(135)【1】夢(7)
ゼクスが“他人の自分”の感情に翻弄されていた頃、ユリシスもまた、過去世の記憶にのまれていた。
唐突に景色が入れ替わり、次の記憶が始まる──。
まるで上から幕をばさりと投げかけられたかのように視界が、世界が一変した。
8代目紫紺の瞳の女王ディアナディアによって戦争という名の一方的虐殺は終わり、死者まみれの景色だったそこへ、温かな風とともに小鳥のさえずりが割り込んだ。
すべてを上書きするかのようにシーンが組み上がっていく。赤黒かった空は透けるような青空に、崩れた木組みの戦車や飛び散った手足付きの革鎧の欠片は緑の木々に、戦場は精霊豊かな山深い大自然に塗り替えられた。
砂ぼこりにまみれた濃い鉄渋のような血の臭いは失せ、生命溢れる爽やかな森林の香りが辺りを支配した。
──……な、なに……。
ぼんやりと眺めるだけになっていたユリシスの意識は、風景の変化に伴って分離と同化を繰り返す。
意識はこの記憶の主に重なり、ゆっくりと青空から地上へと落ちていく。
湖のほとりに山小屋がいくつも並んだ山村が見えてきた。
少し離れたところは木を切り開いた牧草地になっており、詳細は確認できないながら茶色の毛の家畜らしき数十匹の動物が2匹の犬に追い立てられている。犬や近くには毛皮を紐で巻く厚着の青年。
視線を巡らせれば山村には似たような格好の人が行き交っている。
のどかで平和な村のようだ。
──……なに……。
タッと足に地面を感じた次の瞬間、遠くから声をかけられた。
「ソフィア! ソフィア!」
視界はユリシスの意思を無視して声の方へ流れる。
「おかえり! ソフィア!!」
振り返ったタイミングで十に満たぬ子供が突撃してきた。
「はは! ただいま。留守を守ってくれてありがとう」
また、意思とは無関係に声を発していた。ユリシスはその声が十七歳の自分より幼いとすぐに気付いて、察した。
──よくわからないけど……いま、ソフィア……の意識に乗っかってる? 私が、誰かに憑依している……?
変異体に閉じ込められたユリシスだが、流れ込んできた魂の力──過去世の記憶がユリシスの意識を覚醒させていく。空腹や睡眠不足に朦朧とした意識も飢えが満たされれば明朗になるように、ユリシスもまた、本来の精霊体を得て思考力を取り戻したと言える。
成熟した都に王侯貴族や大軍団による戦争──そんな世界は完全に失せ、牧歌的なシーンへ、登場人物ごとガラリと変わったのだとユリシスは理解した。
視界の端の湖に映る己と思しき姿は十代前半の少女で、だが、軽々と突撃してきた子供を抱きかかえていた。
──そ、そういう……こと……。
体も心も今、一体どこにあるというのか──ユリシスは困惑のまま、それに勝る衝撃をただ飲み込む。
水面に映るソフィアと呼ばれた少女の瞳は──青と赤の光をたゆたわせる深く神秘的な紫紺色の瞳を……ユリシスの瞳と同じ色調を浮かべていたから。
ソフィアは軽く笑い、子供の短髪の頭をなでくりながら下におろした。
「村は平和そのもの。ありがとうな、オリン」
「まかせろ! っつってもオイラずっとシーラ様の話し相手してただけだけどな!」
「それが十分なんだ。シーラは……」
「寂しくなると魔力が暴発する、だろ?」
ソフィアは少年オリンの手を取り歩き始める。
「せめて私はこのびっくりなくらい大きな魔力を一から十の全部が全部、操れるようにならないとな」
「ソフィアはマジメだな! シーラも言ってたぞ? 双子だからって運命を? あー、えーと、ともにする必要はないとかなんとか。あと、なんだっけ? シーラは難しい言葉を使うからな」
「…………」
「ソフィアは──」
「ソフィアには、私という鎖を解いて天高く飛翔して欲しいのよ……?」
「シーラ!?」
唐突の声にソフィアもオリンも驚き、近くの小屋の影にもたれるように立つ少女を見つける。
「シーラ! だめじゃないか! 起き上がったら駄目だ!」
ソフィアの慌てる声に、彼女とそっくりの相貌をしたシーラが儚げな笑みを浮かべる。
