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メルギゾーク~The other side of...~  作者: 江村朋恵
第13話『ユリシス?』
128/139

(128)【4】ユリシス?(3)

(3)

『──来い!』

 ユリシスの声ではない。ユリシスの口は開かれず、精霊体の内にあるディアナが叫んだ。

 ディアナの右腕周辺に浮き上がった光の塊――古代ルーン文字群から魔術が炸裂するのと同時、力の渦が生まれて爆風が広がった。

 強い空気のうねりが変異体を襲う。

 風の隙間から七色の輝きが溢れ、光と影をくっきりと分けた。

「うっ──」

 マナ姫は描きかけの術を止め、両腕で顔を覆った。

 腕と腕の隙間から魔術の行方と変異体の動きを漸う開いた目で睨む。

 変異体の毛並みは一房も揺らがない。硬直したまま見開く青い瞳にディアナの放ったルーンの光が映り込む。

「──第二波……くるよ」

 左手前方からの声。白いばかりの視界に姿は確認出来なかったがゼクスのものとわかる。

 渦を巻く力がギュウギュウと一点に収束を始める。

 急速に部屋の端から闇が覆い始める。

 精霊の目をかりて見ていたはずの世界が暗転していく──つまり、精霊が離れてしまったのだ。

 精霊と遮断された……。

 見えるのは凝縮されたディアナの魔術。

 闇の中心でにぎり拳ほどの光の珠になっていた。

 回転しながら光りを放つ珠と対峙する変異体は相変わらずピクリとも動かない。

 ユリシスの姿をしたディアナが歩み出て珠に手をかざす。

 変異体と光の珠の間は三歩と無い。

 危ないという言葉は喉の奥に詰まって出てこなかった。

 ……得体の知れない魔術。

 ディアナは何をしようとしているのか。

 描かれたルーン文字は見えなかったから想像も付かない。

「……どうだろうね……――補助ルーン『旋転』頼める?」

 闇の向こうからゼクスの呟くような声が聞こえた。

「え、ええ」

 現代ルーン魔術に分類される『旋転』はいくつかある大規模な魔術のパーツだ。

「なら三つ描いて石に詰めておいて……こっちのタイミングで勝手に開放するから」

 直後マナ姫の左手に熱い指が触れる。ゼクスの手だろう。渡された三つの石はひんやりと冷たい。すぐ側まで来ていたらしい。

「あれは……何をしているのです?」

「俺、術描くから後で……ごめんね」

 ゼクスはそれだけ言って少し離れたようだ。

 魔力の高まりだけが伝わってくる。

 マナ姫は瞼を落として渡された三つの石を左手に胸元まで寄せると右の指を近づけてルーンの記述を始めた。

 ──『旋転』というの補助ルーンを必要とするならば、対象を切り裂き退ける攻撃系のルーン魔術……。

 ゼクスは「どうだろうね」と言った。

 慌てて何かしら術を用意するのはディアナが進めている魔術が失敗でもすると踏んでいるからだろうか。ディアナの放っていた魔術がどういうものなのか、ゼクスはわかっているという事にならないか。



 光の珠は、先にに変異体に打ち込んだ術と繋がっている。

『ユリシス! ユリシス! 聞こえるか!?』

 ディアナは珠に語りかける。すなわち変異体の内部に居るはずのユリシスへ。

 答えがあれば珠から聞こえるはずだったが、声は返って来ない。

 それでもディアナは何度も声がけを繰り返した。

 己の国であるメルギゾークを滅ぼしてでも精霊を食いつぶす変異体を食い止めたディアナディア女王――人生を、命をなげうち己を犠牲にしたディアナの希望は来世だけだった。

 新しいユリシスの生が“紫紺の瞳の少女”の背負う運命で潰されてしまわないようにと願っていた。

魂は二〇〇〇年もの時を経てようやっと新たな生を謳歌していた。まっさらなユリシスという命……貧乏だったかもしれない、夢は遠かったかもしれない。それすらディアナには愛おしく受け入れられるものだった。

 全てを賭して紡がれていたユリシスの人生が、ディアナの祈りが今、へし折られてしまいそうなのだ。

 最初の魔術の輝きで変異体の内側に居るはずの精神体ユリシスに存在する為の力を渡せたはずなのだ。一時的ながら変異体にのまれないだけの力を得た精神体ユリシスは当座の危険からは脱したはずで、既にこちらが見えているはずなのだ……が――。

