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メルギゾーク~The other side of...~  作者: 江村朋恵
第13話『ユリシス?』
127/139

(127)【4】ユリシス?(2)

(2)

 一度の雄叫びの後、術は音も無く進行した。

 球体傍の魔法陣の上に結ばれる像がある。

 浮かび上がるように形成されていく形は青白く険しい顔の狼……獣――。

 ディアナもマナもゼクスも、静かになりゆきを見守る。

 精霊を感知する者なら、次第にこの場から精霊が失せていく事がわかるはずだ。獣に吸い上げられているのだ。

 術の妨害も挑戦する事は出来ただろう。だが、三人は手を出さない。

 魔法陣を用いる程の大がかりな魔術となると十中八九対策も施されている。徒労に終わる事は目に見えていた。

 魔法陣を形作る線に何度もキラキラとした光が走り、力を受けては獣も一層色濃く、盛り上がった筋肉も力強く脈打った。

 姿の全てが顕になると振動は止んだ。

 獣は青白い硬そうな毛を全身にまとっており、狼のような形をしている。

 大きさは人の四倍はあるだろう。

 顎を突き上げて顔をぶるぶるとふり、肩をいからせて立つ。足元から青白い力の残滓が水蒸気のように辺りに散った。

 マナの記憶が正しければ、前回遭遇した獣より青さが増している。

 先日の獣はディアナの魔術によって子犬ほどの大きさに変えられていた。

 同じ獣だとすると新しい体を与えられたのかもしれない。あるいは、別の獣かもしれない。今はまだわからないし、わかる必要はなかった。

 鼻筋に深く刻まれた皺をひくひくと揺らして獣は静かに威嚇してきている。口角を時折大きく開いて牙をむく。

 鋭く尖った爪一つ、牙一つ――ぬらりとした危険が感じられる。触れるまでもなく、近付くだけで魂をも削り取られてしまいそうだ。

 少し、息苦しい。マナは踵一つ分下がった。

「……」

 ゼクスはベルトから外した紺呪石を一つ弾く。

 石からは輝き――ルーンが溢れる。光るルーンはゼクスの周囲を一巡している内に霞のように粉々になった。すぐ後、再び文字の形をとった。

 新しい文字列は先ほどとは異なる内容を描いている。

 文字は十秒もしない内に大気に溶けて消えたが、ゼクスは目を通し終えている。

「復元の試作型プロトタイプかな。メイデンで見たのよりは完成度高そうだけど、昔のものよりは遙かに劣ってる。よかったよかった」

 ぺろりと舌なめずりをして、ゼクスは呟く。

「──これなら、俺一人で充分」

 紺呪石には相手の内側にある精霊要素を全てではないが、盗み見る術が込められていた。

 指示のルーン文字が消え、盗み見てきた精霊によって文字が描かれて伝え返すまでが術だった。

 空になった石を捨て、ゼクスはすらりと左手で剣を抜く。剣には右手をかざして文字を描いた。

 言わずもがな、古代ルーン文字で描く付与術だ。

 小さく濃い色で古代ルーン文字が踊る。

 ゼクスは剣を右手に持ちなおし、一歩前へ出た。今回の顔ぶれでは自分が前衛を務める必要がある。

 ぷらぷらと軽く体をほぐした後、手首を回してひたりと構える。

 ゼクスは動きを止め、獣を睨んだ。日頃のへらへらした表情は消えていた。

 獣はゼクスを只者ではないと認識したのか、口角を上げてむきだしにした牙の間から白い煙のような息を吐き出した。

 どちらも距離を縮めようとはせず互いをじっと見ている。

 警戒を強める獣に対し、ゼクスはふっと息を吐いて飛び出す。

 黒装束の忍び――マナ姫の隠し忍びだけではない、戦闘特化の第一級魔術師アルフィードすら苦戦を強いられた獣の爪がゼクスを襲う。

 直進ではなく迂回しつつ接近していたゼクスは爪をふわりと避け、そのまま獣の腕に乗って足場にしてしまった。音のない動きは体術と魔術が綺麗に融合しているせいだ。

「ちょっとウィル。俺をバカにしてんの? それともその体じゃ動きにくいって“言い訳”でもするつもり?」

 ゼクスはついと下がって爪の上に移動した。獣を見下ろし、軽く挑発する。

 言葉が通じているのか疑問視されるところだが、挑発が効く相手ならば、動きが読みやすくなる分効果はあるだろう。相手の気合が入ってしまうのが難点とはいえ、そこさえ計算に入れておけば問題ない。

