(131)【1】夢(3)
空はいつしかは黒い雲を呼び込んで嵐を待っていた。
カサカサと乾いていた風が湿気をはらんでいる。
今にも雲ははじけて滝のような雨を大地に叩きつけそうだ。
ひんやりとし始める気候の変化を感じつつシャリーはごくりと唾を飲み込む。
この場にいることが正直に言えばツラい。力不足に萎えかねない。
だが、マイナスにはならないはずだ。自分の力はゼロではないはずだ。そう信じることにした。
奥歯を噛んでユリシスを思う。
女が力を持つにはヒルド国では魔術で大成するしかない。もちろん商家や音楽や芸術事で有名になる女性はたくさんいる。
しかし、男に見劣りしない力と権力は魔術でしか手に入れられない。
シャリーは権力者など誰某の妻になりたいのではない。もちろんネオのお嫁さんにはなりたいが、そういう話ではない。
確かに最初は魔術師を志したネオと一緒にいられる時間をふやしたくてシャリーも魔術師への道を目指した。
だが、ユリシスに出会って少しずつ、シャリーにも夢が生まれた。いや、心の奥底に隠していた夢に気付いてしまった。
女が自分の意思で思うように生きたいと思った時、女性蔑視すら覆せる力と権力がいる。もちろんより強力な権力者に嫁げばその夫の力を傘に出来る。
シャリーが最終的に求めたものはそんなものではない。
好きなものは好きと、嫌いなものは嫌いと言いたい。素直に生きたい。
──自由に笑いたい……。
貴族としての権威を守るため──。
より良いコネを得ようと集まる者達と、しかし円滑なコミュニケーションをとるため──。
両親や親族を安心させるため──。
そんなことのために笑いたいわけではない。
形ばかりの立場、世界──抜け殻のような自分から目を背けて、貴族の娘として生きる道を受け入れかけていた。
ユリシスと食事をした時、初めてだったかもしれない。自分に敵対もせず、媚びもしなかった女の子は……。
話すほどユリシスは地に足をつけて自分らしく一生懸命頑張っているように見えた。努力が報われなくてもめげずに前を向いて……いつか夢の叶う日を目指している──その様子がとてもうらやましかった。
貴族に生まれてしまったせいで誰のところへ嫁ぐのかもわからないまま花嫁修業は幼い日からグイグイと頭を押さえつけてくる。
薄い水色のドレスが良いと言っても今日のお客様は赤がお好きなのよと濃い赤を基調色にして飾られる。
何を望んでも「ちがう」と別のモノを押し付けられる。
他の貴族の娘たちは当然のようにそれらを受け入れていたが、どうにか逃れようと魔術師を志して本当に魔力を開花させたシャリーには──一人生きていける力を身につけたシャリーにはもう無理だった。
ユリシスにだって庶民として身分の強制はあるだろう。それでも自分の抱えるしがらみより少ないはずだ。そんな風に思うときもあった。
そんな嫉妬めいた羨望もギルバートの死とともに吹き飛んだ。
支えてあげたい。
友達になりたい……友達でいたい……!!
同じ年頃でただ手を取って笑いたい。
──全部とっぱらった私になってもきっとユリシスは一緒に笑ってくれる……! 笑って欲しい……!
