(124)【3】母の声(1)
(1)
雨が降っていた。
昼過ぎだが、夕方のような暗さがある。
雨は一昨日から降り続いている。
サァサァと柔かい雨足ながら、どこもかしこもどんよりと重く感じられる。ヒルディアム全体を深い霧が覆い、何もかもを鈍化させているような印象すらある。
巨大魚のかたちをした上位精霊ヴァイヴォリーグの呼んだ眷属の内、より水に近い精霊らがまだ元居た地域に帰っていない事も影響している。
ギルバートの家――グレイニー邸は王城の北東、魔術機関オルファースよりやや北辺り、魔術師らの居住区域にある。
グレイニー邸にギルバート亡き後の新しい主が血まみれで戻ったのは一昨日の事だ。
血まみれと言うものの、外傷のほとんどは治癒が施されており、本人の体力が著しく低下しているだけだった。
呼ばれてやって来たお手伝いの中年女性ユーキはユリシスの悲惨な姿を見、悲鳴を轟かせて数時間気を失ってしまった。
それから、ユリシスはまだ一度も目を覚まさない。
そのことについてアルフィードは「寝不足と疲れだろ」と言った。
ユリシスはメルギゾーク王都メイデン遺跡から戻った後、不規則な睡眠と食事を続けた。
トドメに大怪我をして昏睡した。
直近の睡眠は二十四時間以上前にとったものだったこともあり、ユリシスの疲労はそもそも極限に達していたのだ。
グレイニー邸の現在の主――つまりユリシス・グレイニーの帰りを待ちわびていたシャリー・ディア・ボーガルジュは魔術機関オルファースにおいて手持ち無沙汰だった。
快晴の日にのみ咲くというクロシュの花の採集が天候不良でキャンセルになったせいだ。
シャリーはオルファースでラヴィル・ネオ・スティンバーグを見つけると昼食に誘った。
食事の後は少し時間があるというネオを伴ってオルファースを後にし、グレイニー邸へと足を向けた。
雨足は傘が必ずいるという程度よりやや強い。街中を歩く人々同様、シャリーとネオもそれぞれ傘をさしている。
ただ、上級魔術師たる二人にとって傘は飾りみたいなものだった。
魔術師らしく、紺呪石に閉じ込めた撥水ルーンで体の周囲の雨を弾いているのだ。濡れる事は無い。
邸の手入れをしているユーキが顔を出していなければ、グレイニー邸には誰も居ない。邸の主が長い間留守だという事はもう知っている。
シャリーは雨の中、水滴滴る草花を超えて呼び鈴を鳴らす。
昼前後という時間帯はユーキが居ない事の方が多いのでダメ元で来てみたのだが、静かに扉が開いた。
意外な人物が姿を現した。
「――あら、アルフィード様。こちらにいらっしゃったんですの」
シャリーが言うとアルフィードは面倒臭そうに眉間に皺を寄せた。
「何? 何か用?」
「ユリシスはまだ戻っていませんの?」
「あ? ああ、居る。一応」
「一応?」
アルフィードが「一応」という言葉を使った事にネオは訝しむ。ネオもアルフィードの人となりを知り尽くしているわけではないが、違和感を覚えたのだ。
「まぁ……呼んでいただけませんか?」
「今寝てる」
「あら、そうですの……」
昼寝にしては少し早い。シャリーは首を傾げる。その隣でネオが顔を上げた。
「一応って、どういう意味ですか? ……ユリシスは――」
「寝てるっつーか、寝込んでるっつーか。あー……面倒くせぇな。寝てるけど、会ってけば? それで帰れ」
アルフィードは扉を大きく開いた。
シャリーとネオを二階のユリシスの部屋の前まで案内するとアルフィードは言った。
「俺、調べもんまとめてるから。あ、もしそいつ起きたら俺に声かけて。あと帰る時もな。さっさと帰れよ? 今日は来客があるんだ」
アルフィードは自分の用件ばかり言い、階段を下りていった。
眠っていると聞いたのでシャリーはノックをせずにそっと扉を開いた。