 ディアナは十回、二十回と呼びかけを続けるが空振りに終わる。

 五十回目からは数えていなかったが、魔術の効果時間の終わりが近い事を感じてディアナは眉間に皺を寄せた。口角が少し開いて両方とも下がる。苦いものを口に無理矢理含まされたように。

 位置を確かに捕まえなければ、捉えなければ……応答が無ければ引っ張り出す術も描けない。

 “ユリシスの精神体”を救うには……変異体の内にいるはずの彼女に返事をするだけの力を与え、呼び掛け、その手を捕まえて引きずり出すしかない。

 もう一度同じ術を描くには紺呪石が無い以上相当の時間をとられる上、“ディアナという精神体”と“ユリシスの肉体”とを繋いでしまった事によるデメリットが障壁になってくる。

 いかなディアナであっても肉体の発信する痛覚で集中力が阻害され、魔力を集めきれるか自信が無かった。

 ここまでの魔術だけではない。ユリシスの精神体を変異体の中から取り出す術も描いていかなければならないとなると余裕は無いのだ。

 闇色の霞が浮き始めた。黒い筋となって珠を割り始める。時間が……魔術が終わる……。

 珠から目線を上げ、獣の青い目を見上げた。

『ユリシス! お願いだ! 応えて!』

 細められた眦に涙が浮かんでいた。ディアナの声は高く裏返ってしまっている。

 ──助けたい、助けたい、助けたい。

『ユリシス! 応えてッ!!』

 胸の内にある強い思いとままならない現状に焦れながらも叫ぶ声は、ヒステリックに懇願する女のようで、女王であったという立場を全て吹き飛ばしてしまう。焦燥に噛まれた唇は痛みを忘れている。

 両方の拳を握り締め、敵前でありながら目をぎゅっと瞑ってディアナはユリシスの声で叫ぶ──もう時間が無い!

「ユリシスぅ!!!」

 応答は無く、変異体とディアナの間の珠が霞と消え行くそこに、新しい魔術の帯が生まれた。びっちりと細かいルーン文字が展開したのだ。

 ハッと気付いて見上げた変異体の硬直は既に解けて青白い毛並みは激しく揺らぎ、同色の瞳は怒り滾っていた。

 獣の爪が高速で振り下ろされる──そのタイミングでルーン文字を青白い光が走り抜け、甲高い金属音が響いた。

 文字は瞬時に膨れ上がって光の塊になると変異体へ向けて巨大な三枚の花びらが開くように広がった。術は先端を回転させながら轟音とともに爪に激突した。

 至近距離、目の前の事にディアナはよろめくように半歩下がると顔の前で腕を交差させて頭部を守った。

 回転する花びらは見かけ以上に硬質であるようで、変異体の爪とゴリゴリと嫌な音を立てて押し合っている。が、一際大きな金属音が響くと、変異体の爪が捩れて割れ、飛び散る。

 花びらは一気に加速し、変異体の手を抉り、肩まで突き抜けてその腕を天井に縫いとめた。

 頭上、血飛沫が舞い降りる寸前、ディアナは抱きかかえられ変異体から距離を取らされた。

 振り返って見上げると、ドレスの裾を払って走って来たのであろう、上気したマナ姫の顔があった。

「……また、返り血まみれになってしまいます」

「…………」

 返事の無いディアナにマナ姫は一瞬眉をひそめる。戸惑った。

 ディアナ──ユリシスの顔が青ざめていたのだ。

「具合は?」

「……問題ない」

 素っ気無い言葉で顔を逸らされた。

 既に、片腕を失った変異体の前には剣を抜いたゼクスが立ちはだかっている。

「次は、どうするのですか?」

 立ち上がるディアナの背に言葉を投げた。術は失敗しただろう……切羽詰った声ならもう聞いた。

 酷かとも思われたが、王妃――母がメイデン跡からいつ帰ってくるかしれない。

 母が何をしているかもわからない上、どれほどの魔術を打ってくるかも想像がつかなくなっている。

 紫紺の瞳の少女にとっては敵である可能性が高いのだから、のんびりとはしていられないだろう。

 ディアナの術が終了し、ここらの精霊は皆開放され再びマナ姫の視界は明るくなっている。

 ゼクスも同じはずだ。

 ゼクスに関しても、ディアナが青ざめて次の手が無さそうであるのと同じで、見た目ほど余裕は無いかもしれない。

 先ほど触れた指先はじんわりと汗ばんでもいた。あの大きな獣を相手にする運動量は、魔術で補っても足りていないのだろう。自分と忍び、アルフィードとユリシスの四人懸かりで苦戦した獣相手にゼクスは一人で立ち向かっているのだ。今は圧倒していても、いきなりプツンとこの戦況をひっくり返されてしまいかねない。

