(013)【3】少女の見る夢(5)
(5)
驚きつつ、アルフィードは次の術を描く。別の解除の術だ。だがこれも徒労に終わると、舌打ちをする。
「ダメかよ」
そして、状況を考える。
今、対象は何かの術をチマチマと編んでいる。鈍かったあの防護術もギリギリで完成させ、氷の槍も見事かわしたようだ。
──間に合うと踏んだから、遅かったのか……? どうだろうな。
そうして、思い至るのである。
──あのタイミングで、間に合った?
「なるほど。しかしそうなると……まいったな」
疑問が答えを導いた。
通常、氷槍の術の速度でこの三十歩前後の距離なら、後出しの防護術は十中八九、間に合わずヒットする。
だが、間に合う場合もある。古代ルーンの短縮言語を用いた時だ。洞窟内で古代ルーンを披露したヤツだ。この場面でも使ったのだろう。そして火急の時、さらに高度な短縮言語を使って見せたか。
今、アルフィードを包むこの土砂の術もまた古代ルーンで書かれていると考えるのが、良いだろう。
アルフィードは古代ルーン魔術を知っている。読めるし、書ける。だが、術を興すまでには、詳しくない。現代ルーンの術は構文がある為、解除もそれに対応した解除術を書けばよい。
一方、古代ルーンには基本はあれど定まった形が無いのだ。解除術の基本は解除ルーンを記述した上で、解除対象の術を、全く同じ文を書き込む。現代ルーンは構文があり、文字数も二十四字と少ない為、解除対象の術がわかっていれば容易い。古代ルーンも基本は同じである。しかし、古代ルーンの術に構文、定まった文字列はほとんど無い。文字数も二百五十六字だ。解除ルーンは書けても、解除対象の術がいかなる文字を使われ、どのような順番で書かれたのか、見当のつけようがないのだ。さらに短縮言語ときている。これは、術を受け取る精霊によって異なるとも言われている。古代ルーン特有の、構文を持たない故の比喩も倒置も、どれがどんな精霊に通用するかなど、重箱の隅をつつくよりも枝分かれした知識だ。
アルフィードは半眼で降り注ぐ土砂を睨んだ。
戦闘中に解く事はまず不可能だ。そんな余裕はもう無い。
──だとしたら……。
アルフィードを包む防御幕は薄くなっていた。土砂の衝撃に膜の面がベコベコとへこみながら、その弾力でぎりぎり耐えている。 元より、それ程長い時間もつように設定した術ではない。
ならば、この術の解けるタイミングで何かするしかないだろう。 対象もそこを狙って今、何がしかの術を書いているに違いない。それもまた、古代ルーンなのだろう。
「ったく。思った以上に、厄介なタイプじゃねーかよ」
アルフィードの表情からは、不敵な笑みが消えていた。
「…………」
ぐっと構えて、防護術が解けた後に発動させていく術の準備を始める。そうしながら、ぼそりと呟く。
「誰なんだよ、コイツは……。こんなにも古代ルーンを使いこなすヤツ、オルファースにいたか?」
相手が沈黙した。
「……何か、怖いなぁ」
何か企んでいるのかもしれない。自分も今記述しているこの術で“決める”つもりだから、何とも言えないが。
ユリシスにとっての『勝利』とは、見事逃げおおせる事だ。
相手に自分の姿を見られず、逃げ切る事。
あの偉そうな子供を連れて都へ逃げる。その間、追跡されないようにする事。ユリシスは呼気と共に小さく吐き出す。
「……成功しますように」
土砂の術で相手の視界を奪ってはいるものの、ユリシスは今も木の幹に隠れている。先程、氷柱の術の対象にされた時は木と木の間を移動している最中だった。見つからない為に木に隠れるが、盾とする為ではない。自然を痛めるような真似は好かない。木そのものの実体を盾にすれば、木の霊に嫌われてしまう。木に関わる魔術を使いたい時にそっぽむかれてはかなわない。
上級の魔術師程、魔術でも、素手でも、破壊を嫌うのは、そういうワケがある。
そして、土砂の術に防御幕が潰れた瞬間。
中から風を纏ったアルフィードが、土砂が自身にかかるよりも早く術の効果範囲から脱出し、対象の隠れた木の幹へ、激突する勢いで突っ込んだ。
──誰なんだよっ、お前は!