 緩い声音に獣はぶるんと頭を振った。体をぐっと捻じ曲げて一歩退くと、反対の腕を大きく振り上げた。一呼吸置かず、ゼクスに爪を振り下ろす。

 大気を巻き込む素早い攻撃だったが、ゼクスはこれもあっさり跳んでかわし、獣の青い毛並みの上にトンと降り立った。

 獣の背中に手早く魔術を描きあげ、軽いステップで下がる。

 獣がゼクスを振り落とそうと身を揺らす寸前にゼクスは尾っぽの付け根を踏みつけて天井へ飛び上がっていた。

 天井に手をついて切り替え、やはり音も無く床へ着地するゼクス。

 両肩を上げてゼクスを追いかけようとする獣の背で術が爆発した。

 青白い毛並みがずしんと揺れるも傷はつかなかった。

 だが、魔術はそれだけで終わっていない。

 爆炎が獣の背中の上でかき混ぜられているかのようにグルグルと回転する。炎と煙が消えた中心には青白い魔力の剣が鋭い切っ先を下にして生まれていた。

 そのシルエットが揺らいだ瞬間、剣は轟音を立てて獣の背へ降り注ぐ。

 1本にしか見えなかった剣だが。一本落ちても二本落ちても、十本、百本おちても消えなかった。数えきれない魔力の剣が獣の背をぶっ叩く。

 やがて、一際大きな音がして獣が押しつぶされるように膝を折った。

 青白かった毛並みが次第に色を失ってゆき、背中から血飛沫が舞い飛んだ──……耐性魔術、防護魔術をぶち破ったのだ。

 残った剣が今度は獣の背中に突き立っていく。衝撃に耐えるしかない獣の正面でゼクスは指先をちょいちょい動かし、鼻歌交じりにも見える様子で古代ルーン文字を描いていた。

 対峙する獣は所詮は試作機プロトタイプ。望んで過去世に変異体の強さを見せてもらい、対策も知り尽くしているゼクスには敵では無かったのだ。

 マナ姫はゼクスが前へ歩み出た時、援護するべく術の準備をしていたが、不要であったと気付いた。

 獣とゼクスの様子を信じられない面持ちで見守る。

 野良師ゼクスの戦い慣れた動きは当然の事ながら、それ以上に随時描かれる魔術に目を見張った。

 全て古代ルーン文字……何が書いてあるのかわからない程に細かい。離れた場所からは確認が出来ない。効果が発現して初めてわかる。

 小規模なルーンの塊が、いくつもの動きを持つ術に――記述が膨大になりがちな古代ルーン魔術になるのかと驚嘆せざるを得ない。

 これほどの魔術師でありながら野に紛れていたのかと思うとぞっとする。

 ゼクスが今描いているルーンもマナ姫は目を凝らして読み解こうとする。

 昨日、ゼクスが伝えた、変異体を打ち滅ぼす魔術の記述だ。

 呆然と見つめるマナ姫の横でディアナはユリシスの重い体を抱え、じっと獣を見ていた。

 が、ふとゼクスに目をやって一歩前に出た。

「な!?! おい、ばか! それは使うな!」

「え?」

「あれはウィルだぞ! ええっと、ギルバートだぞ!? お前、滅する気か!」

「……あ、そっか、そうだっけ」

 ゼクスはあははっと笑った。しばらく後、疑問を呈す。

「え……こいつ、どうしたらいいの?」

 なおも低い声で唸る変異体を前に、ゼクスは剣をぷらぷらと揺らした。

 マナ姫は緊迫感の無さに気が気ではない。

 ゲドにもユリシスにも大怪我を負わせた変異体を前にしているというのに。一瞬たりとも注意を怠ってはいけないはずなのに。

 ゼクスの問いにディアナはユリシスのまぶたを一度落とし、持ち上げる。

 次の瞬間には紫紺色の瞳が潤んでいた。

 紫紺は青と赤が入り混じり、見る者に吸い込まれそうな印象を与える。その瞳でゼクスをちらりと見、すぐ変異体に視線を移した。

「――“位相零式”九番、“離法参式”七拾弐番」

 ユリシスの声でディアナが言うとゼクスはベルトにはめてあった紺呪石をぷちぷち外して用意した。ここへ来る前に作った紺呪石だ。

「――あの中に、ユリシスの気配を感じる」

「あの中? 獣の? それに、ですが、あれにはギルバートが?」

 マナ姫の問いにディアナは微笑む。

「おそらく、ユリシスの精神体という形を保持する為に、精霊体であるウィルが持っているのだろう」

「そういうことが、出来るのですか?」

「私にはできん。だが……変異体を操る事が出来るならば、あるいは」

 ゼクスの手の中の紺呪石が淡く光を放つ。

「準備できてるよ、どうすんの?」