「村の中なら、温かい昼間のお出かけはお許しを頂いているわよ? あなたの治癒魔術が効いてるのね」
「で、でも! シーラ!」
ソフィアは慌てて背丈も同じ双子の姉シーラの手を取った。
真っ白なワンピースは薄着が過ぎる。オリンが羽織っていた毛皮のポンチョを脱ぎ、飛び上がってシーラの肩にかけている。
それらを双子というだけあってソフィアとよく似たシーラは、しかし、赤色の瞳に静かな笑みをたたえている。
構ってもらえることが、気にかけてもらえることが、ただそれだけのことが嬉しいのだ。
「それに……もうすぐお嫁に行くのよ? もう少し体力をつけなくちゃ……」
シーラの呟きにソフィアの紫紺の瞳がカッと燃える。
「爺様か! あんのジジイ…! 私が五年待てと言っているのに……! いつ!? シーラ、輿入れはいつって言われてる!?」
「ふふ、いいのよ、ソフィア。私はもう……あなたの重荷になりたくない」
「ばかな!!」
「そうだよ、シーラ! ゼヴィテクスのとこは金にあかせて奴隷貿易もやってるって言うぞ?? あんなとこ嫁ぐなんて頭どうかしてる! なんならオイラが嫁にもらうから、もうちっと待てよ!」
「…………」
「…………オ、オリン……そうなの?」
気迫たっぷりに顔を真っ赤にさせるオリンはソフィアの言葉に大きく頷いてシーラを見つめている。
シーラは頬を染めて、すぐに困ったようにすいと視線を逸らした。
「ぶっこんでくるなぁ。でもシーラ、私はオリンなら構わないよ。まだ九つだけど」
「…………む、無茶よ……お爺様には逆らえない……最近でこそこうやって起き上がれているけれど、生まれて十二年、ほとんどずっと寝床に縛られて、高い薬代をお爺様に払ってもらっているのよ? お爺様の決めた縁談、逆らえないわよ……」
「だから、ジジイには私が話をつけたはずだ」
「聞いているわ。でも、その条件の一次期限は──今日でしょう?」
「ふん。だから帰ってきたんだ。私はシーラを──」
「それが!」
ソフィアの言葉を遮り、シーラはぷいと横を向いてその次の言葉を飲み込んだ。
「…………シーラの悪いクセだと思うけどね、それ。ぜんぶ言えばいいのに」
ソフィアは呟くとシーラから手を離した。
「オリン、シーラを家に連れてって休ませて。私はジジイに文句言ってくる」
ソフィアはシーラを振り返らずふわりと宙にうかぶと、屋根が一番大きな木組みの家へあっという間に飛び去った。
もしも、この一瞬に振り返っていれば──思いとどまっていればあるいは──すべての悲劇も、ユリシスにまで影響を及ぼす一連の出来事も起きなかっただろう。
泣き崩れたシーラが血を吐いて倒れたことは、オリンだけが見ていた。
「だから! 私がすべてを覆すって言ったじゃないか!」
「大きな権力のうねりはいかな魔力豊かであろうと小娘一人の悪あがきで趨勢を変えられるものではないわ! 甘いんじゃ、あほうめ!」
丸太を組んだ大きな家のロビーには五十前後の背の低い男がおり、ソフィアは彼と言い争っていた。
「だから五年寄こせと言った! 約束した今日までの二年間で魔力魔術を使いこなせと言うからすべて全うした! こっから五年、五年でいい、私が世界図を塗り替える!」
「精霊の愛し子として紫紺の瞳を授かろうが、精霊の世界と人の世界はひとつにならん。精霊の力で人の世は変えられん!」
ソフィアがジジイと呼ぶ祖父は背丈の割に逞しい腕をぶんとふるって否定する。また、祖父の後ろには世話役や村の男衆が数人集まっていた。何やらの話し合いの最中にソフィアは乗り込んだのだ。
「変える! 私が! このソフィア・リア・メルギゾークがこの農村メイデンを世界一の都市に、王国に変える!!」
「バカを言いなさい!! 何をどうする!? 豊かな村といえど帝国には逆らえん! ましてや小娘一人、こども一人が──」
ダンッと床を蹴り抜くソフィア。板くずが飛び散り、埃が浮かぶ。すぐに足を引き戻すソフィアを、目を丸くして見る大人達。床板は大人の腿よりも分厚かったはずだと息を飲んでいる。