木の床は濃いニスが塗ってある。擦れた跡が目立っては見えないので、この部屋はあまり使われていない事がわかる。壁紙は柔らかく淡いグリーン。
窓にはレースのカーテンがかかっており、隣に机がある。その奥、部屋の角にあたる壁際にベッドがある。
ベッドの足側には木製のポールハンガーがあり、服が二着かかっている。
シャリーはベッドに視線を戻す。
久しぶりに見る友人の姿に、何はなくともホッとした。
スーッ、スーッと深い寝息がする。
印象的な紫紺の瞳は目が閉じられているので見えない。
顎の下、口元ぎりぎりまで掛け布団に被われ、ユリシスは眠っていた。
雨音が少し、ほんの少し和らいだ気がした。
シャリーとネオはそっと部屋へ入った。
ネオが扉を閉め、シャリーは枕元近く、机の椅子をひいてベッド横に置いた。椅子へはシャリーが座り、ネオは隣に立った。
シャリーは一瞬だけ口をへの字にした後、ユリシスの頬辺りでルーンを描いた。その内容にネオはシャリーの顔を見た。
「――だって」
シャリーは言い訳のように言った。
ユリシスの顔色は悪く、血の気が完全にひいて白く見えたのだ。力を分けようと治癒の術を描いたのだ。
しかし、ルーンを描き終わった瞬間、手は勢いよく弾かれ、シャリーは椅子から落ちかけた。
ネオがとっさに支えてくれなければ尻餅をついて青アザぐらいはこさえていただろう。
「――え……?」
「……防護ルーンだね。それも随分と強力な。ほとんどの魔術を弾くんじゃないかな。治癒の術まで弾いてしまうのなら」
「治癒の術までって……」
「事実、今弾かれたのだし」
「そうだけど……」
シャリーはしゅんとして、また椅子に座りなおした。
二人はしばらく黙って雨の音を聞いていた。
「私……何にも、力になれなかった……」
沈黙を破り、目を伏せてシャリーは言った。銀色の髪がはらりと、肩から胸元へ流れた。
「仕方がないよ、僕らは何も知らない」
「……」
「ギルバート様が亡くなられてからユリシスはどこに居たのか。今、なぜ寝込んでいるのか……とか。アルフィード様には聞いたって答えてくれるかどうか……ユーキさんはきっと、僕ら以上に何も知らないだろうし」
ネオは沈んでゆくシャリーに引きずられまいと努めて普段の声で言った。
本当ならシャリーを元気付けなければならないのだが、ネオ自身、戸惑っている。
「そうね。アルフィード様はきっと、何も教えて下さらないわ。面倒がって、人を巻き込まない、自分で何もかもする――そういう方ですわ」
「……」
シャリーはユリシスの黒髪を手櫛の先でそっと梳いた。
ユリシスの事を多く知っているわけではない。
だが、思い出される。
やんわりとした笑み。
媚びへつらうような笑みに囲まれて生きてきたシャリーにとって、ユリシスの他意の無い笑みはひだまりのように温かく心穏やかにしてくれた。
――何年も……同じ年のシャリーが一回で試験に合格して九級から二級まで駆け上がっている間、ユリシスはずっと同じ試験を受け続け、魔術師になる為の苦労をしただろうに……。
ギルバートに見いだされ、魔術師見習いになり、これからという時……。
ギルバートを突然失い、同時に多くのものがユリシスの目の前から霞のように消え去った事だろう。その上、なぜ当人も寝込まなけらばならないのか。なぜ、防護ルーンが必要なのか。
「私、これでも第二級魔術師として自分の力に自信を持っていますわ。それでも、頼りにすらしてもらえなかったのね」
「それはちがうよ、シャリー。ユリシスはきっと、余裕が無かったんだよ」
交流戦一次予選の試験をユリシスが受けた後、ネオは食事のセッティングをアルフィードに頼まれた。
ネオの馴染みのある店という事で、いわゆる高級レストラン。味に煩い美食家も思わず唸るという料理をユリシス、アルフィード、ネオ、そしてついて行くと言い出した祖母の四人で黙々と食べた。
