(120)【1】捕縛(3)
(3)
壁に背を押しつけながらゲドはじりじりと立ち上がる。
片足を引きずってはいるものの、傷は塞がっていた。
マナも重たげに体を起こした。治癒の魔術は術者への負担が大きい。マナは眩暈をこらえ、状況を確認する。
全身に霜をまとい、顔や手足が凍り付いた獣はキシキシと嫌な音を立てて身じろぎしている。
白い息を吹き出す鼻には深い皺が刻まれていた。
獣は力任せに右前足の氷をばっきり割る。が、その足は動かす前に再び氷り固められた。
右足のみならず、左前足の氷も一度は弾けるが結果は変わらず再度大気中の水分が集まって白く固まる。
獣から十歩分ほど離れた場所でアルフィードが力ある文字を随時生み出していた。状況にあわせて描かれるルーン文字は的確に制御され、獣の自由を完全に奪った。
魔力に満ちていた獣の毛は今、薄汚い灰色に変化している。青白かった毛並みは全身を覆っていた魔術で色づいていたにすぎない。ユリシスが魔術を引き剥がしてしまったせいで獣本来の色に戻ったのだ。
ユリシスは巨大な獣が幾度も氷を割る横で、数歩も離れぬ危険な場所でルーン文字を描いていた。
氷の欠片がその頬を、腕を打つ。
辺りに溢れる魔力波動は中心のユリシスへ渦巻き、風のように大気を揺らす。数え切れない精霊が束になってうねり、踊る。
周囲に描き出される光り輝く文字によって鍛えられていない町娘の姿は――頼りないユリシスの全身は隠されてしまいそうだ。
種類そのものも現代ルーン文字よりずっと多い古い文字が青白い光の尾を伸ばしてユリシスの周囲で生み出されてはきらめく。
マナもゲドもただ息を飲んで見守るしかない。
魔術に関しては通り一遍程度の知識しか持たないゲドは呆然とするマナを見つける。
「姫様――」
「……古代ルーン魔術……――目覚めて、いるの……?」
最後まで書き上げ、高々と腕を上げるユリシス。
「アル! 発動にあわせて下がって。マナ姫もゲドさんも気をつけてください!」
ここからは魔力が、気力が勝負だ。ユリシスは大きく息を吸い込んだ。
「――いきます!!」
言い放って術を動かし始める。
魔力波動に”のっかった”周囲の精霊達をルーンへ集める。
精霊達が一斉に動きだし、魔力を内包する文字を飲み込んでいく。
力を溜めた精霊らは、胸の前で組まれたユリシスの両腕に集まる。パリッと乾いた音をたてて力の波が爆ぜた。
ユリシスが見る限り、マナはセキュリティの結界魔術を傷つけないようにしていた。
王妃が……お母さんが関わっていそうなのだから、きっと事を大きくしたくないのだろう。
ユリシスもマナにならってセキュリティへの影響を考慮する。
魔術は獣にだけ効果を示し、その範囲内にすべておさめられるように――ユリシスは可能な限り、時間の許す限り全力で魔術を描いた。
そして今、その結果を示す。
両腕に重く集まる力にユリシスは意識を傾ける。細かく制御しにかかる。
術はいつもと違った手応えがある。
普段より精霊の集まりが良い。良すぎる。
暴れだしそうな精霊を抑え付け、細心の注意を払って術へ導く。
ユリシスは歯を食いしばった。
眉間に皺が浮かび始める。細く息を吐き出して舌舐めずりをした。額にぷつぷつと汗が浮かんだ。全て、ユリシス本人は気付いていない。
ユリシスの両腕は胸の前で張り付いたように微動だにしない。。ちらりと手元を見てユリシスはうめく。
「……くぅっ」
――動かない……! 重い。
左手をじりじりと下げ、次は右腕に集中する。左腕にあった力が右腕に集まり始めた。
青白い魔力を吸い込んだ後、精霊らに染められた赤黒いエネルギーがユリシスを包む。
右腕、いや右半身が濃すぎる赤に変色したエネルギーの球体にのまれていく。右腕を肩の高さまで持ち上げながらユリシスは顔を上げる。
ふっと息を吐き出し、右足を腰から回して半身を後ろへ下げた。
右手も脇まで引いて構える。口を「い」の形にした。
パリッパリッと乾いた音がして、エネルギーの塊はユリシスの右肘から拳の先へシャープに伸びる刃のように変形した。拳から先は腕一本分の長さの剣が生まれていた。
溜め込んだ力――魔術による大剣を、今、解放する。
「――っけええええぇ!」
ユリシスは腹の底から叫び、その勢いで前へ飛び出した。