「わかった。ひとまず“ユリシス”に呼びかける。確認せんとな」

 ぽいと投げられた二つの紺呪石を受け取り、ディアナはぐっと握り締める。

「ゼクス、時間を稼いでくれ」

 請われ、ゼクスは薄く唇を開いた後、にこっと笑って「はいはい」と返事をした。

 ディアナはまっすぐ獣を見る。

 今まではぼんやりと繋いだり繋がなかったりしていた。必要が無いのなら、繋がないに越した事はない──怖いのだから。

 繋いだ感覚は真っ先に痛みを伝えてきた。

 生きていた頃は常日頃怪我と隣り合わせだった事を考えれば、実に懐かしい。かと言って感傷にばかり浸ってはいられない。

 こうして生身を持って、意思を持っていたって、自分はあくまでも精霊であり、ユリシスの魂の一部だと言い聞かせねばならない。

 さもなくば、自分もまた“初代”と同じになる。

 ディアナは初代を嫌うつもりはないながら、“今生きる者”を尊重したかった。何よりも強く願うところだった。

 自分はもう人ではない。

 忘れてはいけない。

 この痛みのもたらす甘く強烈な誘惑に引き込まれそうでも。この生は、自分のものではない。

 ディアナはその力ある瞳で変異体を見る。

 変異体は既にゼクスと戦闘状態に入っていた。

 ゼクスは付かず離れず、大ダメージを与える事も無くまた与えられる事も無く立ち回っている。

 拳の中で二個の紺呪石がガリッと擦れた。

 ディアナの腕が、指が、石に魔力を注ぐ。

 八人分の魔力を操る最後の女王が力を使う。

 力の塊を石に溜めこんでいく。

 紫紺の瞳はゆらゆらと集まってくる周囲の様々な精霊を視界に収めていた。

 精霊らはもう、身動きが取れない。

 なぜならば、ここに真の“紫紺の瞳”があるからだ。

 ディアナはその事を知っている。

 紫紺の瞳に魅入られ、精霊らは唯一つの道筋を知る。力強い意志を持つ紫紺の瞳へと、精霊は吸い寄せられる。ふわり、ふわりと。

 そして、精霊らはユリシスの肉体を使って描かれる青白いルーン文字をがぶがぶと飲み込んでいく。

 ディアナの腕の中で精霊らが渦を巻いて発動を待つ。

「……――見つけた」

 ディアナの操るユリシスの口角がすっと持ち上がった。



 第一級、第二級魔術師と国内でも人数の少ないランクの術師同士だ。当たり前のように全員が面識もある。

 アルフィード、カイ・シアーズ、ネオ、シャリーらは雑談で移動時間を潰した。

 適当な雑談と言っても、魔術師同士の情報交換の意味合いも含まれており、あっという間に時間は過ぎていく。

 一時間余り、狭い“地穴”という術に放り込まれて辿り着いたのは、荒涼とした大地。だだっ広い、乾いた赤い大地。

 真横から朝日が黄色に近い色で突き刺してくる。こちらでは、王都で降っていた雨は降らなかったようだ。

 早朝である為の涼しさだろうが、この日射しでは日中は相当暑くなりそうだ。

 一呼吸しただけで全員が理解した事は、精霊の希薄さだ。

 荒涼とした大地には精霊は根付かない。

 魔術師は魔術の源の魔力を持ってはいるが、様々な効果を発動するのは精霊だ……精霊の少ない大地は多かれ少なかれ心許ない。

「っつあー……」

 首をゴキゴキと鳴らしながらアルフィードは伸びをした。長身のアルフィードにとって腰か首をずっと曲げた姿勢でいなければならなかったのはひどい苦痛だった。

「次があったらもっと広く作らせねーと、体が持たん……」

 他三名から少し離れて大きく肩をまわした。

 延々と赤茶けた岩肌が続く景色。地形に大きな高低差は無く、地平線まで見通せそうだ。

「昔、都があったんですね」

 シャリーがぽつりと呟いた。

 大昔、一度は整地されたのだろう。

 だが、滅ぼされ、打ち棄てられた。

 ぐるりと周囲を見渡す。

 北西にでこぼこと影がある。唯一、何かありそうな場所――。

 四人はぞろぞろと、しかし足早に移動する。

 都の跡と解釈出来そうだ。

 角は丸くなっているものの明らかに人の手が入った岩が転がっている。建造物の一部かもしれない。

 二千年以上前に切り出されたとおぼしき岩はほぼ同じ大きさで複数連なって壁だった様子をかもしていたり、門に見えるような形で積み重なっていたりする。朽ちた砂けぶる風景が広がっていた。