 ──この場で自分に出来る事とは……。

 目線を下げた時、マナ姫はふとディアナの胸元に目がいった。広く丸い襟ぐりのシャツは薄いクリーム色。その鎖骨の下辺り、透けて何か光っていた。

「ディアナ、それは……」

「ん?……」

 マナ姫は自分の鎖骨辺りに手を添えて注意を促した。ディアナの手が自身の胸元に伸びる。

「……」

 紫紺の瞳の見下ろす指先に取り出されたペンダント──ゼクスが預けてくれた石だ。

 久呪石──青白い光を緩やかに放っている。

 ユリシスの指はサラサラと魔術を描く。

 ディアナは現在ユリシスの実体と繋いでしまっている為、スタンプで打ち出すように文字を吐き出してルーン文字を作り出す事が出来なくなっている。精霊体として描いていた時とは違う。今は一文字ずつ実体を通して描くしかない。

 そうして術が発動するとペンダントから投影される半透明の赤髪の男の姿――。

 男は大きく息を吐き出す素振りをした。

『……やっと出られた』

「ギルバートか」

 ユリシスの声はどこか義務的で感情が無い。

「今は忙しい。出しゃばらず待っていろ。その状態を維持するのももう限界を超えているんだぞ」

『出しゃばるなって言われてもな。あれ……俺の本体なんだろう?』

「……そうだが──まさか!」

『ああ、俺には聞こえてるぞ。ユリシスはずっとあの中から叫んでる。どうなってるの、助けて……てな』

「……そう……か」

 手にしたペンダントを握りその瞳をしばし閉じ、開くと変異体を見上げた。

「よし! あの実体とウィルを切り離して精霊に戻し、その後ユリシスを引っ張り出す。ギルバート、手を貸せ。私には声が聞こえんようだ。精神体のみ同士なら……」

より近づけられればとユリシスの肉体と繋いだが、逆に良くなかったらしい。

「本体をあちらに置くお前の声なら届くかもしれん。いや……届けてもらおう」



 熱にうかされたように、前後の記憶も曖昧だ。私の感覚も、感情も、何一つどれが自分のものだったか、区別がつかない。

 どれほど叫んでも、水没していくようだ。

 足元から下へ下へ頭から押し込められているような感覚。下、なのか。上下感覚も薄らいで、意識を保つのも苦しい。それでも、求めた。

 魔術を描き、ずっと語りかけてくる、自分……。

 視界の揺らぎは消えていた。

 だが、声が聞こえなかった。

 視界は鮮明になったが、音は相変わらず水中深くに居るようで酷くくぐもって聞き取れない。こちらの声もきっと……それでも。

『私、だよね!? ──どうなってるの?』

 言葉にすると言いようの無い底無しの不安が足元から衝き上げてくる──……きえ……きえる……?…………消える?

 ──怖い、怖い、怖い!

『助けてッ!』

 知らず叫ぶ言葉は、自分のもののような気がしなかった。

 誰かに助けを求めて良いものなのか。

 日頃隠し事を抱えていた自分が、人を頼る事なんて、人を騙していた自分にはその資格が無いとずっと思っていたから。

 ただ、目の前でこちらを見上げる“自分”の姿に突き動かされる。

 両手を伸ばして取り戻したい衝動──だが、届かない。

『助けて! いやッ! わけが──』

 涙で視界が揺らぐ気がした……ほぼ同時、実際に視界が赤く色を付け始め振動する。

 そこに聞こえた絶叫──名を呼ばれた。

 自分の名がユリシスという言葉である事を思い出した。

 視界は再び大きく上下左右に回転する。

 この目が追いかけているのはゼクス。

 シャープなシルエットはとても速く、視界に捕らえてもすぐに逃げられる。

 ──今まで見た事がなかったゼクスの姿。普段のへらへらと笑う雰囲気ではない、凝縮された強い威圧感を放つゼクス。

 己の名を思い出した瞬間にまた沢山の事がクリアになった。

 マナ姫とその忍び、そしてアルフィードと大きな犬のような獣と戦っていたはず……そこから急に“ここへ”飛んできたような気がする。

 マナ姫の姿は先ほど視界の端を掠めた。

 目の前のゼクスはいつ来たのだろう。

 アルフィードは、忍びの人はどこに行ったのだろう。

 そして……何故か、自分が居る。

 ──あれがユリシス? 私がユリシス?