「甘く見ているのはそっちだッ!! 魔力の、精霊の変化も読み取れぬモウロクジジイの出番はもう無いと知れ!!」
分厚い床板をいとも容易くぶち抜くには、ソフィアの足はあまりに細い。それが瞬時に巡らされた魔力を借りてのこととその場の誰もが目を見張り、彼女が条件を達成してきたのだと理解した。
理解したが、約束は守られる為にではなく、達成されなかった時の理由付として準備されたにすぎない。はじめから大人の理屈の檻の中でソフィアは弄ばれただけなのだ。
「…………今まで好きにさせておったが、もう限界じゃ。ソフィア、そしてシーラも、おぬしら二人は早々に死んだわしの愛娘の忘れ形見と思い、面倒をみてきた。だが、それももう終わりじゃ。あまりの無知蒙昧な振る舞い。ソフィア」
顔を上げたジジイの瞳が昏く淀み、光る。後ろに控えた数人の身じろぎが見え──。
「おぬしはしばし、眠っておれ」
「なに──」
ガクッと膝を崩すソフィア。
寸前に空気が揺れる音を聞いた気がした。頭が重くなってうつむけば、むき出しの拳に針が刺さっているのが見えた。
──吹き矢……何の……毒?。
全身の力が抜け、酷い眠気が襲ってくるのを感じる。
視界は闇のまま声だけが聞こえた。
「死にはせん。二、三日は目覚めんだけじゃ。その間にシーラをここら一大きな商業都市ゼヴィテクスの小倅に嫁にやる。見目さえ良ければ病持ちでも構わないという奇特な御仁が三百万で買ってくれるそうだ。薬代を回収してもおつりがくるわ」
「本当によろしいので? シーラ様は特にお美しくてらっしゃったラァラ様によく似て、また赤い瞳を受け継ぎ……」
「ラァラもどこの馬の骨ともしれん男の種を孕んで村に戻ったウツケだ。ウツケの子はウツケだっただけじゃ。……わしも、ウツケということになるじゃろうが、仕方ないわい」
「ですが村は……」
「やむを得んじゃろう。ソフィアを徹底的に変えるしかあるまい。なんやかんや言うてまだまだ十二のこども。なんとでもなる。それに、わからんか? シーラこそ人質じゃ。シーラをゼヴィテクスにくれてやればソフィアもおとなしく従うしかないんじゃ」
視界は闇に飲まれ、音も消えた。
ただ、ユリシスは気配を感じていた。気配というよりも、感情の塊。
すぐそばに熱源があるかのように。
それはくり返し怨嗟のうなりを上げているように思われた。
己の内側なのか外側なのか判断がつかない。
幾本も天高く火災旋風が立ち上り、世界が燃え尽きる。そんなイメージがユリシスを覆う。飲み込む。
──……熱い……。
体も、精神の在り処もわからいのに、それは確かにユリシスの中心を焦がす。
端的に示す単語は途方もない“怒り”──。
次にユリシスの意識が見た世界は、イメージのまま、炎に包まれる街の姿だった。
ごくりと生唾を飲む思いでユリシスは視界の隅々に意識を向ける。
「お願い! もうやめて! やめて!」
そう足元に駆け込んできたのは──。
腰にしがみついてきたのはそっくりだと思っていた双子のシーラだった。
ふっくらと頬は膨らみ、全身の肉付きがずっと良くなっていた。もはや体格が倍近くに思えるほどだ。
彼女は懇願する。
「私は……私は……し、幸せになったの、大丈夫だから……!」
シーラの怠惰に緩んだ二の腕の贅肉がフラフラ揺れるのをぼんやりと眺める。彼女はユリシスが先程見た時より四〜五、歳を重ねているように見えた。
ユリシスの見る記憶は時を超えたらしい。
「──幸せ? シーラは幸せ?」
低い、低い声が己から出てくる。ユリシスと同じ年頃の声かとは思われたが、内に込められた重さは計り知れないところがある。ユリシスには想像し得ない黒い感情に塗りつぶされている。
ぶわりと吹き抜ける熱風を、ソフィアは紫紺色の一瞥で吹き飛ばす。
──見知らぬ土地に嫁にやられたのに、幸せ? 倍以上年上の、望まぬ男の世継ぎを産み、肥えれば幽閉のように閉じ込められて、幸せ?
