また創造をなし得ていく初代から八代目までの女王達の魔術の数々をユリシスは目をかっ開いく勢いで読み解いた。
今や失われた古代ルーン魔術というべきものを、生きた術として体感してきた。
この意識全てを乗っ取られるような記憶の奔流に飲まれながら、しかしユリシスは生来の──最早、ユリシス自身の特性かあやしく思えさえする──『魔術好き』を発揮してすべて見覚えた。
ユリシス自身、実際に使ってみなければわからないと思いながら、確信している。倍、いや十倍以上に使える魔術は増えたはずだ。
意識が更新される自分に向いた瞬間、自分という存在の真ん中に『力』が感じられない気がしたが、ユリシスは深くは考えなかった。ぼんやりとした飢餓感、空腹感があるように感じたせいで、それも度重なる記憶を体感した疲労程度にしか思わなかったからだ。
今のユリシスは意識としての精神体であり、魂としての精霊体と実体からは切り離されている。その為、アクセスすべき魂を見つけられなかった──ということになるが、本人には知りようもないことだった。
──とはいえ、『始祖』とやらが何者で、この村に施したらしい魔術が何であるかまでは、ユリシスにもわからない。
この時の村長は『目覚めたユリシス』ならば解呪出来ると思っているらしい。
確かに、今のユリシスならば、村のどこぞに呪いのように描かれているであろうルーンさえ読めば解呪してやれるかもしれない。
村が貧しく枯れていた理由もわかった。
──精霊が他所へ流されていたなんて……。
七歳の自分が行方をくらまして、誰も探しに来なくて悲しむやらホッとするやらしていた。でも違った。
村を出るよう仕向けられていた。
悪意で捨てられたわけでもなかった。希望を託されていた。戸籍が無かったのはむしろ、権力者や、今もいるかもしれない反女王派──紫紺の瞳の乙女を狙う連中からユリシスを隠すためだったのかもしれない。この記憶だけではわからない。だが──……。
──もしかして、救えるの?
代々の紫紺の瞳の女王たちの記憶は尽く平和的と呼べず、誰かしらを不幸に陥れながら国を繁栄させていた。
貧しい村の家族を、みんなを笑顔に──もしかしたらその夢が叶えられるのかもしれない。
殺戮に満ちたこの魂でも、救済をもたらすことが出来るのか──。
だが、この記憶は当時のユリシスには知り得なかった出来事に続く……。