 ドキドキと脈打つような感覚があるように思われたが、手を胸に当てて確認しようとしても自分には手が無かった。体が無かった。

 ぐるぐると見回して、このように思考している“私”が居ない。見回したと思った正体不明の自分も何だかわからない。

 ──私はユリシスで間違いないと思う……なのに――。

 その瞬間、また視界が大きく動いた。

 再び、自分……いや、視線の先に立つ自分だと思っていた少女と隣に立つマナ姫の姿。

 だが、その二人の前に──。

『えッ!? ……ギ、ギル??』

 驚きは声になった。

『ユリシス!』

『え?? え? え?』

 赤い髪と笑い皺のある、もう思い出の中にしか無いはずの姿──それが目の前で、確かにこちらを向いて呼びかけてくる。

『ユリシス! 聞こえてるか?』

『……ギ、ギルバート???』

 勝手に涙が溢れていた。

 零れないようにと思うのだが、その感触を確かめられない。涙なんて、無かったのかもしれない。自分には形が無いのだから。

『ユリシス! 平気か?』

『う、うん、多分。よく、わからない』

 平気なのかと聞かれても。何がどうなっているのかさっぱり掴めない。どういう状態を平気と呼ぶのだろう。

『え……なんで……? ギル? 本当に?』

 おかしい……ギルバートは確かに、この手に血まみれて……。アルフィードと墓さえ作った。遺体は盗まれていたけれど。

 あれからメルギゾーク王都跡に行き、出会ったゼクスと共に戻った。

 アルフィードと行動し、王城地下を歩いた。

 他にもたくさんの事があった。それは夢だったのか……。

 ――ギルバートは生きていた?

 そんなわけは無いと思いながら彼の半透明の姿を見下ろしていた。

『平気か……よかった』

 安堵の声に溢れた涙は零れたと思う。だが、自分の姿は、ユリシスの本来の形はマナ姫の横で厳しい顔をしていて、ギルバートに何か強い調子で言葉を投げているように見える。その声は聞き取れなかった。

 ──“ここ”にいると“私”が感じる“思い”は、“精神”は、何? 誰?

 困惑しきった心へ、ギルバートは変わらず『ユリシス!』と呼びかけてくれる──ならば、自分はユリシスで良いのだろう。そんな風に決着を付けた。

 すがるようにギルバートを見つめる。

『お前は今、捕まってるんだ。まず本体のエネルギーを抜いて、その後お前を引き剥がす。その時衝撃があるかもしれない。心の中で自分の名を叫び続けろ』

『……どういう意味?』

『いいから、今からそうしてろよ。お前はユリシスだ、誰でもない、ユリシスだぞ! ──伝えたぞ』

 最後の一言はユリシスへの言葉ではない。低い声は誰かへの報告。せっぱつまっているようにも聞こえた。

 目の前が霞む気がする。揺らぐ視界の先に、先ほど見つけた自分の姿……形。

 ギルバートはこちらを見るのをやめて、彼の隣のユリシスの形の方を向いて何かしゃべっている。マナ姫も時折何か話しては頷いている。歯がゆい……聞き取れない……。

 マナ姫が一人先にルーンを描き始めた。

 そして──形もこちらを向いてルーン文字を描き始める。見た事の無い構成、そんな術は知らない……。

 そしてギルバートの姿は消えた。ユリシスの形が描く魔術の中に取り込まれたように見えた。

 形は、蒼と紅の溶け合った紫紺色の瞳でこちらを射抜くように見据えている。

 あの瞳の色は気味が悪いと思っていたのに……見とれた。ふと、口の動きが見えた。

 ──カナラズ、タスケルカラ……ユリシス。

 詰まった言葉はふっと空気になって漏れた気がする。

 形の表情は厳しく、顔色は悪いように見えた。汗が額から頬へ伝っている。

 ……ソコヘ……カエリタイ。

 物思いはそこで途絶えた。

 大きく包み込む、何かが囁く。

『もう少し、がんばって……ユリシス。……僕も……がんばるから……!』

 …………?