ユリシスの冷え切った表情をネオは思い出す。
ふと、ユリシスが祖母に何か問いかけていた事を思い出す。力に罪はあるのか――そんな事を言っていたような気がする。悲しい結末が訪れたなら……とも。
アルフィードはいつも通りの人を寄せ付けない雰囲気に見えたが、彼の事をよくわかっていないから偏見でそう見えただけかもしれない。彼はギルバートの自慢の弟子。
誰の目からもひねくれて見える弟子は、同じように誰の目からもわかる程、師に信頼を寄せていた。ギルバートが亡くなって、アルフィードが心を痛めていないはずはない。
あの時もギルバートが亡くなった後だったから、ネオはやはりかけるべき言葉を見つけられず、少しでも心に温もりが灯ればと、一押しレストランの一押しメニューを注文した。
もっと前、出会って間も無い頃、ユリシスとシャリーの三人で食事をした事がある。その時のユリシスは色とりどりの料理を珍しそうに、しかし味わう事を楽しむように舌鼓を打っていた。
それがあの時は、ギルバートが亡くなった後は、砂でも食べているような……ただ目の前にあるから食す、そんな雰囲気だった。
食事ではなく口に何かを押し込んでいるだけ――そうとしか見えず、ユリシスの傷の深さを思った。
雨は止まず、降り続く。時に大きな滴の窓枠から落ちる音が室内にも聞こえた。
シャリーもネオも結局ほとんど黙していた。
話したかった相手のユリシスが眠っているということもあるが……、言葉が見つからなかった。
心配で会いたかったものの、会話が出来ないせいだろう。
元気な姿を何より望んでいたから。
背後でパタンと扉が開く。アルフィードだ。
「おい、そろそろ帰ってくんねぇ? 客、来るんだ」
シャリーはそんなにも居座ったかしらと口の中だけで呟いた。
アルフィードは扉を全開にして、蝶番の側に肩をかけて立った。どうやら、今すぐにでも追い出したいらしい。
シャリーは小さく頷いた。
「……失礼しますわね」
シャリーを先に行かせ、後を歩くネオは扉をくぐる寸前、アルフィードを見た。
「アルフィード様。ユリシスは、一体何と戦っているんですか?」
ネオにとって直感に近い。ユリシスは“力”と言った。理由はほとんどなく、安直に戦う為の“力”と思って聞いた。
アルフィードはさっき出迎えてくれた時「一応」と言ったのだ。確かに居るのに。
肝心のユリシスには強力な防護ルーンが張られていた。
あまりにすっきりしない。
戸口で腕を組んで道を空けていたアルフィードは片眉を上げた。
「“何と”?」
そして、ハッと笑った。
「俺が聞きてぇよ」
笑いながらも声は不機嫌だ。
これ以上は何も聞けないと判断して、ネオがアルフィードの横を通ろうとした時――。
アルフィードはネオの前にさっと腕を出して押しとどめた。
ネオと部屋を出たところにいるシャリーはアルフィードを見上げた。が、アルフィードはユリシスを見ていた。
「――あ? なに? ……なんで?」
眠り続けるユリシスに、問い返していた。
シャリーとネオが一階の応接室に移動して少し経った頃、カイ・シアーズが姿を見せた。
「……私以外にもお客様がいらっしゃったようですね」
少しびっくりした様子ながら微笑んでいる。
童顔で二十歳前後にしか見えない為、それを隠すように眼鏡をかけた魔術師――。
日頃から蒼いローブをまとっており、蒼の魔術師などと呼ばれている。風の術を得意とする魔術師である。
長いフルネームはカイジュアッシュ・ウォルフ・ディアミス・シアーズといい、オルファース副総監の一人として名を連ねている。
まだまだ副総監が定着していないのがネオだ。彼も急逝したギルバート・グレイニーを継いで副総監になった。