「どうやら……大きな建物があったようですね、柱の跡でしょうか……とても大きい」

 根本で途切れた円柱の直径は大人が寝転んでもゆとりのある大きさだ。

 カイ・シアーズは元々調べていたメルギゾークに関する記録を思い返し、現在目の前にあるメイデン跡を照らしあわせていた。

 ネオはカイ・シアーズの後ろをついてまわった。

「昨日、聞いた限りでは……ユリシスの中に居た人が言うには、都は破壊されたんですよね。滅ぼしたと言うからには……――。そうだとして、これだけまだ形が残っているのならやはりここが……」

「王城、だったのでしょうね」

 カイ・シアーズの答えにネオは頷く。その後ろにはシャリーが居る。

「“変異体”と戦った拠点だったという事かしら?」

「それは……あの女王様に聞かないとわからないんじゃないかな」

 ネオも考えてはみたが、結論を出すには途方も無い気がした。二千年はあまりに長い。

 当事者に聞ける事を思い出して答えたが、シャリーは口をへの字に歪めた。

「……声はユリシスなんだけど喋り方がああじゃ、とても話しにくくて……」

 ネオは目を細めて微笑った。

「そうだね、違和感凄いね」

「本当に。ユリシスには早く戻って来てほしいものですわ」

「……でも、あの瞳の色……」

「綺麗でしたわね、吸い込まれそうな程」

「……僕は少し、怖かったかな。ほんとは、ユリシスと初めて会った時もちょっと思ったんだ、あの色はなんだか──」

「おい! こっち、足跡あるぜ、竪穴に続いてる」

 一人ずかずかと瓦礫の奥へ進んでいたアルフィードの声が届いた。

 遮られてしまったネオの言葉の先が気になったが、シャリーはカイ・シアーズに促されるように進み、三人してアルフィードの元へ駆けた。

 全員そろって穴の淵に立って底を覗き込む。

 地面に大きく口を開くその穴は涼しげな大気を巻いて低く長く鳴いていた。

 穴のへりは地下の冷たい空気と太陽の熱が混ざって気色悪い。

 穴は王都ヒルディアムで標準的な貴族の邸が一軒すっぽり落ちてしまいそうな大きさだ。 当然ながら穴に柵は無い。いざとなれば空を飛べる魔術師四人だからこそ、ぎりぎりの場所で覗き込めたのかもしれない。