右腕の赤黒い魔術の刃が獣の腹につき立った。
ユリシスの腕は獣の硬いはずの被毛を、表皮をやすやすと突き破る。
もう、アルフィードやマナ姫、ゲドがどうしているかの確認なんて出来ない。
アルフィードは、ユリシスの攻撃の瞬間を見て大きく退いていた。その際、獣を縛る氷の術は解けている。
マナもゲドも壁ギリギリまで下がっている。マナは障壁の術を描き終えていた。
障壁はマナ、ゲド、アルフィード、そしてユリシスの右腕を除いた周囲に出現する。
突き刺した獣の横っ腹から鮮血がほとばしる。
ユリシスは頭から全身に降り注ぐ真っ赤な血に気も止めず、右の拳をさらに突き刺す。腕はもう、肘まで埋まっていた。
術はこれで終わりじゃない。
右腕をひねり、獣の肉の中で指を開く。
獣のくぐもった低く震える声が聞こえた。
生々しく手のひらに伝わる温かい感触。内側から肉がピクピクと揺れているのがはっきりとわかる。
――これは鬼獣と同じ……今まで森で何度も遭遇し戦ってきた、鬼獣と同じ……大丈夫……大丈夫。
ユリシスは自分に言い聞かせ、左手を右肩に添えた。
「これで……おわり!」
窮屈な右腕に魔力を注ぎ込む。力の制御にその拳を勢いよく握り締めた。
凝縮され、刃となっていた魔術が一気に広がる。
ごんっという低い音と共に地面が大きく揺れた。
ユリシスの右腕を導火線として獣の腹の中で魔術が弾けたのだ。
獣の首まで爆発は届いた。
室内が赤い光で包まれる。
――そうして、咆哮が響いた。
これで勝ったはず、やった! と思っていたユリシスが顔を歪めた。
首だけとなった獣が吼えたのだ。それは断末魔でも悲鳴でもなかった。何か、力ある咆吼。おそらく獣の切り札――。
ユリシスの術以上に地面が揺れる。ユリシスは退こうとするがまともに立てない。振動もあるが、天井が崩れて落ちた瓦礫で足場が悪い。その上、今は血で滑る。
時間経過とともにゆっくりと濃度を落としていくマナの魔術障壁……唯一ユリシスを護る術だ。
獣の、地を震わせる咆哮は途絶えず響き続ける。
ユリシスは慌てて周囲に防護魔術を描き始める。だが、既に後手だ。
咆吼の、消えずに一層大きくなる音量にユリシスは顔をしかめて耐えた。
一方、下がった所に居たアルフィード、マナ、ゲドは耳を塞いでいた。
「くっそ、何がおこる!?」
大音量に掻き消されるアルフィードの声。
「……え」
ユリシスだけが異変に気付いた。
自分自身にかけようとしていた防護魔術、魔力に集っていた精霊らが急速に姿を消していく。
術者の放つ魔力波動の中に溢れていた精霊らが一斉に外へ飛び出していく。 ――否、これは……。
「――うそ……」
ユリシスは目を見開いた。
精霊は、吸い出されている。
上を向くと首だけになった獣が宙に浮き、吼えている。
獣――頭だけの獣の周囲に精霊達が集まっていく。引き寄せられているというより、吸い寄せられている
ユリシスの描いていたルーン文字が形を失い、集っていた精霊が霞のように消えていく。
……術の崩壊。
寒気、いや吐き気をユリシスは感じた。
呻きそうなのを飲み込む。代わりに荒い息をこぼした。
「なにこれ……どっかで私……見た気が……」
そう呟いた直後、ユリシスはついに喉そのものを吐き出すように呻く。
息が詰まる。腹の辺りから胸にかけて熱い。
「また……」
ユリシスは眉間に皺を寄せた。
「今は……困る……逃げて来ないで……」
弱々しく懇願するユリシスをよそに、獣に捕まらなかった精霊達が一斉にユリシスの中へ逃げ込みはじめた。
霊圧にユリシスの視界は波打つ。足元が揺れる感覚に酔い、気持ち悪さは酷くなった。
――今、こんな……。
涙目になるのを必死でこらえるユリシス。
今までに二回、同じような状況になった事がある。結果はどちらも気を失ってしまった。
早くこの場から逃げなければいけない。また、意識が失せてしまう――そう思った瞬間だった。
獣の咆哮がピタリと止まる。
ユリシスははぁと熱い息を吐き出した。その視界の端に見えた。
ゆらりと顔を上げ、熱に潤んだユリシスの目が見開く。
紫紺色の瞳には獣の牙が映りこんでいた。
――間にあわな……。
「ユリシス!!」
マナの金切り声が響く。
ユリシスは、それを遠く聞いていた。