──それは、ユリシスの読み通り。
ユリシスはチマチマと練り上げていた術を発動させる。
刹那で全てが変わる。
先程の土砂の術に似た動きの術が、はじまり──。
ユリシス自身を覆うように大地が迫り上がり、土が渦を巻いて立ち上がる。土の壁は両手を広げて手が当たる距離で、円筒状にユリシスを頭の上まで包んでいる。
勢い良く宙を飛んで来ていたアルフィードは、その土壁に肩からタックルをかけた。ユリシスの正面の壁がぼこりとへこむが、穴は開かない。
それは、ユリシスの読みの内。
ユリシスの手元の青白い文字に力の煌めきが走り、周囲の精霊に捧げられてゆく。いくつもの文字列に光が走るのを確かめるユリシスの瞳は、青白い光る文字が映り込み、忙しなく動く。
壁の内側でユリシスが顎をひいて、すいと視線を上げ、へこみの戻っていく様子を見守る。その耳に、壁の外側の声が聞こえた。
「クソっ!」
アルフィードは土壁に巡る魔力波動に気付き、“変化”が始まる前に退く。自身の周囲の風の魔術の向きを変え、土壁を蹴って後ろに飛び退いた。
下がるのが遅れていたら──“変化”を始める土壁を、アルフィードは立ち上がりつつ睨んだ。
今、間近で溶けるように崩れていく土壁。
アルフィードが自身の周囲に張っていた風の魔術が、元の青白い文字に戻りながらさらさらと大気に消えてゆく。術と精霊が切り離されていく。
土の壁にかけられていたのは『触れる魔術から、退け』という強烈な精霊へのメッセージ──術の解除術ではないが、ほぼ同質の効果、精霊へ退去を命じる魔術。精霊は、アルフィードよりもユリシスの声を聞いた。
アルフィードの体を浮かして飛ばし、土壁との衝突のダメージから護った彼の魔術は、ドロドロと溶け落ち、ルーン文字に還り、消えてゆく。アルフィードの術が、無効化されていく。眼前のそれを見下ろし、奥歯を固く噛み、ぎりっと音を鳴らした。風の精霊への影響力で、劣ったらしい。
「また……古代ルーンか!」
土壁の内側には魔力波動がある。ぶち抜くしか、手立てが思い浮かばない。
目前の対魔術のルーンに覆われた土の壁に対して、アルフィードは攻撃の魔術を編み始めた。
苛立ちに一段体温の上がったアルフィードは、気付かなかった。土の壁を隔てた向こう側──こっそりと、穴が空いていた事に。ユリシスが、気配も魔力波動も絶って、こそこそと出て行った事に。
アルフィードは魔力を練る。力を込めれば、例え古代ルーンで守られた壁であってもぶち破れる、その方法でも間違いないはずだ。対魔術の術の許容値を超える力をぶつければいい。あちらの術が壊れる程の、力で。
先ほどの氷の柱を、今度は倍の、十本を左右広げた手の先の宙空に生み出すと、間隙なく一気に放つ。辺りの気温が急激に落ち込み、水蒸気は白い水滴となって姿を見せる。
白い霞が視界の半分を埋める中、対象の土壁へ角度を変えて飛び込んだ十本の氷柱は、しかし、音も無く飲み込まれ、どろりと溶け始める。溶けて流れながら、やはり文字の形に戻って消えてゆく。
アルフィードの魔術もまたしても消滅した。
氷柱十本も無駄に終わらず、霞の向こう、土壁の中央に穴を開けた。穴があらわになると、五本の氷柱が貫いていた内側が見える──。
「いない……!? ……うぉ!?」
ここ何年も、とんと縁の無かった動揺が、土壁の向こうに気を奪われていたアルフィードを襲う。
穴の空いた土壁がどろどろと地面に還っていくのと同時、地面から人のそれよりも大きな、手の形をした土が四本伸びて、アルフィードの両膝を前後左右から引っ掴んだ。
土の手は指を器用に動かし、アルフィードの足を這い上がり、胸元まで登る。その間、アルフィードの膝から下はぐいぐいと地面の中に引っ張り込まれている。アルフィードの体は、ズブズブと大地に呑みこまれて、あっという間に膝まで埋まってしまった。
「ちっくしょう!」
慌てて現代ルーンで解除や抵抗の魔術を組んだが効果がなかった。腰辺りまで呑みこまれ、唐突に力は止み、その術は沈黙した……。
人の気配が辺りに無い事に、やっと気付いた。
森の中ではあるのだろう、離れた場所で魔力波動が感じられる。それは彼の元へは来ない。森を出て都へ……。
静かな森の風景が、戻ってきた。遠くに鳥の声が聞こえ始める。
戦いは、あまりにもあっさりと終了した。
いつもの平穏な森。
その森の中で、腰まで地中に埋められてしまったアルフィードは、ギリギリと奥歯を噛んだ。
「……うそだろう……?」
呟き、眉を寄せると、どんっと腰の辺りの地面を拳で激しく打った。
小石が拳に食い込み、皮膚を破る。微かに血が滲んだが、アルフィードは気付かなかった。
「この俺が……負けた?」
それは、驚きだった。
確かに、自分より魔術をうまく使いこなすヤツはいる。第1級の魔術師は彼以外に十八名も居るのだから、それは認めざるを得ない。だが、うまく闘えるヤツはそういないはずだ。
闘いに、実戦経験は絶対だ。アルフィードは細かなおつかいめいた依頼を受けて魔術を扱うタイプではない。危険と隣り合わせの、犯罪すれすれの、いや、犯罪でも殺しでも、危ない依頼ばかり受け、何度も修羅場を潜り抜けてきた。
確かに今のはまともには闘っていない。こちらの術は発動する前に動きを奪われ、アルフィード自身の機動力も奪われ、逃げられた。
アルフィードの目的は、対象を捕らえる事だった。
実力で面と向かえば負けない自信があった。だが、こちらの実力は、完全に殺されてしまっていたのだ。
間違い無く、敗北。
「……くそッ……」
しばらく下を向いて、しかしアルフィードの表情は変わる。
「くっくっく……ふふ……あっはっはっは!」
空を仰いで大声で笑った。
「そうかよ、そうかよ」
額にぱしんと手を当てて、刺青の入った眦に笑いすぎた証が滲んだ。
「くくく……。おもしれー。おもしろすぎるぜ」
ひとしきり笑うと、アルフィードは気長にこの古代ルーンを解く事を心に決め、一つ目を試した。
それが失敗に終わった時、腰まで埋まって随分と近くなっていた地面に、文字がガリガリと彫られていくのが目に入る。
これはアルフィードの術ではない。
アルフィードはその文字をゆっくりと目で追って、読んだ。
『ナゼ、さついモなク、じゅつヲうツ?』