 ごうっと精霊が渦巻き、獣の動きが止まる。

 想定していたものとは違う反応。

 術の記述は間違っているわけがない。

 一字一字、止めもハネすらも入念に描いている。その時間の分だけ構成は確認をしている。

「な、なんだ」

 ディアナは動揺をあらわにした。余裕なぞない。

 変異体の背後から迫っていたゼクスが足を止めて、周囲を見回す。

「変だ……精霊の動きが……」

「反発だと? この私のルーンを無視するか!?」

 停止した獣の背の青白い毛が逆立ち渦巻いた。

何かの、誰かの術が動いている。

 獣の背中の上、浮き上がった何かがすぐに人らしき形を取り始める。ただし、上半身のみ。

 獣の背に現れたのは、男――。

 細い顎の面構えはすっきりと整っている。半透明だった男の姿にじわりと色が付き始めた。

 切れ長の目はゆっくりと開き、肩より少し長い髪にも黒い色が乗る。

『ちがうから……』

 小さな声は、音量を調節しようとしているのか何度か呟かれた。

 ほんの数秒、沈黙。

 男は何度か瞬いた後、ゆったりと微笑んだ。

『そうじゃないから。普通に失敗してるよ、ディアナ』

「…………」

 身構えたまま肩で息をしていたディアナは獣の背中に現れた上半身のみの男の姿を見上げる。

『精霊の動きが君が考えてるものと違うのは、僕が補正してるからだよ』

「……ちょ…………ウィル?」

 背後から横に回りこんだゼクスは息を飲んだ。

 ウィル・ウィン──ギルバートの精霊体を制御する精神体の名であり、現在変異体の要とされ、王妃の支配下にある、はずだ。

『久しいね、キリー。二〇〇〇年ぶり……ぐらいかな』

 ゼクスの言葉に男は――ウィルはニッと笑った。

『……それは……後でいいか』

 ウィルは小首を傾げる。

 三十代半ばのギルバートに対して、彼の本体であるという“精霊体ウィル”は十歳は若く見える外見をしていた。

 実際のところ、精霊に実体の概念――外見や年齢は本来不要なのだが、上位精霊など意識を持つものはこうして見た目を付加する事がある。

『ディアナ。失敗しているよ。誤りがあるわけではないんだけど。ルーンは変な解釈をされ、作用したんだと思う。多分、僕が中途半端な状態……精神体一つを取り込み損ねた上位精霊だから……だと思うんだけど。このままだと君の“一人”が消えてしまいそうだ』

 マナ姫はちらりとディアナの様子をうかがう。消えてしまいそうな精神体とはユリシスの心……ということか。

『僕が取り込み損ねている精神体は……ギルバートはもう実体を失って精霊体に取り込まれるべき精神体だから、なんとかなったんだろうけど。君の内の“一人”は、まだその実体が生きている最中の……今生きている存在の精神体だよね?』

 ディアナが小さく頷く。

『加えて、僕は獣から意識を引き離されているけれど……ええと、つまりこの獣という実体の制御から遠ざけられてるんだけど、その為に実際それほど密接ではない僕と獣の核は大きく揺らいだ。その揺らぎで、僕もなんとか身動きが取れるようになったみたいなんだけど、それはいいんだけど、この獣の内に囚われている他の精霊達……エネルギー体に変換されたはずの精霊達が暴れて、そりゃもう暴風雨みたいな状態になってるんだ。見た目は変わんないけどね。それで、巻き込まれて君の“一人”も消えてしまいそうだ』

 先ほどマナ姫の補助ルーンを借りてディアナが描いた魔術は辺りに散らばっていた。

 途中で停止してしまった為、連鎖発動を待つルーンが滞空したまま大きく揺れて青白い光を放っている。

 ウィルの言う『君の“一人”』とは、ディアナという精霊体の内の一人、まだ取り込まれていない一人──ユリシスの精神体を指している。

「……そういう事……か」

『一体何がどうしてこういう事態になっているのか知らないけど、これほど厄介な状況って四千年位上位精霊やってるけど、初めてだな』

「私だって初めてだ」

 ディアナのむっとした声音にはウィルに対する甘えがある。

『手探りだね。そもそも精霊を分割するなんて手法が出来てしまったのが問題だ。この……青い珠?』

「そうだ……メルギゾーク滅亡の際、これが発覚する前にウィルは眠ったんだったか」

 眠ったという言葉は精霊としての立場から言っている。

 メルギゾーク末期に人として生を受けていたが、滅亡前に死に、精霊に戻って回復の為眠った――そういう意味だ。

『うん。名前は……あれ、さっき覚えてたのにな……ど忘れした。でも姿はこれ、その時のなんだけど。ほら、僕はウィル・ウィンという精神だけどさ、なんか姿は次に強力な精神が出るみたいなんだ。君は、姿も精神も一番強いものが出るんだっけ』