逃げ遅れたユリシスの胴に巨大な獣の首が食らい付いた。そのまま咀嚼しようというのか、獣は一番大きな牙をユリシスに刺し込んだまま口を開く。
ゲドが飛び出した。それを追い抜くようにアルフィードが宙を舞う術で獣の首に体当たりをしてユリシスから引きはがし、ぶっ飛ばす。勢い、アルフィードも床へ転げ、何度目かの前転で止まった。すぐに方向感覚を取り戻してユリシスのいる方を向く。
獣の首は壁にべちゃっと激突していた。
ユリシスは床へ崩れていくが、ゲドが受け止めた。
防護魔術もかかっていなかったユリシスの腹に獣の牙の大きさの穴が開いていた。
マナは転げそうになりながらばたばたとユリシスの傍らにすがり付いた。すぐに治癒術を描き始める。唇が震えていた。
マナはユリシスの全身から体温がするりと抜けていくようで寒気を感じた。
「ち、治癒術を試みます。あの、あの獣を……ア、アルフィードと……」
「はっ」
歯の根があわないながらも描くルーン文字には迷いがない。
ゲドは己の怪我を忘れたかのように飛び出す。
「……ちが……こんなの……ちがう……」
震える声でマナが呟く。ユリシスはごぶっと血の泡を吐いた。
「ほ、ほ、ほんとうは、命まで、とろうなんて……思っていないんです……し、死なないで……」
半べそで古代ルーン文字を描く姿からは王女の品格などかなぐり捨てられていた。乱れた髪が震える唇にかかっている。マナは空いた手でユリシスの顎を持ち上げる。気道に詰まるような血は魔術で排除にかかる。
しかし、力の萎えてゆくユリシスの体の内側から光が漏れ出ていく……。逃げ込んでいた精霊らが出ていく。もう、守ってはもらえない、逃げ込んでいられないと、ユリシスを見捨てて――。
獣を押さえ込むゲドもアルフィードも限界だった。倒すつもりでかかっているが、見た目以上に獣はしぶとい。
首だけになった獣だが、灰色だった毛並みは既に青白い色を取り戻している。
精霊を取り込んだ事で回復をみたのかもしれない。
形は首だけなのだが、あるはずのない、目に見えない獣の腕が、爪が、二人を襲う。気配のみでかわすが限界がある。こうなってくると反撃に転じる事も出来ない。
じわじわと傷が重なっていた。
獣は地響きを伴うほどの勝ち誇った声を吐き出すと一気に精霊を吸い込んだ。
この時、マナの目前でユリシスの体が一度跳ねるように大きく揺れた。
アルフィードは薄ら寒い、吐き気すらする喪失感を感じた。
――これが、精霊が食われるという事か……。
妙に納得していた。
その状況にマナは焦りを隠せない。このまま精霊の数が減り続ければユリシスの治癒が間に合わない。
そして、絶望的な状況下、獣の咆哮以上の怒鳴り声が響く。大きな力を伴って――。
「──こんのぉぉ大馬鹿者があああぁぁあああっ!!!」
青白い閃光が部屋を満たした。
光はゆっくりと収束していく。
細くなって消えていくとわかる……光の線は獣とユリシスを繋いでいた。
ユリシスの姿が見える程度には光が細くなるとアルフィードは呟いた。
「おいおい、なんだ、いまの……」
獣は可愛い仔犬ほどの大きさになって、腹立たしいほど切ない声でくぅーんと小さく鳴いた。
ユリシスは上半身を起こして肩を大きく上下させ、はぁはぁと唸っている。
「ユ、ユリシス、あなた、傷が」
開いてしまうと続けようとしたマナをユリシスはぐいと押しやって立ち上がる。血がぼたぼたと落ちた。
立ち上がるといっても身をかがめ、傷を両手で押さえている。
「ユリシス……!」
ユリシスはアルフィードとゲドの眼前を通り過ぎ、ちょろちょろと動き回る仔犬――獣に歩み寄る。
「おまえ、ウィルの精霊か」
獣を見据えるユリシスの口から出るはっきりとした声音は深いはずの傷を思わせなかった。
ゲドもアルフィードも何も言えない。
ユリシスの姿と言えば凄惨なもので、獣の返り血と本人の血で頭からつま先までぐっしょりと濡れている。
マナはただただユリシスの後を追い、治癒の術をかけ続けていた。それはあまりにも現実離れした、滑稽にすら見える姿だった。
「ユリシス、手当てを……」
後ろからマナが声をかけてもユリシスは無視を決めこんでいるかのように振り向かない。いつの間にか背筋さえ伸ばして立っている。