ネオの祖母がオルファースの長であるのに対して、カイ・シアーズの父は王の右腕として国土全体の取りまとめの実務をこなす宰相。貴族の中でも有数のお家柄である。
シャリーの家も数百年続く由緒ある家柄と言えるのだが、圧倒的な格の違いだけはどうにもならない。そのくせネオには割りと親しくしているのは、年が近い事と、何より本人の努力の賜物と言えた。
「あ、カイ様……あの、私達その……」
言葉を捜すシャリーにアルフィードは割って入りあっさりと言う。
「カイもちょっと待ってくんねぇ? あんたの後に来る客を待って、全員と話たいんだと」
アルフィードは三人を応接室に押し込むと、再びギルバートの書斎に閉じこもってしまった。
「……話したい……って、どういう意味かしら? ――他に誰かいるの?」
邸というには室数も片手で数えられるほどしかないグレイニー邸には、顔を合わせた者以外の気配なんて無いのに。
首をかしげつつもシャリーは台所へ入り、勝手を知らないながらもなんとかお茶を用意し、カイ・シアーズとネオ、それに書斎に居るアルフィードに運んだ。
結局、第一級魔術師ネオにカイ・シアーズ、第二級魔術師シャリーの三人の貴族は、たっぷり一時間も応接室で魔術師としての情報交換も交えつつ、談笑した。
そうして現れたのは、黒いフードを深く被り、全身も真っ黒のシンプルなドレスを着ている線の細い女性だった。
雨が降っている事を一切思わせない。濡れてもいないし、湿気った様子すらない。清涼な大気をまとっているところからも魔術師である事は確実だった。
アルフィードに応接室へ案内された女性が黒いフードをさらりと払いのけると、真紅の髪が目を奪った。甘い香水の香りがふわりと散らばる。
辺りの精霊が一斉に静まり返り、さもひれ伏しているかのよう。清い気配に辺りが引き締まる。
「マ……マ……」
もはや口ごもってその名を最後まで呼ぶことが出来ないシャリー。ここに来てから驚きの連続だ。
「マナ姫様……」
ネオはただ呆気に取られた。
「マナ様、なぜ貴女がこちらに」
誰もが驚きを隠せない。
王族に関する情報をこの場の誰より持っているカイ・シアーズですら、最近のマナ姫が城を出るのは公式行事くらいで、お忍びで出かける事は七、八年近く聞いた事が無かった。
マナは細い息を吐いて全員を見渡した。最後にアルフィードへ目を向ける。
「……アルフィード。どういう事です?」
「俺が知るかよ」
アルフィードはいかにも面倒臭そうに溜め息をつき、全員を二階へ案内した。
「狭いな。定員オーバーだろ、この人数。どう考えても」
案内したのはユリシスの部屋だ。
狭いので机の椅子はしまって、全員窮屈そうにユリシスのベッドを丸く囲むように立った。アルフィードがユリシスの頭のすぐ隣、窓を背にして立っている。
アルフィードは起きる様子の無いユリシスに声をかけた。
「おい、これでいいのか?」
ユリシスは目を瞑ったまま深い呼吸をしていて目覚めそうにない。
ネオもシャリーも、カイ・シアーズもいぶかしんで顔を見合わせた。
そこへ、低く抑えられたハスキーな声が響く。
『――ああ、手間をかけさせたな』
長いまつげを上下させ、瞬き繰り返すシャリーの眼前で、ユリシスの姿の内側から、別の少女の姿が重なるように浮かび上がる。
少女はユリシスと部分的に重なったまま、ゆらりと上半身をおこした。ベッドは動いていない。半透明の少女――ディアナだ。
容姿はユリシスと異なり、長い黒髪に銀色の冠――両耳の上に羽のような形のもの――を乗せている。ユリシスと同じなのは瞳の色――紫紺の瞳ぐらいだ。
ディアナはするりと腕を組んだ。
初めて目の当たりにする第一級魔術師二人と、第二級魔術師は言葉を失う。