シャリーはぐいと顔をあげる。
メルギゾーク最後の女王が倒したいと言った変異体を引き連れて現れたのは──王妃……。
細く息を吐いて前方を見上げる。
上空で余裕の笑みをたたえる敵は──フリューセリア王妃。
メルギゾーク滅亡時、民の大半は後のヒルド国王ライサーに従ったが、少数は別の道を生きた。
少数の強い魔術師達が逃げ出した先、今も強力な魔力を持つ者が多いエリュミスの元姫巫女……フリューセリア。
「……ふぅー」
もう一度深呼吸をしてシャリーは近づくどす黒い雨雲に意識を寄せる。
シャリーにとってあれは恵みで吉兆だ。
自然現象としての嵐が運ぶものは──力を持て余した多量の精霊だ。
雑多な精霊と触れ合えるユリシスだが特には大地と、アルフィードは氷と、カイ・シアーズは風と、ギルバートは火と──そしてシャリーは特に水と相性が良い。なお、ネオは主要な精霊ならばいすれでも相性は良い。
チラリと横目でカイ・シアーズを見る。敵が王妃と己の目で確かめ、まだショックが抜けないようだ。
ネオは──表情に変わりはない。むしろシャリーと同じで気合いが入ったようにもみえる。
アルフィードを見れば疲労の色が出始めている。あんなに沢山の紺呪石を──身体強化の術をかけて肉体を酷使している。元々の体を鍛えていなければ立っていることも出来ないのではないかと思えた。
年長組のカイ・シアーズとアルフィードの穴埋めは自分が──シャリーのやる気は大きく膨れた。
だが、勝手にやるのも躊躇われ、シャリーはカイ・シアーズを見る。
「カイさま、嵐が──風と雨がきます……!」
カイ・シアーズはシャリーに向けた目線をすぐに空へ移す。
「そうですね……」
「変異体殲滅を指示されたのは変異体への対応を習得しておくこと──それから多分……時間を稼ぐこと──ですね?」
王都に残ったメンバーはきっとユリシスを助けに行っている。ならば敵はここに引きつけておかなければならないはずだ。
ネオもまたカイ・シアーズをせかす。
はぁと息を吐いたアルフィードは顎の汗をひとぬぐいしてニヤリと笑う。
「選べよ」
「選ぶ?」
カイ・シアーズは顔を上げた。
「ここで王権に媚びるようでは現状のオルファースと何ら違いません。精霊の前に人の貴賎はありません。また精霊を傷つける者を魔術師が見過ごして良い道理もありません」
シャリーは安堵の息を吐いた。
「では、わたくしは先ほど同様の支援魔術に加えて精霊の精査、とりまとめに努めます」
「アルフィード、代わりましょう」
カイ・シアーズが腰ベルトから十の紺呪石を解放する。
「結構キツいぞ?」
今度ニヤリと笑うのはカイ・シアーズだ。そのまま童顔隠しの伊達メガネをポイと捨てた。
「私は確かに戦闘型ではありませんけどね……それこそ貴族の──シアーズ家を侮らないでいただきたい」
「決まりだな。シャリーは精霊かき集めろ。それを拾ってカイとネオが変異体をまとめる」
「僕も……ですか?」
「あほか。敵は王妃もいるってのに一人でやれるか。どっちかが必ず王妃の視線を引っ張れ」
顎を引いてネオもまた十の紺呪石に込められたら魔術を順に解放し、全身に力を巡らせる。
「でも対変体術は……」
カイ・シアーズもネオも対変体術を使わないのならばその穴埋めは……。
ネオには精霊招集中のシャリーが第一級魔術師二人分の魔術を肩代わりするには厳しいように思えた。
「俺を誰だと思ってんだ? 両手術使いのギルバートの弟子だってこと、忘れてねぇか?」
カイ・シアーズがひくりと眉を寄せる。ただでさえ高難度の古代ルーン魔術、その上慣れない対・変体術……アルフィードはそれを両手で、術を二つ同時に描くという。
「出来ますか?」
「奴らの出力は王妃の支援術でさっきより上がってる。俺も同じ問いを投げてもいいか?」
「愚問でしたね──では、やりましょう」
既に、最後方でシャリーは精霊再分配の術を描いている。
空の半分を黒く埋める雲がこちらへ吸い寄せられるように強風に乗ってやってきている。
ポツリ、ポツリと雨は降り始め、陣を変えてカイ・シアーズ、ネオを前衛にした戦闘が幕を開けた。
フワフワと上下感覚の狂ってくるめまいが再びユリシスを襲う。
しかし、はっきりとわかることがある。
──わたしは……ユリシス……。
ギルバートがどうしてか目の前に現れて自分を見失うなと、自分の名を呟いておけと言った。わけはわからない。
なぜか手も足も体も無い。
この物思いがどこから発生しているのか、何を拠り所に自分はユリシスだと言えば良いのかもわからない。
変異体の中に閉じこめられていたユリシスには片っ端から理解が追いつかなかった。
なぜ自分の肉体が眼前にいるのか。
自分はここにいて離れて、ユリシスの肉体が動くのを、しゃべるのを見ているのだ。
自分の体だと思っていたユリシスの形が動いている理由がわからない。
あれがユリシスならば私は誰なのだ──?