巨大だった獣の頭は今や仔犬ほどの大きさで地を這っていた。それがハッと何かに気付いたように宙へ舞い上がった。
ふわりふわりと浮き上がり、全員の視線を誘導した。
獣が停止した天井付近には白いドレスをまとった熟年の女が戻ってきていた。
「お、お母様……!」
マナはユリシスに対して治癒術を続けながらも声をあげる。が、それを打ち消すようにユリシスが叫ぶ。
「ウィル! ウィル!! 目を覚ませ! そんな女に使役されるな、この馬鹿!」
女が手の平を開いて示すと、獣はふわふわと傍へ近付いた。そのまま女の手の平に“何か”を吐き出した。
女はそれを確認するとゆったりと獣の頭を撫でた。
まるで女と獣だけ違う時を生きてでもいるかのようにマナもユリシスも捨て置かれている。
ようやく獣は顔を向き変え、マナやユリシス達の方を向く。
小さな獣は一気に歯をむき出しにして唸った。力を溜めはじめたのだ。
「――いかん!」
ユリシスが半歩退く。
獣の周囲にどす黒い煙のような影が浮かぶ。
「おい、どうなって……?」
状況についていけないアルフィード。
獣の咆哮は続く。
「……そこまで、そこまで復元していたか!」
ユリシスの声とともに全員の視界が闇に包まれる。
「この、大馬鹿者めが……!」
獣の咆哮にユリシスの低い呟きが飲み込まれた。呟きは呆れであって諦めではない。続きがある。
「――……好きにさせてなるものか……」
薄い金属製の鐘を打つような、鋭い音が一つ鳴った。
直後、ユリシスの居た辺りから青白い光が溢れ、闇の煙を食いつぶす。
すぐに部屋はその光で満たされた。
ルーンの記述を伴わない魔術の応酬に呆気にとられるばかりのマナ、ゲド、アルフィードの三人。
闇が消えると光は一気に収縮し、明るさは元の状態に戻っていた。
獣と王妃の姿も無くなっていた……。
マナとアルフィードは仰向けに倒れたユリシスを見つける。遠目でもわかった。ユリシスは呼吸をしていない。
「おい!! ユリシス!!」
「いけない……」
駆け寄ったマナがそっと治癒術をかけはじめる。集中する事に必死だった。
「悪い……そういう系統の術は苦手で」
そう言ってアルフィードは両手を広げ一気にルーンを描き始める。マナはその補助魔術を使い、治癒術の出力を上げる。
「――いいえ……いいえ……!」
目をぎゅっと細めてマナは首を左右に振った。
――母が何かしている。
今、この皆の怪我もそのせいではないのか。
マナは母の事を口にはしなかった。出来なかった。疑念渦巻く心を隠す事しか出来なかった。
すぐに弱いながらもユリシスの呼吸が戻ってくるとアルフィードが小さく息を吐き出すのがわかった。
治癒をはじめて、マナは不思議な事に気付いた。出血はひどいが、内臓への傷が認められない。獣の牙によって大きな傷が確かに開いていた……はずだ。自分の治癒術以外に何か……。
『――おい』
やや掠れたすっとんきょうな、すがるような女の声だった。
『――……おい』
何度か声は呼びかけていた。その場の誰もが常軌を逸したユリシスの姿に心を奪われ、また治癒に必死だった為、気付かなかったのだ。
「……姫、今――」
やっと、ゲドが……彼の声につられるようにアルフィードとマナが視線を上げた。
そこには豊かな黒髪をたたえた半透明の少女の姿があった。彼女は宙に浮いている……。
瞳の色は、赤と青が交差しながら光を放つ、潤んだ紫紺だった。
『……やばい……肉体なんてとうの昔に失っているのに、ドキドキして死にそうだ』
「お前……?」
アルフィードが呟くように問う。声に聞き覚えがあったのだ。
苦渋に顔を歪める半透明の少女。
『“ユリシス”を、もっていかれた……』
誰にも意味がわからなかった。ユリシスならここに居る。床に仰向けで倒れている。
マナはポカーンと、実に王女らしくない表情でぽつりと呟く。
「あなた……いえそんな……でも、まさか――ディアナディア・ファル・メルギゾーク?」
マナの問いかけに、ユリシス――その少女は強い眼光のまま、小さく頷いた。
紫紺の瞳はこれぞというもので青と赤が炎のように揺らめいて溢れる力に揺れている。
そう、ディアナ――。
メルギゾーク最後の女王。
望めば世界に覇をとなえられた魔道大国メルギゾークを、力によって滅ぼした張本人。