『伝聞でああだこうだ説明するより、一度直接会うのが早いと思ったんだ』
アルフィードに指示をしていたのはもちろんこのディアナだ。
『先に質問を受け付ける。何が聞きたい?』
この状態について、ディアナは自ら多くを語るつもりは無いようだ。
「あなたは誰です?」
まずカイ・シアーズが目を細めて問う。
「あなたは誰で、何を目的としているのです?」
ディアナは表情を変えず、半眼でこう言う。
『私の素性を知り、先回りで予測するのか? 意味のない事を。先入観の確認か? 誤認しか生まんぞ。この私の今の態度のみで全てを受け入れろ。そも、今の第一級魔術師とやらはわかりもしないのか。程度の下がったことだ』
挑発めいている。
アルフィードはこれがディアナ流なのだなと妙に納得をしていた。質問を受け付けると言っておいてこの態度だ。そのうち問いに答えていくのだろうが、こうやって人をからかう。
カイ・シアーズはと言えばディアナの態度に表情を変える事は無く、受け流すだけだった。
「憶測でものを考えたくありません。質問を受け付けて下さるのなら、お答え頂けませんと困ります」
ディアナはにやりと笑った。
『じゃあ、質問の受付は飛ばすとしよう。本題に入る。明確にしておく。私が倒したい――消したい相手というのは他でもない“変異体”だ。しかし、何せ、私には戦力が無さ過ぎる』
「あ、あの、本題に入るのは少し待って頂けませんか? 私、全くついていけてなくて……」
倒す? “変異体”? 何の話だというのか。
シャリーが慌てて言ったが、ディアナは穏やかな顔を向ける。
『ああ、あなたは知らなくてもいい』
「それは……私が戦力にならないから?」
柔らかさのあるディアナの声音にシャリーは戸惑う。ふんぞり返って偉そうなのに、シャリーには妙に優しい。
どう問い返したものかと悩んだ末、魔術師としての力不足を聞いた。しかし、ディアナは一層雰囲気を和らげた。
『そうじゃない。あなたはユリシスを助けてくれる。違うか?』
シャリーはキリリと表情を引き締めた。
「ええ、私、ユリシスの助けになりたい」
『ならば、子細や私が何だろうとどうでもいいことだ』
そう言ってディアナは微笑んだ。
カイ・シアーズは溜息を落とすとマナに向き直った。
「マナ様も関わっておいでで?」
マナは一度だけ瞳をカイへ向け、すぐ元に戻して瞬きをした。
「ええ」
短い答えに小さく頷き、カイ・シアーズはアルフィードを見た。
「今日はギルバートへの依頼の件を詰めるという約束ではありませんでしたか」
アルフィードは肩をすくめた。
「俺もそのつもりだった」
先にカイ・シアーズとの打ち合わせを済ませ、終わった頃にマナが来る予定だった。
ところが、シャリーとネオが訊ねて来た。追い返せば済む話だったのだが、ディアナは『全員と話したい』と言い出したのだ。
「……要領を得ませんね。では、問いましょう。あなたは“紫紺の瞳の乙女”だ。目的は何です?」
カイ・シアーズが言うとディアナはうんと頷いた。
『“変異体”を倒したい。と、言うより。倒さなければならない』
「“変異体”とは?」
『メルギゾーク末期に量産された、精霊および魂を喰らうバケモノだ。私達は“変異体”と呼んでいた。“変異体”が復活すれば……メルギゾークの二の舞だ。多くの精霊が消失する』
メルギゾークの二の舞。
精霊の消失。
それらが意味するもの、すなわち滅びだ。
カイ・シアーズ、ネオ、シャリーが息を飲んだ。
三人が知る限りの“紫紺の瞳の乙女”に関する伝承は、彼女がメルギゾークを滅ぼしたというものだ。滅びの原因が、他にもあったというのか。
やや間を置いてしまったもののカイ・シアーズは問い続ける。
「“変異体”はどこに?」
ディアナはゆっくりとマナを見た。