自分のはずの肉体を眺められるのも、他人のようにも見えるのもわからない。
わからないずくしだが、確かに助けてくれるはずだと感じていた。
うねるような熱なのか、芯から力を抜き去る冷気なのか、吐き気を催しかねないこのめまいの渦に辟易してユリシスは次第に意識を閉ざし始める。うつらうつらと極度の疲労に身を任せるようなある種の心地よさすらあった。
『──※※!』
ハッと目を覚ました。
誰かに呼ばれた気がした。
しかし、身動きしなくなったこの変異体はぼんやりと離れた正面にいる半透明の青年とユリシスの形をした誰かが話しているのを映すばかりで何も変化がない。
誰が自分を呼んだのだろう。
──なんという名で呼んだのだろう。
そうして再び意識が落ち始めるとまた声が聞こえる気がした。
──あぁ……夢だ……きっと……。
暖かい波にざぶんとさらわれているような感覚を最後に、ユリシスはその大きな力に身を任せた。
こうして変異体に流し込まれたディアナの力はユリシスに届いた。同時にユリシスの意識はその奔流に飲まれた。
閉ざされていく意識は同時に膨大な記憶の海に放り出される。
両側に太い柱が連なる真っ白な柱廊はだだっ広かった。
柱の片側にはスペースをあけて壁が連なり、もう片方向には空中庭園に面している。庭園は宮殿の中だというのに緑が生い茂っている。
高い天井の柱廊をひとり、コツコツと足音をさせ歩く。
──フッ。
誰かの呼吸に振り返りざまに防護魔術は展開。ギンっと鈍い音がしたと思うと弾かれた長剣が磨き抜かれた床石を滑っていった。
残ったのはきらびやかに豊かな長いローブを身にまとった小太りの男。ひと目で身分は高貴とわかるが、目つきの卑しさは隠しきれていない。斬りつけられたことより、彼の額の脂汗の方がやけに不快だ。
「もう少し、鍛錬してこられてはいかがか。タイロス子爵」
「──くっ」
タイロスは呻いて衣の内から短剣を引き抜きながらもう一方の手で魔術を描く。短いことから紺呪石の外部ルーンを起動していくだけの術だとわかる。
「そんなもので、このわたしに?」
口元に笑みを浮かべて魔力を一気に集めた右手を掲げた瞬間──バチンッと鋭い音が響いた。
小太りの男は目に見えない縄でがっちりと縛られ呻いている。口が開かないらしく罵りの言葉はモゴモゴと意味がわからない。
気分よく痛めつけてやろうと喜んでいた笑みを消し、むっとする。
「邪魔をするのか、キリー」
「暗殺者撃退を鬱憤晴らしにするのはおやめるくださいと、日々、申し上げていたはずですが?」
柱廊の壁側にあった背の高い扉を開いて薄い茶髪の少年が姿を見せた。そちらをチラリと見る。
「このくらいいいだろう? あれもだめこれもだめでこんな暮らし……疲れた」
少年──キリーは簡易の貴族服でローブすら着ていない。彼が出てきたのは宮殿内の廊下に繋がる扉だった。どこぞの部屋から大慌てで駆けつけましたと物語っている。よく気付いたものだ。
「そもそもこの方は……タイロス子爵ではないですか。貴族を殺めると後々面倒です。おやめください。ディアナさま」
「なんだそれ。わたしは女王になったんじゃないのか? 一体何の問題がある」
「あなたの実績はまだ少ない。後援者も同じです。いかにその瞳が、その力が伝説以上に"紫紺の瞳の女王"であることを表していても、まだ平民上がりと侮る者は多いのです」
「面倒くさい。妹を守るためにもなると聞いたから女王とやらになったのに」
「ディアナさま」
「こんなことなら二年前のまま、山の中で毎日フィリアと暮らした方がよかった」
ぶすっと後悔を口にすれば、キリーはふぅとため息を吐き出した。
バタバタと足音がして武装した衛兵十名が駆け込んで来た。
キリーは切れ長の目をさらに強めて「反逆者だ。捕らえよ」と身動き取れず転んで芋虫のように蠢いていた中年貴族タイロス子爵を視線で示した。
衛兵たちがタイロス子爵を抱えて出て行ったのを見届け、何の調度品も無い広すぎる柱廊でサラサラとルーン文字を描く。古代ルーン文字だ。
数歩先にうっすら青白く光る円が浮かび上がる。
「ディアナさま」
一瞬だけ目を瞑り、腰より長い髪をなびかせて振り向くとキリーを睨む。
「その様付けも嫌なんだ。私室へ行く。話はそっちで聞く」
円の上に乗った瞬間、目の前が真っ白になり足元からどこかに吸い込まれていく感覚がする。馴染みの魔術に少しホッとした。
目を開けると散らかった部屋の真ん中に立っている。