 穴は、底が見えないほど暗い。

 僅かに残る精霊の目をかりても霞んでよく見通せなかったのだ。

「随分と深そうですね」

 ネオが年長者二人に言った。

 朝陽の差し込みを頼りに足を進める。

 覗き込めば陽の光が届いていない為に底を感じられず、漆黒がどこまでも続いているようだった。

 アルフィードは舌を唇の間から覗かせている。舌先は白い歯でゆるく噛まれている。

「ただでさえ息苦しくなりそうなほど精霊が希薄なこの場所で、ここまで正体不明な事象に当たるのは正直避けたい所ですね」

 カイ・シアーズが言葉を選んで答えた。

「それでも私達は変異体というものを倒さなくてはならないのですよね?」

「そうだが。逃げるという手もある」

「え」

 アルフィードの言葉にシャリーは大きな目で三度瞬いた。

「こいつぁ厳しい。俺らにくっついて来た精霊も少し……半分は帰っちまってる。ここは精霊にとって良くない何かがあるんじゃねーか」

 精霊が少ない事は魔術師にとって死活問題に近い。

 力乏しい穴の奥――不気味に闇を孕む場所へ降りる事はひどく躊躇われた。

「変異体とやらが精霊を食って、ここはこんなんじゃねーのか」

 しばし沈黙の後、ネオが顔をあげた。。

「遠目のルーン――通るかわかりませんが描いてみます」

 年長者らへネオは告げ、術を描き始める。

 魔力そのものは当人のものなので苦労なくルーンを描けているようだが、精霊の集まりが悪い。ネオは精霊への贄である魔力の出力を上げた。

 シャリーなどは唾を飲んだ。

 全員が認識する。

 必要以上に魔力を提供しなければ、精霊は手を貸さない。

 やがてネオの両手の先に光が生まれる。

 手のひらを広げた大きさほどの光は明るければ見えぬほどだ。が、穴へと潜りゆくと輝きが際立った。円筒状の穴の下へと光は伸びていく。暗闇の中へと降りていく。

 光を覗き込むと、降りていく筒の先がほんのりと見えた。



 ぐらりっと視界が大きく動く。

 ――ああ……きもちわるい……。

 ふらりふらりと頭を揺さぶられ、抵抗が出来ずにいるような感覚だ。金魚鉢に放り込まれて揺さぶられているとこんな感じなのかもしれない。

 揺れは大きさを増す。

 百八十度転回、九十度急に回る……右へ左へも大きく振れる。思いの儘にならない動きにただ翻弄された。

 視界に時折入る人影がある。どうもそれを追いかけているらしい。

 酔いそうになる視界は、厚い氷を透かしているようで霞がかって見えにくい。目に深い膜が張っているようでもあるし、水中から空を覗き見ているような感じもする。

 ――……なんだろう……これ……変……。

 呟いたつもりだが、声になっているのかどうかあやしい。

 手を動かそうと思うが動いていない気がする。

 目の前に右手を持ってくる――そう考えたはずなのに、巨大な爪が視界を過ぎていく。自分の手はどこにも見当たらない。

 ふぅと大きく息を吐き出した……つもり。

 なんだか気分が悪い。

 体の中身の何もかもを吐き出してしまいたい。そんな衝動に揺さぶられる。半眼で何度も瞬きをした。

 ――……私……どうしたんだっけ……。

 緩い思考で思い出そうとするが、まとまらない。

 青白い視界に何か動物の爪らしきものがかすめたり、人影がひらひら通り過ぎていく。それが、ぐらりぐらりと揺れる。

 制動が定まらない。軸が感じられない……。

 自分というものが、不確かな気がしてならない。

 ――……私……?

 誰かに聞こえているのだろうか、この声は。

 誰が話しているのだろうか、この言葉は。

 熱っぽさに涙が零れた気がする。手で触れようと考えるが、手の感覚を忘れた。

 そういえば、手というものは何だったろう。

 ――……ワ……タ……シ……?

 溶けてゆく。



「いかんな……」

「はい?」

 マナの相槌にユリシスの声――ディアナが呟く。

「根源の力である私が遠すぎるんだ……保っていられなくなる……――ゼクス!」

 獣の爪を剣でさばきつつかわしていたところを呼ばれ、ゼクスは後ろに退く。

 追いすがる獣にゼクスは片眉を下げ、さらさらと魔術を描くと獣の頭に叩き込んだ。

 衝撃で獣は後ろへ吹き飛んだ。

 ゼクス本人は飛び上がり、天井を蹴って獣から距離をおいて着地した。そうしてから、「え? 呼んだ?」と息を乱しもせずゼクスは答える。

「“接合六式”八番、九番、壱拾弐番、“転送五式”四番、“離法七式”四番、すぐに割れ!」

 ディアナはそう告げると右手を前へ突き出し魔力を集めはじめる。

「ちょ」

 有無を言わさず術を起動するディアナにゼクスは剣を一度鞘に収めて、ヒップバックから紺呪石を選って引っ張り出す。出したがすぐ、手にある紺呪石すべてに片っ端から魔力を注ぎ、込めていた術を発動させていく。

「瞬間で術出しちゃうから慌てるよ、もぉ……」

 発動したルーンは即時にディアナの、いや“ユリシスの右手”に光の尾をばらまきながら吸い込まれていく。

 空になった紺呪石をゼクスはその場に捨て、再び剣を鞘から引き抜くと地を蹴った。

 何がしかの術を描くユリシスへ、獣が駆け出したからだ。

 ユリシスの隣に立っていたマナ姫もルーンを描き始める。

 ゼクスが獣とディアナの間に入ろうとした、その時――。

「援護不要」

 ディアナの低い声。

 瞬間的に周囲の全てとも言える精霊が彼女の手の内に凝縮し──、弾けた。



 吐き気が一層増す中、視界に不思議な人が映った。

 ――……ア…………。

 次の瞬間、全てを突き抜けて光が飛び込んで来る。

 確かに見た。

 鏡で見た事のある、自分が、居た。

 ──私!

 意識は一気に覚醒する。

 炸裂した光とともに、身にまとわり付いていたもやが瞬時に吹き飛んだ。

 ユリシスの意識は大きく目を開き、手を伸ばした。


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