マナは影を落とすように下を向いてしまった。ディアナはぞろりと紫紺の瞳を動かして、カイ・シアーズに戻した。
『把握しきれていない。数は、現状では一。ただし、増える可能性が非常に高い。なぜなら、それだけのエネルギーがあるから』
「エネルギー?」
今度はアルフィードが視線を床に向けた。
『最終的な目標は、確認済みの“変異体”一体を倒し、続々と復活させて量産させようとしている者を止めることだ。だが、その前に二つの存在を救う』
「……うかがいましょう」
『ひとつはウィル・ウィンの精霊体、これが“変異体”のエネルギーとして用いられている』
「……ウィル・ウィンとは……聞き捨てなりませんね」
光の精霊の名前の由来がウィル・ウィンという古代の人物である事をカイ・シアーズは知っていた。
『ウィル・ウィンは上位精霊だ。そのエネルギーは膨大、“変異体”としての体は自在だ。先日戦う事になったのだが、その体を縮める程度の事しか私には出来なかった。ウィル・ウィン自体にはダメージを与えぬようにしたから、そのエネルギーは溢れんばかりに残っているだろう』
「上位精霊……ですか」
カイ・シアーズはさすがに熟考する。
それを置いて、ディアナはシャリーを見た。
『同じように、ユリシスの精神体が奪われている』
シャリーが引き締めていた口を少し開いた。
『精神体だ、わかるか?』
「……いいえ……すいません」
『お前は?』
ディアナはネオを見た。
「すいません、僕もよくは……。ただ、そこに、ユリシスは居ないんですね?」
シャリーがネオの方を勢いよく振り向いた。
そういう意味なのか、と。
ディアナははっきりと頷く。
『居ない』
カイ・シアーズは伊達眼鏡の奥で複数回瞬きを繰り返した。己の考えを確かめているのだ。
「私も正確に理解しているわけではありませんが……精霊体がエネルギーを、精神体が精神と記憶を司る事で魂と成している――そういう話であるならば、ウィル・ウィンの精神体、それにユリシスの精霊体があるはずですが?」
『うん。ウィル・ウィンの精神体、お前たちにわかりやすく言えばギルバート。ユリシスの精霊体は私、ディアナディアだ』
カイ・シアーズが小さくひゅっと音をさせて息を飲んだ。
「ギルバート……様……?」
シャリーはぎゅっと眉間に皺を作った。理解しようとしているのだ。
魂が分解されるなど、初めて聞いた。
いや、ギルバートがウィル・ウィンなら、ずっと上位精霊と共に生きていた事になる。
いや――ディアナディアという名ならば……。
ヒルド国初代国王は魔術機関オルファース創始者キリー・フィア・オルファースの弟だったという。その妻、王妃フィリアリアの姉がメルギゾーク最後の女王にして“紫紺の瞳の乙女”ディアナディア・ファル・メルギゾーク――。
『極めて異例。本来、あってはならない事態が、今まさに進行している。それを自覚してもらいたい』
同じ頃――ヒルド国の中心であり、文字通り都の中央に位置する白く煌くヒルディアム王城も、降り続く雨にけぶっていた。
入り組んだ王城の中心、いくつもの廊下、回廊を通り抜け辿りつく謁見の間。その影に、ゲドは身を隠していた。気配も足音もさせず。
朝から国王の隠し忍びゼットの姿が無いと報告を受け、王の身近まで迫って調べられる事全てを拾い出そうとしていたのだ。
ゲドは喉がひりひりとするのを堪えている。
魔術によるセキュリティが幾重にも張られたそこに潜入するのに、マナから与えられた丸薬を飲んできていた。魔術で練られ、術の込められた丸薬はまずいを通り越して痛かった。
ゲドは黙って潜入してはいるが、時に目をしばたいて喉の痛みを忘れようとしていた。
その時、小さな物音が聞こえた。
静かに謁見の間の巨大な扉が開いたのだ。