「周りにはたくさん人がきてくれて、お薬も、栄養もたくさん頂いて、病気もほとんどしなくなったの……かわっ……か、可愛い子供も産まれて、私は今、毎日を楽しく──」
めらりと──ソフィアの髪すら炎のように怒りに揺れる。
目線をあわせるようにソフィアは膝をつき、しかし淀んだ赤い瞳のシーラの胸ぐらを掴む。
「オリンは嘆き死んだぞ」
目を見開くのはシーラ。すぐにポロリと涙を溢す。すぐに淀みも流れてゆく。嘘をつけずに真実を映すうさぎのように赤い瞳。
シーラは昔から本心を隠し、平気で嘘をつく。重荷になりたくないと言い、自ら幸福から遠ざかって一人の寂しさと不幸に飛び込むのだ。自分さえ我慢すればみんな幸せなのだという──安易かつ安直な自己犠牲に浸り、自ら求める労力をさぼり続けた。
黙り続けて動かず、己の幸福を望まない、期待しないことで自分を守るばかりの貧弱な思考。それでいて容易く欲に溺れ、楽な道を選び続ける……その結果を前にして、ただ呆然とするシーラ。
紫紺の瞳はシーラの赤く潤む瞳を冷酷に覗き込む。
「いいよ、出来たばかりのゼヴィテクス教は残してやるとシーラの主に伝えて構わない。ただ、この街は奴隷にまみれている。邪魔だから潰しておく」
ソフィアは手を離すと再びゆっくりと立ち上がる。
「待って! 待って! 待ってソフィア!」
シーラはソフィアの服を両手で掴んですがった。
「奴隷と言っても人は人よ? みんな生きているわ! 命を無闇に奪わないで! ソフィアが人の殺めないで!」
視界が数秒暗転し、ユリシスはソフィアが瞑目していると気づく。
「ね? わかるでしょう? 私を救ってくれたソフィアだもの、みんなを──」
そうしてソフィアは優しげな声音のシーラを見下ろす。
シーラの赤い瞳が──奴隷を売り買いして伸ばした命が、肥え太った顎の下の肉が、あまりに醜悪だった。
「私が下調べもせず人口十万を超える都市をただ焼いていると思ってるんだ、シーラは」
「…………」
「日々二百の奴隷が港に運ばれ、国内に売りさばかれ、その先で彼らが食いつぶされるように、家畜よりもひどく扱われ、虫のように殺されている。この街は恨みを買いすぎているよ。彼ら十人の命が、シーラのその耳飾り一つで買えるな? 命がひどく安く売り払われている……それをシーラも知っていると──私が気付いていないと思っているんだ?」
「お、お願い……私のことを思ってくれるなら──」
「シーラは……どこに行ったのかな。私が大切に思って救いたいと思っていた……三百万で売り買いされた姉を助けたいと……思っていたよ」
声は自嘲を含んでいた。
「ただの奢りだったね」
「か、帰るところもなく、ここに従うしか無かったのよ……」
「その割に毎日たらふく食べていそうだね」
その贅肉──と手の平で示すべく差し出されるソフィアの腕は枯れ木までとは言わないが、細い。
「──……」
ぐっと息を飲み込むシーラはシーラでやはり言葉を殺した。耐え難いストレス、許されない外出、思うにまかせない流されるだけの日々、気持ち悪い夫に裸にされて好いように嬲られる苦痛……食べることだけが癒やしになり、確かにそこに甘えたからだ。
「意固地で人を洗脳するのに心を砕くジジイどもを、オリンも死んだし、村ごと焼いてきたよ。いい鎮魂の火だった。そろそろ旧帝都からの遷都を考えていたからついでに地ならしもして山は平らに潰したよ。あそこに巨大都市を作る。いいでしょう? ただの山村だったけれど、そうね……ひと月……ひと月後には首都メイデン。私の──」
ソフィアは炎に揺れるゼヴィテクスの街を見渡す。
「旧態は叩き潰す。邪魔なものは排除する。そこに、メルギゾーク王国の、私の威を示す」
帝国が落ちたのは昨年の事だ。
「シーラは私に人を殺めるなと言うけれど、今更すぎて──ふふっ」
ソフィアの紫紺色は楽しげに揺れる。
軍などない。
たった一人の、精霊に愛され、人の身とは思えぬ魔力を自在に操る少女が牙を剥いた。
満を持して紫紺の瞳の女王が誕生し、一部で囁かれはじめる『紫紺の瞳の災厄』の物語──巨大な力に踏み潰された人々の恐怖が語り継がれた。
紫紺の瞳は精霊に愛された証と、豊かな恵みの象徴とされた古代は消え去り、歴史は塗り替わる。
強大な力が世界の大半を飲み込むのに、結局、たいして時間はかからなかった。
「もっと早くこうしていれば良かったと思う。それこそ、あなたがゼヴィテクスにさらわれた時に……。私の覚悟と踏ん切りが、少しばかり遅れたよね? いくら私でも、人を殺すことに少しは抵抗があったんだ。ごめんね、シーラ?」
最早、ソフィアの紫紺の瞳は狂気の色すら孕んでいる。
狂気は伝染する。
シーラに遺されたものはゼヴィテクス教のみ──火災にまぎれ、シーラの夫も子供も奴隷に殺され、その奴隷ごと火災旋風が飲み込んだ。
孤独なシーラが恨むべきは──。
孤独なソフィアが憎むべきは──。
同じように虚ろを抱えながらその双子は全く異なる闇の中にいる。
ただただ、ユリシスはあるはずのない実体を──胸をぎゅっと掴み嗚咽を抑え込む。
この感情は彼女たちのものでユリシスのものではない。この記憶はユリシスのものではない。
この、あまりに罪深い血まみれの魂が抱え込む怨嗟は一体誰の──それでもなお、精霊に愛される魂が辿るべき道とは……。
ユリシスの瞳にも赤と青と紫紺の──いつでも狂気を宿す準備が整っている。