 ウィルはゆったりと言った。応えるディアナは溜息を吐く。

「……それより、どうするべきだと思う? 私は召喚系列のルーンを組み合わせるつもりだが?」

『う~ん、それだけじゃだめかも。それに僕も……こんな状態のままだとつらいな』

 そう言って散らばったまま停滞するディアナの魔術に目を向けた。ウィルは指差し確認をして、何か探していたが、ある一点でぴたりと止まった。指先は開かれ、手の平が今見つけた一点へさし向けられた。

『遅くなったね、さあ、おいで、僕の一人』

 内側から光を放つウィルという精霊体の黒い髪は美しい銀色のようで、それがさらりと揺れた。

 伸ばされたウィルの手元で古代ルーン文字が揺らぎ、解け、光が揺らいで解き放たれる。

 ウィルの術の導きによって先ほどディアナの描く魔術に取り込まれていた半透明のギルバートの姿がほどかれる。ギルバートは顔を逸らした。

『……だが……まだユリシスが』

 ウィルという精霊体が、戻るべき、還るべき、魂である事をギルバートは感じている。既に一度取り込まれかけていたのだから。

『わかってるよ。だから、もう少し力がほしい。君の生きた時間のすべてを。その力を、僕に』

 精神体が実体を持って生き、経験した記憶が、唯一精霊を成長させるということわり

 ギルバートは逡巡したが、ウィルの手を見た。

 その次の瞬間、半透明のギルバートの姿は弾け、沢山の光の粒になった。

 光の粒はウィルの手に吸い込まれていく。

 ウィルはその手を抱きとめた。

 二、三度の瞬きの後に、ウィルの銀色の髪に一房、赤い髪が流れた。

「──想定外の進め方だが、これで一点、クリア、か」

 ユリシスの声でディアナは呟いた。

 ギルバートは無事、本体である精霊体ウィルに取り込まれ、あるべき摂理に則り自然な姿へと戻った。

 ウィルは精霊体というものから精霊というものになったと言える。

 切れ長の目を細めてウィルは大きく息を吐き出す。再び向きをユリシスの姿をしたディアナへと戻した。

『結局、手は一つしかない。さっきのディアナのルーンと僕の補正したルーンでこの獣から僕は切り離される。だけど、そうするとこの獣の中枢が無くなる。変異体という構成、形成がバラバラになってしまう。僕が欠ける事で維持が出来なくなってしまうんだ。既にユリシスの精神は揺らいでいるし……。一時的に君を分化させて放り込んでるとはいえ限界がある。もし、ユリシスを助けたいなら、獣の形を失わせてはいけない』

「ばかな……! そんなマネできん!」

 マナ姫は首を傾げた。

 話の内容に付いていけない。それもそのはずで、何千年と精霊として記憶を持ち続ける上位精霊、地域によっては神と呼ばれる存在達の会話なのだから。

『僕はもう分離が始まっている。ユリシスを消さないためには、彼女を中枢に据えるしかない。助けたく、ないの?』」

「助ける! 私は必ず」

『ならば、一度“ユリシスという変異体”を作るしかない』

「!?……ちょ……と……本気で言ってる?」

 ゼクスが間に入った。

『僕が完全に分離されてしまう前でないとこれの中枢に接触出来なくなる。元々そんなに近いわけでもないし。五秒以内に決めて――、ディアナ』

「五秒……」

 小さな声で呟くマナ姫をディアナは押しのけた。

「わかった」

 迷いは消し飛んでおり、即答だった。

「そちらが主体で魔術を描く方が効率がいいだろう。私は何をすればいい?」

『僕が失われる事でこの変異体はエネルギーの大半を失う。君のエネルギーで補って。そうする事でユリシスも本来のエネルギーの供給も受けられて少しは持ち直すから……ね? ここにだけ、僕らの希望がある』