国王が先ほどまで何人かの役人やらと会っていたのは確認した。土木がああだ、学校施設がこうだ、それらは今ゲドが欲しい情報ではない。
玉座と扉の間には幅で五歩、長さでは五十歩はあろう赤絨毯が敷かれている。その両サイドには衛兵がそれぞれに八人ずつ、ゲドに気付いた様子も無く、立っている。彼らの間を歩いてやって来るのはオルファース総監デリータ・バハス・スティンバーグだ。
国王とオルファース総監は何やら話し始めているようだが、先ほどまでの役人らと違い、随分と声が小さいようだ。聞き取れない。
そろりそろりと闇と闇の間を音も無く、さっと光の隙間を移動する。
ゲドは、聞き耳を立てた。
「――ですが、陛下……」
「追跡はさせている。しかし、魔術の知も必要だ。私がつきっきりで事に当たれたらよいのだが」
「だからと言って、王妃様の動静を探れなんて」
「デリータ。私の頼みが聞けぬか?」
「……しかし……! 私は陛下の戴冠式にもお二方のご婚儀の折も列席をさせて頂きました。あの頃を思いますと、どうしても……どうしても納得がいかないのです!」
「私は夫である前に、男である前に、人である前に……」
王はそこで小さく一つ息を飲み込んだ。
「何よりも私は、王だ」
それはまるで、自らに強く言い聞かせ、律するかのように――王は強い語調で言葉を捻り出している。
デリータは眉間にはっきりと皺を寄せて目を逸らした。
そのしがらみは、あまりに強く、太い鋼のようだ。ギルバートが処刑された日にも思いが及ぶ。
ギルバートの死を報告した際、王は、額に手を当て、表情を隠した。数分、そのまま動かなかった。王は誰の前であっても涙を流してはいけないから……。
だが、黒塗りの魔術師の葬送馬車を動かしたのは王であろうに。その時もやはり、デリータは目を逸らした。
王の隠された表情の奥、口角がぐっと下がっているのを、見たくなかったから。
耳も塞ぎたかった。かすかに届く、王から吐き出される空気の音を遮断したかった。
――何故だろう、一体何が王を苦しめているのだろうか。
デリータは一度だけ目を伏せ、自分を見下ろす王の目を見た。
「わかりました。私の力の及ぶ限り、致しましょう」
デリータは退出した。
……ゲドは思い巡らす。
王妃は、城の深奥に隔離されている。
ゲドは場所を把握しているが、上位の忍びを除いて、人が行ける状態ではない。警備が幾重にもある。警備の手入れの際、ほんの少し緩んだ場合に上位の忍びがかろうじて入り込める程度だ。
しかし、この会話……。
普段、変わらずに泰然自若とした王が悩ましい様子で『追跡はさせている』と言った。
ゼットが王の側、最低でも王都に居ないという事を考えれば、その任にあたっているのは彼だ。
王にとって一番大きな悩みの種たるは王妃だろう。
――王妃が、この王都に居ない?
会話が途切れ、ふと、アルフィードが静かに動いた。
アルフィードは入り口横に居たネオを押しのけ、扉を勢いよく内側に開いた。
「おっ……とと……」
ドアの向こう、ゼクスが中腰でよろめいていた。聞き耳を立てていたのだろう。
「何だ?」
アルフィードが問うと、ゼクスは地に手をぽんと着いて体勢を直す。剣と鞘がチャキっという音をさせた。
「やだなぁ。俺も呼んでよ、何の会合? これ」
笑顔を浮かべてゼクスは言った。盗み聞きしていた人間とは思えぬ大胆さだ。
アルフィードはディアナを見た。
『入れてやれ。戦力となるだろう』
ゼクスはしれっとした表情で先ほどまでアルフィードの居たユリシスの枕元の横に割り込んだ。アルフィードが「おい」と声をかけようとしたが、すぐにディアナが口を開く。
『現状はこんなものか。それでは話の続きだ』
ディアナはゼクスが何者であるかを聞かないようだ。
アルフィードは諦めて、ネオとカイ・シアーズの間で腕を組んだ。