人が十人寛げば手狭になりそうな室内には、床いっぱいの羊皮や草で出来たスクロール、魔法陣が刺繍された布が散らばっていた。
隙間にローテーブルが見える。
部屋の奥には大きめのベットがあり、シーツも上掛けも起きた時と変わらない乱れ方をしていた。
客を迎える調度品はなく、スクロールを踏まないように気をつけてベットまで行くと倒れ込んだ。
「っあーー、疲れた。王宮はほんと疲れる」
「ディアナ、部屋は片付けるよう言ってるだろう。ひどいぞこれは」
後をついてきたキリーがブツブツ言いながら床に散らばる魔術の覚え書きを拾っては壁際の棚にしまっている。
魔術でのみ出入りできる扉のないこの部屋がディアナの私室だ。もちろん窓もない。高い天井には鮮やかな絵具で雲が見え隠れする青空が描かれていた。
「わたしが女王になって、何の意味があるの?」
「……」
キリーはふうと息を吐き、足元のスクロールをよけてベッドまで来ると端に腰をおろした。
「民はきみ以上に疲れてるんだ」
「……それは……わかる」
「先の紫紺の瞳の女王がご逝去され五百年。国の理想は廃れ、腐敗は進み、私欲に懐を肥やすことしか考えない支配が何十年何百年と続いている。ゼヴィテクス教の国政への介入も著しい。そろそろこの国には転換が必要なのだ」
「知ってる。そうじゃなかったらわたしみたいな孤児が国中わんさかあふれない」
口減らしに捨てられて生きていけない子供達の末路は悲惨だ。
水よりも安価に売買され首輪をはめられて道具のように使われる。ただの奴隷にとどまらないことの方が大半で、痩せこけて使いつぶされた子供達が町外れに捨てられ野獣の餌になるような光景もずっと続いている。この国の初期や毎度、紫紺の瞳の女王が現れる度に払拭されるのに、いつの間にか復活する奴隷制。ディアナもいずれこの国から再び消し去るつもりだ。
ディアナも捨てられた子供ではあるが、ルーンを扱えずとも燃費は悪いが魔力の放射という武器で身を守り、人に買われず野山で暮らしていた。当時七歳のディアナと五歳の妹フィリアは獣と変わらぬ暮らしをしていた。ディアナはそちらの方が良かったと言っている。
「わかるならば話は早いだろう?」
「バカを言うな。わたしには学がない。今時の字だってやっと覚えたところなんだ。学はさっぱり無い」
「きみ“達”なら──」
ぷっと頬を膨らませて見せる。
「いやだ。過去の女王達のことだろう? 頼るなんて絶対嫌だ。あいつら、嫌いだ」
それは完全に甘えなのだが、キリーにしか見せない姿なので彼もただ笑って聞いている。
そもそも前の紫紺の瞳の女王は五百年前。文字の形や言葉も意味も変化している。勉学という点では役に立たない物が多い。魔術に関しては桁違いの出力によって他の追随を許すことは全くないが。
「何人も頭の中で説教を垂れてきて鬱陶しいんだ。特にソフィアがひどい。うるさい」
「ソフィア……初代女王だったか?」
「そうだ。なんであんなにワガママなんだ? 親代わりだとぬかす始末だ。なぜ何もかも思い通りに支配しないと気がすまないんだ? とっくに死んでるクセに」
キリーがくくくっと声を漏らして笑っている。
「笑い事じゃないぞ、キリー」
起き上がってキリーの腕を引っ張る。
「わからないだろう、意識を上書きされそうになる感覚なんて。へどがでるぞ?」
「ああ、わからない。でもディアナが心底嫌がっていることはちゃんと知ってるよ」
目を弓なりに細めてキリーはなだめるように微笑んだ。
キリーを掴むディアナの手が外されると、それもまとめて大きく包み込むように抱き寄せてくれる。
「代わってはやれないが必ず支えるから」
「じゃあ、あれだ政治とか頭が痛くなる方はキリー担当だぞ」
「わかった」
ポンポンと背中を撫でられると悪い気はしない。もたれかかったままぎゅーと抱きつくと、8歳年上のキリーはそれを受け入れてくれた。親の愛情を知らないディアナをそっと抱きしめてくれる。
「わかったから護衛もなく一人にならないように。護衛が鬱陶しいならちゃんと俺を呼べ」
「──うん」
ディアナが”紫紺の瞳の女王”として即位出来たのは圧倒的すぎる魔力だけが理由ではない。
知り得ないはずの国家の機密情報を過去の女王達の記憶を覗き見たが故に知りすぎていたためだ。
その二点からディアナは反ゼヴィテクス教派に後押しされ、並み居るライバルを押しのけて幼すぎる女王として即位した。
女王になりたての頃はまだ9歳だった。
…………この頃はまだ──。