 ディアナは大きく頷いた。

『再構築は僕がやる』



 ルーンが輝く。光に包まれる部屋でなお一層――。

 強い力が渦巻いて、この霊脈瘤の至る所から精霊が集められている。

 部屋の中は強い力による輝きに満ち、あまりの眩しさに耐え切れずマナ姫とゼクスは目を閉じていた。

 実体で直視はきついだろうね、とウィルは呟いた。

 一方で、ユリシスの肉体を使ってルーンを描くディアナはその紫紺の瞳で真っ直ぐに、頭にウィルの上半身を生やした状態の獣――変異体を強く睨んだ。

「この私が、変異体に手をかさねばならんのか……なんたる屈辱……」

 守りたい、助けたい救いたいと思っていた。

 憧れを抱いた……紫紺の瞳の女王などという呪いの手から解き放たれたユリシスの生に。それが今、穢される。

 長く続いたメルギゾークという国に終止符を打たざるを得なかったディアナにとって憎むべき存在――変異体。そんなものに己の希望たるユリシスを変えてしまわなければならない屈辱。

 この変異体を今滅さないという点もそうだが……。

 ユリシスを無事救出し、彼女がその生を全うしたとしても、その後には“変異体であったユリシス”という存在を自分の内に、ディアナは己の中に取り込む事になる。上位精霊として。

 憎んでも憎みきれぬ、滅しても滅し足りぬ変異体であったという過去を内に抱え込まねばならぬのが、引き裂かれんばかりに痛い。

 沈痛な面持ちで術を描くディアナにウィルは眉を上げて言った。

『なに、それほど酷い体験じゃないさ。変異体なら僕も一度、今まさになってる。君一人じゃないよ』

 ウィルの声はゆったりとそよぐ風のように優しくディアナの耳を撫でた。

「気休めになぞなるか……」

 ディアナ……ユリシスは半分笑い、半分泣くという曖昧な表情をした。

「変異体になってあれほど迷惑をかけておいて、よう言うわ……」



 ゼクスとマナ姫が目を開いた時、変異体――狼の姿をした獣が、元の魔法陣の中へ吸い込まれていくところだった。

 相変わらず青白い毛並みがさわさわと揺らいで、真っ青な瞳はどこを見てるのか意識を感じられない。

「今は、あれが……ユリシス?」

 獣の頭の先までが魔法陣に飲まれる直前、マナ姫は小さな声で呟いた。

 この魔法陣から解き放つには主の命令、あるいは相応のルーンが必要だ。次はここから助けださなければならない。

 力なくユリシスの形をしたディアナはしゃがみ込んだ。崩れるように。

「今回はこれで終わりだな」

「終わり? 助けないの?」

『助けたいのは山々だけど。ちょっと、ね……――どうかな』

 ゼクスの問いにはウィルが答えた。

 変異体から解き放たれたウィルは今も半透明ではあるが、今度は全身がある。足から頭まで、大きさはヴァイヴォリーグのように巨大という事は無く、人と変わらず、ユリシスの姿の隣に立っていた。

 ギルバートを取り込み、また変異体から脱した彼は、ヴァイヴォリーグと同じく純粋な上位精霊という状態だ。

『あの中に囚われた事のある僕だから言うけど、変異体になったばかりでは……他に囚われている困惑した精霊らにあてられて変異体の中の精神はなかなか自我を保っていられない。植えつけられた主の書き換えは出来なかったから、主の言う事しか聞こえない状態だ。でも、上位精霊であるディアナの力と、ユリシスは本来結びつきのある精神体だから大丈夫だとは思うんだ。僕が中枢であった時よりも多分、安定してまだ長持ちするよ』

 そう言ってウィルはさらりと流れた髪を一房手櫛で梳いた。その一房は、赤い髪をしている。

「過去に例があるのか……無いであろうが」

 下を向いたままディアナが呟く。

『あるでしょ? 大丈夫だよ。僕は抜けられた。次は彼女を分離させて取り戻せばいい。その時はあの形が失われたって問題ないのだから。ね? 大丈夫だから』

「根拠になっとらん…………」

 ディアナの言葉は途切れた。両手を顔に当て、そのまま地へ臥した。震える吐息。

 そうしてディアナは一度両腕を振り上げ、勢いまかせで地面を殴った。

「……………………くそ」

 怒りに苦しむ唇は強く引き結ばれ、紫紺の瞳からは一筋の涙がこぼれた。

「実体があるというのは……。思い惑い執着に囚われてしまうのだな……なつかしいわ──なんとも難儀な……ふふ……」

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